引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読む。第19巻の四つ目、最後は「悪魔の弁護人 The Devil’s Advocate」(J・G・フレーザー著、永橋卓介訳)である。休暇中の夕刻、自宅で読み終わった。
著者フレーザー卿は江戸時代末期に生まれ、明治時代から戦前にかけて英国で活躍した学者である。英国社会人類学界の総帥と仰がれた大学者だ。特に民俗学に計り知れない影響を持った。
本書は現代の社会制度の発展に及ぼした太古の迷信の影響を取り扱ったものだ。私には、表題を見ても初めは何の本だか分らなかった。世界教養全集のこの巻は、ほかの3書が考古学に関するものなのでこれも考古学なのかな、と思ったら違っていた。ただ、現在の未開の民族の風習から太古を推定し、そこから現代の社会制度の成り立ちについて考察するというものであるから、必ずしも考古学と無関係ではない。
アフリカやアジア、太平洋・大西洋の島嶼、米大陸、オーストラリアなど、世界のあらゆる地域の未開民族にみられる迷信の類を、特に「政治」「所有権」「結婚」ないし「性的道徳」「人命尊重」の4つの観点から観察し、逆に現代人の社会を支えるこれら4つの要素の萌芽が、太古の迷信から生み出されたものに相違ないと喝破する。その例証として、世界各地の未開民族の奇怪にも感じられる様々な迷信が、これでもかというほどの徹底ぶりでいくつもいくつも並べられる。
表題の「悪魔」とは、著者の側から見た「迷信」のことであり、「弁護人」というのは、太古の迷信が現代社会を形作るための基礎となっていることからこれを弁護するという意味である。
気になった箇所
他の<blockquote>タグ同じ。p.446より
時代の進歩とともに、道徳はその立場を迷信の砂地から理性の岩盤に、想像から現実に、超自然から自然にと変えてゆくのである。国家は今日でも、死霊の信仰が崩壊したからといって、その平和的な人民の生命保護をやめはしない。国家は「生命の樹」をねらい寄る者を正義の炎の剣をもって防衛するために、老婆の昔話よりもいっそう適切な理由を発見したのである。
迷信は民衆に、正しい行為に対する動機を――たしかに誤った動機ではあったが、それを提供した。誤った動機をもって正しい行為をなすことのほうが、最上の意図をもって誤った行為をなすことよりも、はるかに世界のためによいのはいうまでもない。社会の関心事は行為であって意見ではない。行為が正義にかない善でさえあれば、意見が誤っているくらいなことは、社会にとってはべつになにほどのこともないのである。
上の2か所は本書のだいぶ後の方、既に世界各地の未開民族の奇習をこれでもかと大観詳察したあとに置かれた、結論に近い部分だ。世界の未開民族は、例えば「人命保護」のためには、「人を殺すと、その死霊に呪い殺される」「それを防ぐために、魔法の薬やまじないの祭りをする」などという迷信により、人を殺すことを防いでいる。それが、鬼神や悪霊が、時代に従って、次第次第に法律や刑罰に入れ替わっていったのだ、と著者は指摘する。現代でも、例えば我々日本人なら、小さい子が汚いものを口に入れようとしたり、他人に暴力をふるったりしたとき、「メッ。そんなことしたら、神様のバチがあたるよ」などと脅かすことがあるが、結局のところ、太古は小さい子ばかりではなく、大人までが「バチ」という迷信を信じていたのであり、それが悪事のブレーキになっていた。
言葉
鰥夫
「鰥」という字はこれで「やもお」と訓み、これはつまり「
しかし、その時、「やもお」という訓読みは調べてあったが、「
「鰥夫」で「やもお」と
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鰥 (漢字ペディア)
ブリティッシュ・コロンビアのリルウエト・インディアンで、寡婦と鰥夫のために規定せられているものもだいたい同様である。しかしそこでは、鰥夫は食事の時に奇妙なことをする。右足の膝を挙げ、右手をその右膝の下から通して、それでもって食べる。
次
次も引き続き世界教養全集を読む。次は第20巻で、1書のみの収録だ。「魔法――その歴史と正体―― The History of Magic」(K・セリグマン Kurt Seligmann 著・平田寛訳)である。
この全集は私が子供の頃生家の本棚に並べられていたものなので、他のいくつかについては子供の頃に読んでいる。もちろん、この巻の「魔法」という字
さて、あれから五十数星霜、スイもアマイも嚙み分けた今の私がこの巻を開くわけだ。あらためてどんなことが書かれているのかを理解できるはずで、楽しみである。
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