()からざらん()

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 天皇誕生日によせた祝日エントリで、筆のすさびならぬ、キーボードの進むままに「()(たっと)()からざらん()」などと書き結び、書いてからふとこの一文が気になった。

 「べからざらんや」というのが、人様にわかってもらえるかどうか、気になったのだ。

 Googleで「べからざらんや」を検索すると、なるほど、「Yahoo!知恵袋」などがヒットしてくる。学生らしい質問者が国語の勉強の上でだろう、「どういう意味でしょうか」と問うているわけである。

 教科書的な回答が数多くあるが、しかし、私としては次のように説明を試みてみたい。

 「祝う」という語が「祝うべからざらんや」となるまで、反語で強められていく変化の過程を例に示すことで説明に代えたい。

口語体 文語体
祝う 祝ふ
祝うべきだ 祝ふべし
祝うべきではない、祝ってはならない 祝ふべからず
祝ってはならない(もの) 祝ふべからざる(もの)
祝ってはならないだろう 祝ふべからざらん
祝ってはならないだろうということがあるだろうか?(いや、そんなことはない) 祝ふべからざらん

 このように変化させて考えていくと、文語的表現はピシリと引き締まり、文字も少なくてすむことがよくわかる。

 私は俳句を詠むのが趣味だが、五・七・五の限られた文字数でできる限りの表現をしようとすると、文語体の方が色々詰め込むことができる、ということは上のようなことからも多少否めないと思う。

天皇誕生日

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天皇陛下万歳

 祝日「天皇誕生日」である。自宅の軒先に国旗を掲げ拝礼する。

 (かしこ)し、天皇陛下におかせられては(おん)(よわい)61におなり遊ばされる。

 「ナショナル・デイ National day」である。諸外国からも最も尊重される日が今日であることを、あらためて噛んで含むのがよい。

 普通、多くの国々は独立記念日や建国記念日をナショナル・デイとしている。しかし、わが日本国は世界にも類例(まれ)な古い国柄で、建国の日も神話にまでさかのぼってしまい、実際のところはっきりとはしないことも否めないため、建国記念日と天皇誕生日の両方をナショナル・デイとしているものと私は理解している。

 この日を寿(ことほ)ぐことは、(かしこ)くも日本のシンボル(象徴)たる天皇陛下を寿ぐこととイコールであり、シンボルを寿ぐことはそのまま日本の善良な老若男女、国土や歴史全体、先祖、かけがえのない子孫たち、諸外国との関係をも寿ぎ、尊重することに通じているのである。

 ()(たつと)()からざらん()

今日の赤花(じん)(ちょう)()

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 昨日一輪綻びたばかりだった赤花の(じん)(ちょう)()、今朝見てみると更に数輪、次々に咲き始めた。

 近寄って嗅いでみると、あの甘く良い香りがする。

 根元の方に多くの花芽がある他、(こずえ)の方にもまだ若い芽がある。これらも次々に咲くだろう。

 楽しみである。

 白花の方はまだ咲かない。しかし、芽が大きく膨らんでいるから、もうすぐだろう。

今週のさえずり季題

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庭の(じん)(ちょう)()が咲き始めた

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 昨年の9月頃に庭の花壇に植えた(じん)(ちょう)()(つぼみ)が一輪、(ほころ)びた。赤花の方だ。

 昨日庭に出た時にはまだ咲いていなかったのだ。

 白花の方は、芽は大きく膨らんでいるものの、まだ咲かないようだ。街の植栽の沈丁花も、赤花には咲き始めているのを見かけるが、白花はまだなので、多分沈丁花と言うものは、白花の方が遅く咲くのだろう。

 来週にかけて、次々と咲くと思う。

ナイアシンと夢見

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 数年前から、物忘れが気になったり、どうでもいいようなことにクヨクヨと悩ましかったりするので、ネットで検索して「ナイアシン」のカプセルを購入し、時々それを服用している。

 ナイアシンというのは「ビタミンB3」のことで、ごくありふれたビタミン剤だ。

 まさか向精神薬とか覚醒剤の類ではないから、()んだからといってスカンポーン!……と人生が薔薇(バラ)色に変わるというようなものではない。

 だがしかし、服用した日には思考力や集中力になんとなく好調を覚える。最近減退を覚えるようになった記憶力などにも、やや好転を感じる。偽薬(プラシボ)効果というのもあるのだろうけれども、それだけではないようだ。

 このナイアシンカプセル、必ずしも毎日欠かさず服用しているわけでもないのだが、服用した日とそうでない日とで、ふと気づいた違いがあった。夢見が違うのである。

 ナイアシンを服んで寝た次の明け方には、なんだか、昔の夢や昔の生活や、いろいろな不安や景色が織り交ぜられた面白い夢を見る。必ずしも快適な夢ばかりではなく、その夢の恐怖や不安から逃れようと無理に目を覚ますような夢も多いが、だが、面白くはある。

 ナイアシンは脳内の重要ホルモンであるセロトニンやドーパミンの生成に必要な酵素なのであるという。それで多少夢見に影響があるものなのかもしれない。

 

 

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第13巻「世界文学三十六講(クラブント)/文学とは何か(G.ミショー)/文学――その味わい方(A.ベネット)/世界文学をどう読むか(ヘルマン・ヘッセ)/詩をよむ若き人々のために(C.D.ルーイス)」のうち、最後の「詩をよむ若き人々のために Poetry for You」(C・D・ルーイス Cecil Day Lewis 著・深瀬基寛訳)を読み終わった。

 題名こそ「詩をよむ『若き人々』のために」となっているが、著者は少年少女向け、私の読後の印象では小学校高学年から中学生くらいまでを対象にこの本を著したように思われる。というのは、恋愛に関する詩の解説で「みなさんくらいの年齢の方々にはちょっとわからないかと思いますが」というふうに書いてあるところがあるからだ。だが、その割には高度な英詩論がこれでもかと満載にしてあり、はたしてこれがイギリスの中学生に理解できたのかどうか、多少疑問も感じる。さればこそ、訳者による解説には、少年少女だけでなく広く一般に読まれた、という意味のことが書かれてあるのであろう。その点でなるほどと納得できるのである。しかも本書は、その高度な詩論が、平易に、わかりやすく噛み砕いて書かれてある名著だと思う。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第13巻「詩をよむ若き人々のために」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.438より

じつのところ、みなさんが旧約聖書をおよみになればみなさんはヘブライの予言者たちの多くはほんとの詩人であったことを知るでありましょう。太古のむかしから詩と魔術とのあいだにはある密接な関係があったのです。

 これはなるほど、本当にそうだ、と同感した。

p.444より

してみると俗語というものは、それを見て、ひとびとがじぶんの想像力をさかんに使用していることが証明されるばあいには、いいものであるが、俗語が惰性的に機械的にしゃべられることを示しているばあいにはわるいものであると考えていいでしょう。

 上の引用は「ことばのひびきはピカピカ光る」と題された一節の最後の一文である。この節は、「詩の機能は、言葉と言葉の出会いによる、言葉の絶え間ない再創造にある」という意味のことをテニスンの詩の一行を例に引いて説いている。私の趣味は俳句を詠むことだが、本節はその上でも重要な示唆を与えてくれている。この一節を読むだけでも、この書を開いた価値が多大にある。

p.490より

皆さんの中には『ハムリン((ママ))の笛吹き』Pied Piper of Hamelin というブラウニングの詩をご存じの方もたくさんあるでしょう。

 ブラウニングというと、妻のエリザベス・ブラウニングも名詩人だ。以前、この全集の第5巻中「現代人のための結婚論」の中に引用されていたエリザベス・ブラウニングの詩を翻訳して書き留めておいたことがある。

 さておき、「ハーメルンの笛吹き」の童話と言うと、私はグリム童話という認識を持っていたが、実はいろいろな記録があるようだ。ブラウニングの詩にこの話があるとは知らなかった。青空文庫にその古い日本語訳がある。

 次は第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」である。第13巻とは打って変わって、日本文学一色である。