読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第17巻の二つめ、「黒船前後」(服部()(そう)著)を往きの通勤電車の中、中央線秋葉原とお茶の水の間の辺りで読み終わった。

 著者の服部之総はだいぶ年季の入った共産主義者(アカ)学者だが、そんじょそこらのチャラチャラした主義者ではない。記録を見ると2回逮捕されて物相飯(モッソウめし)を喰らい、学界での地位を失っているが、それでもへこたれずに研究し、著作をものして学界に復帰している。しかしまあ、共産主義者のくせに大資本中の大資本、「花王」の重役や取締役をつとめたのは、冗談のようでもあってむしろ微笑ましくもある。

 本書は随筆で、その題の通り黒船の前後の時代について語る表題作の他、明治維新に関連するその他の作品10作の集成だ。その視野の広さと切り口や角度の独自性にはなから圧倒されてしまう。表題作は黒船前後と題されてはいるが、黒船のそのもののことはほとんど語らない。私たちは日本国内から見た黒船の歴史は明治維新と関連付けてよく知るが、一方、ヨーロッパやアメリカから見て、なぜあの時期に黒船が来寇したのかという背景事情には無頓着である。本書は、そうした読者の虚を突くように、当時の欧州経済、大西洋を取り巻く事情などを、「造船技術の急速な進歩」を皮切りとして語りはじめる。

 文章は闊達でこなれた、読みやすい名文だと感じられ、藤井松一による解説にも文章家としての著者について特筆されている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第17巻「黒船前後」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.238より
五 「和親」条約

 旧市場の拡張と新市場の獲得とが問題のいっさいだった産業資本主義発展期の当年にあって、かりそめにも、「和親」はするが貿易はお断りだといった種類の条約が、足かけ五年も続いたというのはどうしたことか! 結婚はあきらめましょう。兄妹としていつまでも愛してちょうだいなどという類のたわごとが、三十代の壮年資本主義国に適用するはずがない。

 ペルリとハリスことにハリスを、幕府がかたくなな処女のように貿易だけはというのを、脅したりすかしたりで結局ものにしたその道の名外交官扱いにするのはかってであるが、しかし「和親条約」はそれだけで立派な存在理由をもっていた。

「亜墨利加船、薪水、食糧、石炭、欠乏の品を、日本人にて調候丈は給候為、渡来の儀差許候」

――サンフランシスコと上海をつなぐうえに不可欠な Port of Call ――ことに石炭のための寄港地として、ヨコハマ浜が是が非でも当年のアメリカに必要だったのである。

言葉
Moods cashey

 短めの一編の表題がこの「Moods cashey」である。はじめ、この言葉が文中に現れたときには、何のことかすぐにはわからなかった。

 この作品の冒頭の一文は次のとおりだ。

p.254より

 How much dollar? を「ハ・マ・チ・ド・リ」と、居留地の人力車夫仲間で決めてしまう。こうしてできた実用英語がピジン・イングリッシュである。

同じく

 これにたいしてピジン・ジャパニーズとでもいうようなものが居留地の外人の間で生まれることも当然である。英語なまりで理解された日本語であり、実用国際語のヨコハマ版であり、欧米人の間で Yokohamaese またはヨコハマ・ジャパニーズと呼ばれたものである。進駐軍の兵士が Oh heigh yoh! と発音するたぐいである。

 「Moods cashey」はこの一編の最後に洒落た感じで書かれる。

下線太字は佐藤俊夫による。p.257より

 それにしてもこの文献が慶応三年以前のものでないことは、さきに述べたところから明らかである。してみると、横浜開港以来八年の歳月を経ており、ヨコハマ・ジャパニーズも、独自の風格をととのえたものとしなければならぬ。事実それは、ととのえている――

 Physician = Doctorsan
 Dentist = Hahdykesan
 Banker = Dora donnyson

 銀行家が「ドル旦那さん」はよいとして、海上保険検査員のことを、

 Serampan funney high kin donnyson にいたってはいう言葉がない。

 大使= Yakamash’sto
 兵士= Ah kye kimono sto

 大使は租界の絶対権者だから、やかましい人にちがいない。横浜のイギリス駐屯軍は赤い制服を着て「赤兵」と呼ばれていた。

 それにしても水兵の Dam your eye sto はどう解するべきであろうか? ずいぶん私は頭をひねってみるのだが、その解答は、単語欄に見出された左の言葉におちつくほかはないのである――

 Difficult = Moods cashey

矗々として

 「矗々(ちくちく)として」と読む。長くて真っ直ぐ、という意味である。

p.262より

雲浜の時代はまだ「討幕」を現前の綱領として出さなかったのに、彼が組織したこの圧力はすぐさまそれをあえてするまで、矗々として成長した。

壅蔽

 「壅蔽(ようへい)」と読む。覆い隠すことである。

p.270より

 非常時京都の警視総監として何よりも検索しなければならぬ「浪士」のなかに、松平容保は他のあらゆるものを――たとえば身分制度に対する、言語壅蔽に対する、外夷跳梁に対する、物価暴騰世路困難に対する彼らの不満を。またたとえば彼らの背後にあるときには「長州」を、後には「薩州」を――認識することができたが、ただ一つ、これらすべてを「歴史」の爆薬に転ずる一筋の黄色な導線にだけは最後まで気がつくことができなかった。

輦轂

 「輦轂(れんこく)」と読む。天皇の乗り物のことである。「輦」も「轂」もどちらも人が()く車のことであるが、「輦轂」と書くと貴人の乗り物全般の意が強くなり、輦台(れんだい)のような、人が担ぐものをも指す。

  •  輦轂(Weblio辞書)
  •  (漢字ペディア)
  •  (同じく)
p.271より

 「攘夷御一決のこの節、御改革仰出され候付ては、旧弊一新、人心協和候様これなく候ては相成らざる儀に候ところ、近来輦轂の下、私に殺害等の儀これあり、……

囂然

 「囂然(ごうぜん)」と読む。やかましいことである。「囂」は訓読みで「かま」と読むようで、コトバンクには「形容詞『かまし』の語幹か」と書かれている。

  •  囂然(goo辞書)
  •  (コトバンク)
p.272より

若御下向遊ばされ候ては天下囂然の節、虚に乗じ万一為謀計者も計り難く候。

 次は同じく17巻から、「蘭学事始」(杉田玄白著・緒方富雄訳)を読む。菊池寛の小説「蘭学事始」や、関連する吉村昭の小説「冬の鷹」は読んだことがあるが、はたしてこちらはどうだろう。

読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第17巻を読みはじめ、最初の「日本文化史研究」(内藤虎次郎著)を往きの通勤電車の中で読み終わった。秋葉原での乗り換え前、仲御徒町の駅辺りであったか。

 著者の内藤虎次郎は戦前に活躍した中国学者である。本文中で何か所も「日本史については私は専門外である」という意味のことを言っているが、その実、東洋文化に関する幅広い視点から日本史を俯瞰し、しかもその通低ぶりたるや、日本史専門の学識をはるかに凌駕するものがある。

 本書は日本文化の概観からはじまり、上古時代、奈良~飛鳥、天平、平安、鎌倉、室町、応仁の乱、江戸や大阪の文化、維新史、日本の自然の風景など、さまざまな部分を取り上げてこれに評論を加えるもので、この巻544ページのうちの216ページを占める大著である。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第17巻「日本文化史研究」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.210より
輸入風景観の堕落

 最近我邦では西洋文化を受入れることになつてからその画法をも伝へるやうになつたが、西洋画を習ひはじめる時に先づ最も感心するのは透視法の応用であつて、これは我邦のみならず、支那においても康熙、乾隆頃、西洋画からして同じやうな影響を受けた。我邦の司馬江漢等の心酔したのもこの点であつたが、その実、西洋の風景画はこれを支那画に比べると極めて幼稚なもので、十六七世紀頃に盛んになつたオランダ派等の風景画でも、支那でいへば十一世紀乃至十三世紀頃の董源、郭熙等のかいた平遠なる風景の画法を好んで用ひるに過ぎない。自己精神を象徴すべくゑがゝれた風景画の起つたのは、最近七八十年この方のことで、その以前の風景画は大部分説明的な、日本でいへば「名勝図会」の挿絵ぐらゐの程度のものが多い。もつとも部分的なスケツチにおいては特種な長所があり、或は又岩とか波とか霧とか光線とかいふやうなものを特別にうまくゑがいたものはある。しかし支那風な構成的な画法においてはその特別な長所が応用せられないところから、西洋風景画の輸入は我風景観に大した影響を与へなかつた。もつとも最近において登山といふことが一種の流行になつたところから、日本の風景に好んで西洋の出店のやうな名称を用ひ、「日本アルプス」「日本ライン」とかいふやうなことが盛んに唱へられるが、それらは多くは詩的若しくは絵画的な芸術眼を必ずしも備へないで地理学、地質学のやうな科学的知識をなまかじりした登山家によつて風景が紹介されるので、素人趣味としても到底芸術的雅趣にはならぬ見方を以て風景を批評するやうな風が起つて来てゐる。一部画家等は又この新流行の悪趣味に捉はれて、如何に風景を画中にとり入れるべきかの考へもなく、たゞ登山家が見て感心するやうな見処をそのまゝ画にしようとつとめて、つまらない失敗を重ねるものが多い。これは実に風景観に関する古来未曾有の堕落といつてもよいのである。

これらの見方は西洋趣味といつても、西洋の芸術家の見方を理解してゐるでもなく、単に西洋風な名目にかぶれて、写真で見た山岳とか渓谷とかの風景で、我邦においてそれに類似したものを拾ひ出して、世界的の景色などと称するに過ぎない。そのいはゆる世界的といふのは、西洋の非芸術家の悪趣味に近いものを日本で見出すだけのことで、日本における特有の景色で他の国にないやうなものを、芸術的にも或は非芸術的にも見出すでもなく、又前にもいつた広重などの如く、読書人階級の趣味以外に新らしき風景の見方を見出すでもなく、或は又蕪村などの如く支那風の手法を用ひながら、日本の或地方において自分の個性で見出した風景を写し出すやうなこともなく、単に新時代において流行的にありふれた景色に心酔してゐるに過ぎない。風景観として最も排斥しなければならぬのはこれらの悪趣味である。

 上の部分は本書の最後のほうに置かれた「日本風景観」という章の一部であるが、もう、似非西洋趣味を排撃してコテンパンである。

言葉

 本書は明治~昭和の初期にかけての戦前の評論なので、古い字づらの言葉が多かった。

動もすれば

 これで「(やや)もすれば」と()む。

下線太字は佐藤俊夫による。p.19より

……外国の材料に依つて研究することは、動もすれば記録の不確実なる朝鮮の歴史から推究さるゝことは寛容しながら、……

 「あと」である。

  •  (モジナビ)
p.22より

……その分布のは近来に至つてますます明瞭になつて来た。

琅玕

 「琅玕(ろうかん)」と読み、碧の宝玉のことである。

p.23より

……恐らく日本人の愛好するが為に特別に製造して輸入したらしく思はるゝ琅玕の勾玉等を見、……

和栲

 これで「和栲(にきたえ)」と訓む。織の細かな布のことである。

p.23より

……当時恐らく日本人は之を以て和栲と称して居つたかと思はるゝので、……

諄い

 「(くど)い」である。「諄々」と書いて「くどくど」と訓む使い方もある。

p.28より

……それまでやりますと余り諄くなりますからやめて置きますが、……

臨菑

 「(リン)()」と読み、中国の地名である。

p.37より

……天主といふものは斉の国の都、臨菑といふ所でありますが、……

竟に

 「(つい)に」と訓む。同じ意味・訓みで「遂に」「終に」などがあるが、「遂に」などがより一般的ではあろう。

p.59より

さういふ関係から日本文化が東洋において、どういふ径路を経て、竟に東洋文化の中心になるか、今日既になりつゝあると思ふのでありますが、……

曩きに

 「()きに」と訓み、「先だって」の意味での「先に」と同じである。

p.75より

……例へば顧凱之の女史箴の巻中にあります人物、其外曩きに日本へ一度来たことがありましたが、買手がないので持つて帰つた閻立本の帝王図巻の人物の姿勢がやはり流動式姿勢を持つてゐます。

摹本

 「()(ほん)」であり、「模本」と同じ意味、すなわち複製のことである。

p.76より

張萱の画はボストンの博物館に宋の徽宗の摹本がありまして、……

態々

 「態々(わざわざ)」と訓む。

p.96より

是は私のやうな別に真言宗の信者でもなく、弘法大師の研究者でもない者が、こんな厚い六冊もある本を何故に態々写して置かなければならぬ程のものかと云ふことを申せば、……

迚も

 「(とて)も」と訓む。

p.99より

私は迚も其処までは研究が届いては居りませぬ。

弥る

 「(わた)る」と訓む。

p.113より

閻立本は唐初の人にして、此等各帝王の時代は数百年に弥れるを以て此等肖像は単に想像によりて画きしものならんとの疑を生ずれども、……

縉紳

 「縉紳(しんしん)」と読み、身分が高く立派な人のことである。「紳士」と同じようなものと思えばよかろう。「縉」は訓読みでは「(さしはさ)む」で、「笏を帯に挟む」意味があり、そのことから身分の高さを言うようである。

  •  縉紳(コトバンク)
  •  (漢字ペディア)
p.120より

……身分高き中央縉紳の生活を模倣せんことを欲求する風盛んとなり、……

滋〻

 「滋〻(ますます)」と訓む。ネット上には「滋〻」での訓みや意味はヒットしないが、用例として「法令(ほうれい)滋々(ますます)(あきら)かにして盗賊(とうぞく)多く有り」などというものが見つかる。「滋」という字には「ふえる・ます」という意味があるので、このように訓むのである。

p.121より

支那肖像画の流行は、唐以来滋〻盛んにして、士大夫の間まで拡がり、……

却々

 「却々(なかなか)」である。仮名で「なかなか」と書く場合と意味は同じである。

p.132より

却々面白い。

暹羅国

 「(せん)()(こく)」と読む。「暹羅」とだけ書けば「シャム」と訓み、言うまでもなくこれは現在のタイ付近のことである。今も「日」「米」「英」などと同じく、タイのことを一字のみで表す場合に、古い書き方では「暹」とする場合がある。

p.143より

羅斛は今日の暹羅国の一部分であつて、支那の元代に出来た島夷志略には……

纔に

 なんて難しい字を書くことだろう。拡大すると「纔」で、訓みは「(わずか)に」である。

  •  (コトバンク)
p.181より

……纔に百余年前にその国訓の附いた文字だけの抄録本が先づ世に行はれたが、……

幽邃

 「幽邃(ゆうすい)」と読む。奥深く静かなことを言う。

p.203より

道教の方からいへば、支那で最も風景の幽邃なところを三十六洞天、七十二福地などゝいふ風に選定して、……

峰巒

 「峰巒(ほうらん)」と読む。単純に山岳の峰のことを言う。「巒」は「やまなみ」を表す字である。

  •  峰巒(コトバンク)
  •  (モジナビ)
ルビは佐藤俊夫による。p.210より。

……山の(みゃく)(らく)、水の原委を峰巒樹石の間に見え隠れにゑがくといふことなどは、初めは最も新しい手法であらうが、……

 次は同じく17巻から、「黒船前後」(服部()(そう)著)を読む。

読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻の三つ目、「歴史とは何か」(G.チャイルド Vere Gordon Childe著・ねず まさし訳)、本文を往きの通勤電車の中で、解説を帰りの通勤電車の中で読み終わった。

 著者のチャイルドはオーストラリアの学者で、「マルクス主義考古学」なる変わった学問の提唱者である。

 本書は、歴史をさまざまな学問の分野から見るとき、例えば工業技術の歴史から見るとき、あるいは文字から文学への変遷の歴史から見るとき、また宗教史から見るときなど、様々な角度からどのように歴史を読み解くことができるかを論じている。結論に近づいていくにつれて、結局は次第にマルクス主義礼讃の筆致へと傾いていくが、そこが難点と言える。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「歴史とは何か」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.574より

 旧石器時代の狩人は、マンモス狩りのときには自分の一族の助けを必要とした、もっとも当時の装備があまりに貧弱であって、孤立している個人では、マンモスの群れを向こうにまわして大したこともできなかった、という事情にもよるのである。近代のライフル銃一(ちょう)をもっていれば、ヨーロッパ人ひとりでも、やすやすとゾウをうつことができるし、この点に関するかぎり、彼は旧石器時代の祖先よりも独立しているのである。ところが、この狩りをするときにもっている独立性たるや、彼が猟銃や弾薬の生産と分配に従事するすべての人々に依存しているために、得られたわけである。狩人として石器時代の未開人よりもすぐれた資格をもたせる、ただひとつのこの道具を手にいれるためには、彼はこれらの未知の人たちすべてとの間に、人間としての関係ではなくて、また自分の意思とも関係のない関係をむすばなければならなかった。

p.582より

 また「人間は自分の歴史を作るとはいえ、それは共同計画にしたがって共通の意思によるのではない、それどころか、ひとつの特定の構成をもつ社会のなかでつくられるのでもない。万人の努力は衝突する。そしてまさにこのゆえにこそ、こういった社会はすべて必然性によって支配されるのである。この必然性は偶然によって補なわれ、また偶然という形をとって出現するのである」(エンゲルス「シュタルケンベルクへの手紙」、選集、英語版三九二ページ――著者注)

 この部分などは、全体主義、結束、一本化、統一といったことと対極にあるものの考え方を示していると思う。

 次は第17巻である。第17巻は日本の著作ばかりで、「日本文化史研究」(内藤虎次郎著)「黒船前後」(服部之総著)「蘭学事始」(杉田玄白著)「おらんだ正月」(森銑三著)の四つである。

読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻の二つ目、「世界文化小史 A short history of the world」(H.G.ウェルズ Herbert George Wells著・藤本良造訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。中央線水道橋のあたりだった。

 著者ウェルズはSF小説の創始者として誰知らぬ人のない大家であるが、平和運動や歴史書の執筆でも多くの功績がある。本書は第16巻約600ページのうち300ページ以上を占める大著なのだが、これをしもウェルズは「小史 short history」と題している。さもあろう、ウェルズは本書より先に厖大浩瀚(ぼうだいこうかん)の一大著作「世界文化史」を(あら)わしており、本書はその入門編であると自身の手になる序文に記しているのだ。

 本書はなんと、地球の生成から語り始められ、一気呵成に第2次世界大戦前夜までを語り尽くす。欧州史に重心が置かれていることはウェルズの立場から言って当然ではあるが、公平にアラビアや東洋についても語られ、日本についても特に一項を割いてその歴史を通観している。

 著述の姿勢は実に公平・公正と言える。戦争について記すにしても、弱者が劣っていた、誤っていた、敗者がすべて悪かった、というような見方を徹底的に排除しているように感じられる。

 ここで、翻訳者藤本良造による看過すべからざる悪辣な加筆が加えられていることを指弾しておかねばならぬ。解説に記されているが、藤本は翻訳するにあたり、第2次大戦後に出された本書の改訂版に、ウェルズによって付け加えられた巻末の「補遺」を「大した意味がない」(p.499の藤本による解説)として切り捨て、あたかもウェルズの手になるかのような誤解を招く形で自分が書いた文章を挿入しているのである。その文章は下手糞な筆致で敗戦した日本への不満を垂れ流したものであり、歴史に冷静な視線をもって対しているとは言いがたく、ウェルズの公平無私の著述態度とは正反対の下らないものだ。ウェルズの闊達で俯瞰的な姿勢には到底及ばない。この無残な改変は原書に対する甚だしい侮辱であり暴挙であって、翻訳の労による折角の功績をゼロにするばかりか、マイナスにもしかねない。藤本は「ウェルズはこの改変を許すであろう」という意味のことを書いているが、こんな下らぬ内容の文など決して許されまい。その一点のみ、読書していて残念であった。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「世界文化小史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.227より

 どんな未開人でも一種の因果論をもたないほど低級なものはない。しかし原始人は因果関係についてはあまり批判的ではなかった。かれらはひじょうに簡単に一つの結果を、その原因とはまったく異なった他のものに結びつけてしまうのである。「そうしたからそうなった。だからそうすればそういうことになる」と考える。子供にある果実を与えると幼児は死ぬ。剛勇な敵の心臓を食べれば強くなる。この二つの因果関係の一つは真実であり、一つは誤りである。われわれは未開人の考える因果の体系を「庶物崇拝」と呼んでいる。しかし庶物崇拝はたんに未開人の科学にすぎない。それが現代の科学と異なっているのは、それがまったく非体系的、非批判的であり、それゆえに時々誤っていることである。

 原因と結果を連絡させるということが困難でない多くの場合もあり、また誤った考えが経験によってただちに訂正される場合もたくさんあった。しかし原始人にとってひじょうに重大な出来事のうちには、かれらが辛抱強くその原因を探求して発見した説明が誤ってはいたが、といってその誤りを見破られるほど、明白な誤りでもなかった場合が数多くあった。狩りの獲物が豊富なことや、魚がたくさんいて容易に獲れるということは、かれらにとっては重大な事柄であり、たしかにかれらは無数の呪文や前兆によって、この望んでいる結果の解決をえようと試みたり信じたりしていた。

p.228より

原始宗教はわれわれがいま宗教といっているようなものではなくて、むしろ習慣であり、行事であり、初期の聖職者が指図したことは、実際には独断的で原始的、実用的な科学だったのである。

p.334より

どんな帝国も、どんな国家も、どんな人類社会の組織であっても、つまるところは理解と意思によって成り立つものなのである。ところがローマ帝国のための意思はなにものこっていなかった。そしてローマ帝国は崩壊していったのである。

p.350より

九世紀の初めのイングランドは、シャールマーニュの臣下のエクバート王が支配するキリスト教化された低ゲルマン語国であった。ところがノルマン人はこの王国の半分を、エクバート王の後継者であるアルフレッド大王(八八六年)から強奪し、ついにはカヌート(一〇一六年)の指揮のもとにその全土の支配者となった。また一方のノルマン人の隊長ロルフ(九一二年)のひきいる別の一群のノルマン人はフランス北部を征服したが、これはノルマンディ公国となった。

 カヌートはイングランドだけでなくノルウェーやデンマークさえ支配していたが、そのはかない帝国はかれの死によって、領地をその息子に分配するという未開種族の政治的な欠点のために分裂してしまった。このノルマン人の一時的な統一が継続されたとしたら、どんなことになったかを考えてみるのは面白いことである。

p.425より

人間はもはやたんに無差別な動力の源泉として求められはしなくなった。人間によって機械的になされていたことは、機械によってさらに速く、いっそう巧みになされるのであった。人間はいまや選択力と知性を働かすべきときだけに必要となった。人間は人間としてのみ要求されるようになった。これまでのすべての文明を支えていた労役者、たんなる服従の動物、頭脳のない人間、そうしたものは人類の幸福には不用のものとなったのである。

 上の部分は産業革命について述べた部分であるが、これについてはしかし、多少疑問も覚える。というのは、現在も同じようなことが人工知能(AI)に関して言われているが、労役者としての人間が不要とされる時代はこの情報革命後の現在においても、結局来てはいないからである。

p.452より

 ロシア軍は、指揮も下手で供給品にも不正があったため、海上でも陸上でも敗北した。しかもロシアのバルチック艦隊はアフリカを回航していったが、対馬海峡で完全に撃滅されてしまった。そしてこうした遠方での無意義な殺戮に憤激したロシア民衆の間には革命運動が起こり、そのためにロシア皇帝は仕方なく戦争を中止することにしたのであった(一九〇五年)。かれは一八七五年にロシアが奪った樺太(からふと)(サハリン)の南半分を返し、撤兵して朝鮮を日本にまかせた。こうしてヨーロッパ人のアジア侵略は終りとなって、ヨーロッパの触手は収縮し始めたのである。

 そうした意思を日本が持っていたかどうかは別として、欧州人の東亜侵略を他ならぬ日本が終わらせたのだとウェルズは言っているわけである。私がウェルズの著述姿勢を公平無私であると思う所以(ゆえん)は、こうしたところにある。

言葉

 これで「(けり)」と()み、チドリ科の鳥の一種のことなのだが、本書中では次のように使われている。

下線太字は佐藤俊夫による。訳者藤本良造による「補遺」p.477より 

そして交渉の結果は、ついにソヴェトの連続的爆撃によって高価にはついたが三ヵ月の後に、ともかくも問題の(けり)はつけられることになった。

 「ケリをつける」という慣用句のよってきたる(いわ)れは、文語体の助動詞の「けり」が、文の「おしまい」を「切る」働きがあることから、「おしまいにする」「結論を出す」というところにある。俳句の切れ字で「やみにけり」などと句の終わりなどに使われることからもわかる通りだ。

 だが、古い文章などでは洒落(シャレ)のめしてか、この「鳧」という字を使うことが多いようだ。しかし、鳥の鳧と、ケリをつけるという意味の「鳧」との間には、直接の繋がりはない。

 次は同じく第16巻から「歴史とは何か History」(G.チャイルド Vere Gordon Childe著・ねず まさし訳)を読む。著者のチャイルドはオーストラリアの学者で、「マルクス主義考古学」なる変わった学問の提唱者である。

圧巻

投稿日:

 最近、「ものすごく圧倒されるような、壮大な感じ、気圧されるような感覚」というような意味で「圧巻」という言葉を使っている人をよく見かけますが、それは使い方が間違っています。

 ……と言っても、多分、わかってもらえないということは、これも分かっています。

 多分「圧」という字の持っている感じと、「巻」という字の読みが「かん」「感」と混交して、そういう使い方をしてしまうのだと思います。

 しかし、言葉が違う意味で定着してしまうということはよくあることで、私のような一般人は、ムズムズと違和感を覚えつつ、我慢をしていくよりほかにありません。

 一番より抜きのところ、出色の所……というほどの意味から、例えばコンサートで演奏の一番盛り上がったクライマックスや山場を「圧巻」というのは、これは合っていると思います。ところが、今日読んだ文章の中に、

女優としての再出発…消えた千栄子を探し求めた人気芸人とは」(幻冬舎 GOLD ONLINE、青山誠、令和3年(2021)03月13日(土)00時00分)より引用。下線太字は佐藤俊夫による。

 千栄子が東亜キネマを辞めて京都を去った後の昭和4年(1929)には、鉄筋コンクリート4階建ての巨大劇場に建て替えられた。

 桃山風の大きな屋根がそびえる圧巻の眺め……。その威容に松竹の資本力を思い知らされる。

……というプロのライターの書いたものがあって、この「圧巻」は多分、間違えて覚えているんだろうな、「壮観」「威容」というような言葉と混同しているんだろうな、いくつもの著作をものしている文筆のプロでもそうなんだから、他は推して知るべし、……などとと思う次第です。


 この文章は、上左に掲示のとおり、最初は Facebook と Twitter に書いたものである。

()からざらん()

投稿日:

 天皇誕生日によせた祝日エントリで、筆のすさびならぬ、キーボードの進むままに「()(たっと)()からざらん()」などと書き結び、書いてからふとこの一文が気になった。

 「べからざらんや」というのが、人様にわかってもらえるかどうか、気になったのだ。

 Googleで「べからざらんや」を検索すると、なるほど、「Yahoo!知恵袋」などがヒットしてくる。学生らしい質問者が国語の勉強の上でだろう、「どういう意味でしょうか」と問うているわけである。

 教科書的な回答が数多くあるが、しかし、私としては次のように説明を試みてみたい。

 「祝う」という語が「祝うべからざらんや」となるまで、反語で強められていく変化の過程を例に示すことで説明に代えたい。

口語体 文語体
祝う 祝ふ
祝うべきだ 祝ふべし
祝うべきではない、祝ってはならない 祝ふべからず
祝ってはならない(もの) 祝ふべからざる(もの)
祝ってはならないだろう 祝ふべからざらん
祝ってはならないだろうということがあるだろうか?(いや、そんなことはない) 祝ふべからざらん

 このように変化させて考えていくと、文語的表現はピシリと引き締まり、文字も少なくてすむことがよくわかる。

 私は俳句を詠むのが趣味だが、五・七・五の限られた文字数でできる限りの表現をしようとすると、文語体の方が色々詰め込むことができる、ということは上のようなことからも多少否めないと思う。

切立(きったて)

投稿日:

 以前から、円筒状の、真っ直ぐなマグカップで、大きさは ⌀7cm×T8cmくらいで、容量は200~250ccくらいの小さめのもの、そして何より、「無地の白」のものが欲しいと思っているのだが、これが店頭にはなかなかない。

 趣味の合わない絵柄が入ったものは結構あるのだが、「無地の白」がないのだ。

 こういう時は迷わず「Amazon」だろう、と思い、探してみると左のリンクのようにあることはある。

 ただ、Amazon Prime ではなく、マーケット・プレイスのほうの出品なので、値段は納得感はあるが、送料の\695は如何(いか)にも高く、パッと買おうという気にはならない。

 これが、350ccくらいの、少し大きいものならば Prime にあるのだ。右のリンクがそれだ。

 だが、350ccもの大きさは、ちょっと私には大き過ぎるのである。

 実は、コーヒーは、私は一度に500ccほどは飲んでしまう。カフェイン中毒だからである。だが、この量を大きいマグでまかなうと、飲んでいるうちに最後のほうがぬるくなり、コーヒーが不味(まず)くなってしまうのだ。それで、200ccくらいのマグで2杯飲むと、2杯目に再び熱いのが飲めるので、美味しいのである。

 「無印良品」あたりにないかな、と足を運んでみたが、ない。

 そんなことをしているうちに知ったのだが、この「真っ直ぐな円筒状」の陶磁器のデザインのことを、標記「切立(きったて)」と言うそうな。陶磁器業界の用語であるように思われる。

 どこかに安く置いてないものかしらん、「白・切立・200ccくらいのコーヒーマグ」。

現代語を学ぼう

投稿日:

 私は言い方、書き方が古臭いということを反省している。

 反省の結果、現代語を学ぶことにした。何語かを覚えることができたので、下に書き留めておきたい。

私の言葉 現代語
 うだるような暑さ  やっべ、チョーあっつィ!
 大変おいしい  やっべ、マジうめェ!
 これまでに食べたことのない美味しさ  やっべ、チョーうめェ!
 外患  やっべ、中韓マジやっべ!
 新型コロナウイルスのために被害が拡大している  やっべ、コロナ、チョーやっべ!
 朝鮮半島北側より弾道ミサイルらしきものが発射され、関東地方に着弾する恐れがある  やっべ、マジ、チョーやっべ!
 提出物を出し遅れた  やっべ、マジ、チョーやっべ!
 失職しそうだ  やっべ、マジ、チョーやっべ!
 失禁しそうだ  やっべ、マジ、チョーやっべ!
 やべェ!  やっべ、マジ、チョーやっべ!

読書

投稿日:

 躑躅(つつじ)がすべて散り、(はな)皐月(さつき)が盛りである。時疫(じえき)最中(さなか)ではあるが、時間は静謐(せいひつ)に過ぎていく。

 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」を先ほど読み終わった。

 この巻収載の最後の作品は「菊と刀――日本文化の型」(R.ベネディクト(Ruth Benedict)著)であった。

 戦時中に研究が始められ、終戦近くから戦後すぐにかけての時期に出版された本である。著者のベネディクト博士は対日戦のために日本研究を米国政府から委嘱され、見事な手腕で研究を完成させ、戦争に寄与加担した。

 この書は終始一貫して冷ややかな目線で論理が進められていく。日本人に対する素朴な尊敬などはそこに感じられず、あまり愉快な読書とは言えなかった。また、分析されている日本人像は、日本人からすれば既に今は存在しない日本人の姿であって現在からは到底想像もつかず、かつまた、記憶に残る古き良き日本人でもなく、あるいは記憶に残っていてもよほど極端な例ではないかと思われたり、色々と違和感があった。

 例えば日本人特有の「恩」「義理」「恥」について「それは欧米にない思考原理や感情である」と論じているところなど、確かに戦前戦後一貫した歴史をそのまま歩み続けている欧米諸国にとってはハナっから恩や義理や恥なんてものは存在していないのかもしれないが、今や恩知らずの不義理人ばかりが幅を利かせ、廉恥(れんち)の心など一掬(いっきく)だに持ち合わせなくなり、欧米人の悪質な劣化コピー人種に過ぎなくなってしまった現在の日本人にはまったく当てはまらず、逆に、この「菊と刀」を元に往時の日本人をリアルに想像することは難しい。

 また、部分によってあまりにも赤裸々に事実を指摘するのであるが、その指摘の仕方が冷笑的であり、不愉快でもあった。更に不愉快なことは、戦後すぐに書かれた巻末近く、まるで予言のように現在の日本の姿を言い当てていることだ。それがズバリと当たっているだけに、ウンザリとしてしまう。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」のうち、「菊と刀」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.402より

また軍隊では家がらではなくて、本人の実力次第で誰でも一兵卒から士官の階級まで出世することができた。これほど徹底して実力主義が実現された分野はほかにはなかった。軍隊はこの点で日本人の間で非常な評判をえたが、明らかにそれだけのことはあったのである。それはたしかに、新しくできた軍隊のための一般民衆の支持をうる最良の手段であった。軍隊は多くの点において民主的地ならしの役目を果たした。また多くの点において真の国民軍であった。他の大多数の国々においては、軍隊というものは現状を守るための強い力として頼りにされるのであるが、日本では軍隊は小農階級に同情を寄せ、この同情が再三再四、軍隊をして大金融資本家や産業資本家たちに対する抗議に立たしめたのである。

 上のあたりは、五・一五事件や二・二六事件などを抽象的に指している。

p.407より

 中国語にも日本語にも、英語の`obligation'(義務)を意味するさまざまな言葉がある。これらの言葉は完全な同意語ではなく、それぞれの語がもっている特殊の意味はとうてい文字通り英語に翻訳できない。なぜなら、それらの語の表現している観念はわれわれには未知のものであるからである。大から小にいたるまで、ある人の負っている債務のすべてをいい表わす`Obligation’にあたる言葉は「オン」(恩)である。日本の習慣ではこの言葉は`Obligation’`loyalty'(忠誠)から`kindness'(親切)や`love'(愛)にいたる、種々さまざまの言葉に英訳されるが、これらの言葉はいずれも、もとの言葉の意味をゆがめている。もし「恩」がほんとうに愛、あるいは義務を意味するものであるとするならば、日本人は「子どもに対する恩」ということもできるはずであるが、そういう語法は不可能である。またそれは忠誠を意味するものでもない。日本語では忠誠はいくつかの別な言葉で表現されるし、それらの忠誠を意味する言葉はけっして「恩」と同意語ではない。「恩」にはいろいろな用法があるが、それらの用法の全部に通じる意味は、人ができるだけの力を出して背負う負担、債務、重荷である。人は目上の者から恩を受ける。そして目上、あるいはすくなくとも自分と同等であることの明らかな人以外の人から恩を受ける行為は、不愉快な劣等感を与える。日本人が「私は某に恩をきる」というのは、「私は某に対する義務の負担を負っている」という意味である。そして彼らはこの債権者、この恩恵供与者を、彼らの「恩人」と呼ぶ。

 上の部分は、むしろ逆に、「欧米には『恩』という概念がないんだ」と私に教えてくれた。道理で、欧米化が進むほどに恩知らずが増えるわけである。また、上のベネディクト博士の指摘は正しいようにも感じられるが、「恩」というものが義務とか債務とか言った嫌なものとしてとらえられており、「恩」にはそういう嫌な側面もありつつ、「恩」というものが持つ、もっとあたたかい、しみじみとした安らぎや信頼が言い当てられていないところが片手落ちであり、欠点であると思われた。

p.515より

 日本が平和国家としてたちなおるにあたって利用することのできる日本の真の強みは、ある行動方針について、「あれは失敗に終わった」といい、それから後は、別な方向にその努力を傾けることのできる能力の中に存している。日本の倫理は、あれか、しからずんばこれの倫理である。彼らは戦争によって「ふさわしい位置」をかちえようとした。そうして敗れた。いまや彼らはその方針を捨て去ることができる。それはこれまでに受けてきたいっさいの訓練が、彼らを可能な方向転換に応じうる人間につくりあげているからである。もっと絶対主義な倫理をもつ国民ならば、われわれは主義のために戦っているのだ、という信念がなければならない。勝者に降伏したときには、彼らは、「われわれの敗北とともに正義は失われた」という。そして彼らの自尊心は、彼らがつぎの機会にこの「正義」に勝利をえさしめるように努力することを要求する。でなければ、胸を打って自分の罪を懺悔する。日本人はこのどちらをもする必要を感じない。対日戦勝日の五日後、まだアメリカ軍が一兵も日本に上陸していなかった当時に、東京の有力新聞である「毎日新聞」は、敗戦と、敗戦がもたらす政治的変化を論じつつ、「しかしながら、それはすべて、日本の窮極の救いのために役だった」ということができた。この論説は、日本が完全に敗れたということを、片時も忘れてはならない、と強調した。日本をまったく武力だけにもとづいてきずきあげようとした努力が、完全な失敗に帰したのであるからして、今後日本人は平和国家としての道を歩まねばならない、というのである。いま一つの有力な東京新聞である「朝日」もまた、同じ週間に、日本の近年の「軍事力の過信」を、日本の国内政策ならびに国際政策における「重大な誤謬」とし、「うるところあまりに少なく、失うところあまりにも大であった旧来の態度を捨て、国際協調と平和愛好とに根ざした新たな態度を採用せねばならない」と論じた。

p.519より

 ヨーロッパ、もしくはアジアのいかなる国でも、今後十年間軍備を整えない国は、軍備を整える国々を凌駕する可能性がある。というのはそういう国は国富を、健全な、かつ富み栄える経済をきずきあげるために用いることができるからである。日本は、もしも軍国化ということをその予算の中に含めないとすれば、そして、もしその気があるならば、遠からずみずからの繁栄のための準備をすることができるようになる。そして東洋の通商において、必要欠くべからざる国となることができるであろう。その経済を平和の利益のうえに立脚せしめ、国民の生活水準を高めることができるであろう。そのような平和な国となった日本は、世界の国々の間において、名誉ある地位を獲得することができるであろう。そしてアメリカは、今後もひきつづきその勢力を利用して、そのような計画を支持するならば、大きな助けを与えることができるであろう。

 最初に書いた「現在の日本をズバリと言い当てている箇所」というのが上の部分と、それに引き続く、ここには引用しなかった一連の部分である。引用しなかった部分には、東西冷戦とそれへの日本のかかわり方への危惧が予言されている。ウンザリとしながらも、同時に、東西冷戦など始まる前に出された論文なのに多くは正しく将来の日本を言い当てており、その超能力者めいた的中っぷりにゾクッとする。

 否、むしろ、ベネディクト博士の提言に合わせてアメリカが対日政策を形作ったから、当然そうなったのだろうか。

言葉
夙夜

 これで「夙夜(しゅくや)」と()む。「朝から晩まで」、ひいては「常々(つねづね)」というような文脈で使う言葉である。

下線太字は佐藤俊夫による。p.378より

大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕カ夙夜眷々措カサル所ナリ

警め

 「(いまし)め」と訓む。「戒め」と通用には書かれるようであるが、厳密には「戒」の用字だと「処罰する」意味合いが強く、「前もって注意しておく」意味に薄い。他方、「警め」は「警告」というような単語もあるところからも分かる通り、前もって注意しておく意味合いが強い。

p.460より、ルビは佐藤俊夫による。

「例(すくな)からぬものを深く(いまし)めでやはあるべき」

 次の読書は、引き続き同じ平凡社世界教養全集から、第8巻「論語物語/聖書物語」である。

読書

投稿日:

 晩春となった。躑躅(つつじ)の盛りが過ぎ、そこここで花水木(はなみずき)が咲いている。間もなく立夏で、今は丁度(ちょうど)夏隣(なつどなり)だ。世界的な悪疫が流行中ではあるが、そのようなことなど知らぬげに季節はどんどん過ぎてゆく。

 引き続き約60年前の古書、平凡社世界教養全集を読み進めている。

 第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」のうち、四つ目の「ニッポン」(B.タウト著)を今朝の通勤電車の車内で読み終わった。

 通勤電車は疫禍(えきか)のため通勤客が少なく、さすがに()いていて、ゆっくり読書できる。

 「この折柄にゆっくり読書とは何事か」と叱られそうな気がするが、電車内で他にすることもないので仕方がない。「大きな損の後には小さな得がある」というのはたしかアメリカの俚諺(りげん)だっかどうだったか。ゆっくり読書できるというのも、小さな得と言えなくもない。

 さて、著者のタウトは知る人ぞ知る建築家である。戦前に来日し、桂離宮を見て感銘を受け、伊勢神宮をはじめとする日本の建築に芸術を見出し、これのみならず日本人をも激賞した。残念ながら日本での建築作品はないが、親日家として知られる。

 後の「桂離宮ブーム」は、タウトによって起こされたのだという説も根強い。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第7巻「秋の日本/東の国から/日本その日その日/ニッポン/菊と刀」のうち、「ニッポン」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.282より

 日本文化が全世界の諸国民に送ったところのものに、いささかでも理解をもつ人は、親しく伊勢に詣でねばならぬ。彼はそこに日本文化のもついっさいのすぐれた特性が、混然と融合して一つのみごとな結晶をなしているのを、――したがって単なる国民的聖地以上のものを見出すであろう。

 約言すれば、外宮をもつ伊勢は、およそ建築の聖祠である。

p.329より

 世界歴史のうちでも、日本の近世史はとりわけ異色がある。一八五七年の明治維新は、天皇を政治的にも国家の至高に戴き、それまで独裁的権力者であった将軍の支配権をくつがえした革新である。しかもこの転覆の真因が、日本の国土をヨーロッパの工業や戦争技術を摂取するために開放するところにあったことは、もっとも特異な点である。つまり日本は、ヨーロッパおよびアメリカの技術的進歩に対抗して、東洋の植民地化を避けようとしたのである。またこの大業は、日本の洗練せられた文化とこの島国に古来当然のこととして厳存する帰一思想との総体であるところの天皇の旗のもとに成就せられたがゆえに、特異なのである。これに反して、それまで政治的権力を掌握していた将軍は、この国が政治的独立を維持していくためには、必然的に没落せねばならなかった。つまり単なる独裁的権力の視野は、広義の政治的意味においてすらなお狭きにすぎ、結局、天皇派のいっそう広い視野に席を譲らざるをえなかったのである。天皇派は日本を愛するがゆえに、この国を世界全体の一部と見なすことができた。ところが、これは単なる権力者にとっては、まったく不可能なことであった。

 このようにして日本人はひかえめ、勤勉及び形の精緻などに関するきわめてすぐれた伝統をもって、ヨーロッパの技術の研究と移植とに努め、生来の高い技術的才能によって、短日月の間にヨーロッパの技術を摂取し、独立の発明家ないし研究家として世界の諸列強に伍するにいたった。今日の日本にひかえめ及び勤勉等の特性が卓越しているのも、また多数の近代的諸施設や大学あるいは研究所などが模範的活動を営んでいるのも、さらにまた鉄道や汽船および一般に交通機関の操作のごとき技術が先進諸国に比して多大の優越を示しているのも、所詮は伝統的にすぐれた日本精神の具現にほかならない。

 上の部分の褒めちぎりっぷり。現代に書かれたものではない、戦前に書かれたものだ。戦前の日本の交通機関も、今と同じように世界的水準に、すでにあったのだということがここから推察できる。

言葉
嗤笑

 「嗤う」も「笑う」も訓みはどちらも「わらう」であるが、「嗤」のほうの音読みは「シ」で、「嗤笑」と書いて「ししょう」と()む。「笑」に比べて、「嗤」という漢字には相手をバカにしてせせら笑っているニュアンスがある。つまり、「嗤笑(ししょう)をかう」というと笑われている方はだいぶ恥ずかしい笑われ方をされている、と言える。

下線太字は佐藤俊夫による。p.335より

一八ニ〇年ごろ、十二月党員が蜂起したときに、プーシキンの一団をめぐる若い貴族たちは、国民とくに農民への愛を表示するために、実用的でしかもよく似合うロシア農民の上衣をきて貴族階級を驚倒させ、同族のみならず家族の嗤笑をすらも買ったのである。

広袤

 広袤(こうぼう)と訓む。「広」は読んで字のごとく広さ、「(ぼう)」は長さのことで、「広さや長さ」のことを広袤という。さらに言うと、中国の用字では「広」とは東西の長さ、「袤」とは南北の長さなのだそうである。

p.343より

日本はその文化的発展全体からみて、広大な広袤を有する国ではなく、繊巧でこまやかな人間性をたたえた国土であるから、この種の建築物は、日本にとってとくに困難な課題にならざるをえない。

論攷

 「論攷(ろんこう)」と訓む。意味は「論考」と同じであるが、「攷」という字には「打つ、叩く」という意味がある。(おん)が「コウ」であるところから「考」にも通じて、非常にしっかりと考えを突き固め、極めるという意味があるのだ。

p.348、篠田英雄氏による「解説」より

 タウトには、来日以前にも、名著とうたわれた『現代建築』のほかに、十指に余る著作がある。しかし『日本建築の基礎』『日本の芸術』、彼の日記『日本』、また訳者が彼の代表的な論文と小品および日記の一部とを編集した『日本美術の再発見』や、さらにまた「日本をへた」彼の体系的建築論ともいうべき『建築論攷』および『建築芸術論』などの、日本に関する一連の著作をあわせると、量においても彼の旧来の著書全体に優に匹敵するであろう。

 次はR.ベネディクト(Ruth Benedict)の「菊と刀――日本文化の型」である。