引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読む。第20巻「魔法―その歴史と正体― The History of Magic」(K.セリグマン Kurt Seligmann 著・平田寛訳)を土曜日の夜、自宅で読み終わった。
昨年の暮れも押し詰まった12月29日から読んでいたわけで、随分とかかった。2か月だ。
前回のエントリにも書いたが、この本は私の大阪の実家の本棚に、私が子供の頃から並べられていたもので、この全集の他の巻と共によく開いたものだ。特にこの「魔法―その歴史と正体―」は題名が刺激的だから、子供を駆り立てるには十分すぎるほどの妖しさを放っていた。実際、本書を開けば、あちこちに悪魔を呼び出す魔法の呪文や魔方陣や魔女やベルゼブブやアスタロトの姿の挿絵などが所も狭しと並んでいるわけである。
ところが、この全集の他の巻に収められている「燈火の歴史」や「技術のあけぼの」「微生物を追う人々」といった子供が読んで楽しいものとこの書とは違う。「燈火の歴史」その他は、小学校の高学年くらいまでに私は読み通してしまっていたが、この「魔法」に関しては、あちこちをつまみ食いのように拾い読みしただけで、全部読み通してはいなかった。
さもあろう、五十幾星霜を経た今、大人の読書力で改めてこの本を読み通してみると、「魔法使いになるにはどうしたらいいか」「魔法をかけるにはどうしたらよいか」というような子供の興味に応えるような本ではなく、徹底的に客観的、かつ批判的な姿勢で呪術や迷信の歴史を著述したものであることがよくわかるのである。載せられている魔方陣や魔法の呪文は浩瀚にわたるが、資料たるにすぎない。なるほど、きちんと読めば読む程、難解・
題名はむしろ「迷信―その歴史と正体―」とか、「呪術」としたほうが正確であったろう。実際、訳者平田寛の巻末解説には、「呪術」と訳題する予定であったところ、一般への理解のしやすさという出版上の要求から「魔法」と題された、とある。
この巻の前の巻は主として考古学の書が集められていたが、最後だけが違っていて、「悪魔の弁護人」という未開人の迷信を扱ったものであった。組み立てとしては、前巻の「悪魔の弁護人」と本巻が一組になっていると考えてよかろう。
著者のセリグマンは画家・美術評論家である。美術評論家としての興味から中世の宗教画、そして呪術的な美術などに関心が遷移し、その分野での博識を極める結果となったもののようだ。
本書はメソポタミア、ゾロアスターから語り始められ、ペルシア、ヘブライ、エジプトの宗教や迷信について順に述べられていく。
科学の発端であった哲学発祥の地ギリシアやその後のローマでも生き胆による占いが行われていたことなどが述べられており、哲学というものが内包する迷信深さへの指摘は、さすがであると思う。
「グノシス主義」についても述べられている。グノシス主義について聞いたことはあったが、どんなものかは知らなかった。グノシス主義というものが、日本の多神崇拝も真っ青と言うほどの複雑さを持った、いわば「キリスト密教」とでもいうべき混沌怪奇なものであることを改めて認識した次第である。
「錬金術」にも多くの紙幅が割かれている。著者は必ずしも錬金術が後代の科学の礎となったなどとは言わない。当時の錬金術は「人間の完成」を目指した、きわめて精神的なものであったと認定している。
悪魔や魔女、特に悪魔狩り、魔女狩り、宗教裁判についてはこれでもかこれでもかと、繰り返し繰り返し、その異様な状況を描き出す。
グノシス主義に多大な影響を与えたであろう「カバラ」――ヘブライ密教、とでも言えばよかろうか――について紙幅が割かれる。
人相、手相、占星術、はては「ほくろ占い」についても述べらる。原書には「タロット」について述べられていたそうだが、訳者の解説によると「省略した」そうで、これは惜しいと思う。昭和30年代(1950頃)は、タロットというものは日本ではあまり知られておらず、読者の興味を惹かない無関係なものとして切り捨てられたようだ。
バラ十字会、フリーメイソン、吸血鬼について触れられる。そして、近世に至って、科学によって崩れていく「魔法」「迷信」の姿が描かれる。
気になった箇所
他の<blockquote>タグ同じ。p.67より
イシスは、それらすべての上にそびえ立っていた。彼女の母らしい心づかいと対照的なのは、アスタルテ、アナイティス、キュベレなど、オリエントの女神たちの恐ろしさだった。彼女たちは、気まぐれで残虐なふるまいにおよび、処女や不具の青年たちを虐殺した。これらの女神は、人間のいけにえと戦争と不毛とを愛した。ところがイシスが愛し保護したのは生命であった。
彼女の崇拝は、ヨーロッパと西アジアにわたってひろまった。そしてついに、発生期のキリスト教に接近していった。聖処女の多くの属性――無原罪聖母、
神の母 (「マドンナ」という言葉でのこっている名称)――は、イシスからの借りものであった。
カトリックの聖母信仰がエジプトの宗教の影響を受けている、というのは知らなかった。なるほど、実に合点がいく。
「このあと、薬屋が知っていて販売している血玉髄と二本の神聖な
蠟燭 を手に入れ、呪文がじゃまされないでやれるような、さびしい場所を選べ。悪霊はこわれた建物を好むから、廃墟となった古城はうってつけである。自宅の離れの部屋も、やはりあつらえむきである。血玉髄でもって床の上に三角形を描き、三角形の二辺に蠟燭を立てよ。三角形の下辺のところにJ H Sの聖なる文字を書き、その両側にそれぞれ十字を書け。
この部分を含む2ページほどは、子供の頃にドキドキしながら読んだので覚えている。何しろ、悪魔との契約の仕方が書いてあるからだ。それで試してみようとするのだが、まず「血玉髄」というところで引っかかる。「『血玉髄』って、何……?」というわけだ。家に百科事典があったから調べてみたが解らない。広辞苑もあったが載っていない。それで大人たちに聞くのだが、母も父も先生も「さあ……?」という。私の周囲に限ってではあるが、大人も知らない言葉だった。「どこに書いてある?」と反問され、この本のページを開いて示すと「こんな大人の本なんか読むな。課題図書とか教科書を読め。……算数の宿題はやったのか!?ナニ、まだだと!?」……などというしょうもない成り行きになったものである。
今は有難い時代だ。Googleに血玉髄と入力して検索すれば、たちどころに「ブラッド・ストーン」という宝石であるとわかる。
ユベールやモスのような現代の人類学者の主張によれば、原始的な呪術師は詐欺師ではなく、仲間の同意のもとに自分自身が超自然力をもっていると信じ、その身分はみなの一致した意見で与えられていた。
集団が魔法を実体化していた、ということである。
次
次も引き続き世界教養全集を読む。次は第21巻で、「海南小記」(柳田國男著)「山の人生」(柳田國男著)「北の人」(金田一京助著)「東奥異聞」(佐々木喜善著)「猪・鹿・狸」(早川孝太郎著)の5書が収められている。
開いたこともない巻で、内容に想像もつかない。