俺相手に商売したけりゃなあ、日本語で売り込んで来い

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 俺相手に商売したけりゃなあ、日本語で売り込んで来い、このボケ商人どもめが。チャラチャラチャラチャラ、英語で喋るなッ、腹立つなあ。

レンチ

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 腹切場(はらきりば)の温情がわからない、恥を知らん奴が増えたな、と思う。

 私の前任者もそうだったし、後任者もそうだ。

 先月の舛添何某にしても、自民党が「辞任までは求めない」と伝えた時点で意図を明察して自斉すべきであった。結局手足を押さえつけられて他人に十字腹を切られたようなものだ。

 甘やかされ、チヤホヤされてきたエリートにはそこのところがわからない。恥を知らぬことが責任を取ることだと(うそぶ)いて、他人に切られるまで地位にしがみつくのだ。

 今、この文章に「廉恥(れんち)」という表題をつけようと思って入力しようとすると、「レンチ」だのと出てきて、まったく変換候補が出てこない。このこと一事からも、もはや「恥を知る」ということは前時代的な感覚で、古臭く、それを信じることは許されないことなのだという何者かの意志が伝わってくる。

 恥を知ることを捨てよというわけだ。こんな受け入れがたいことでも受け入れなければならない、恥を知る弱者の悲哀というのは、なんなのだろう。

 恥を知らぬ輩を認めて称揚しないと、もはや普通に暮らしていくことも許されないのだ。恥を知らぬ者を受け入れよ、許せよとは。

 昔の人は恥というものを知っていた。

 恥を知らない。醜いことだと思う。小奇麗に身辺をとりつくろい、洒落たようなことだけ言って、とりすまして行動し、薄汚れた現実と向き合おうとしない。

 ああ、嫌だ。嫌な世の中になった。

「足らず」と「余り」

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 人事異動のシーズンである。先週、先々週にかけて送別会が多くあり、人々の色々な去辞を聞いた。

 話し言葉ではついつい色々な言い方をしてしまうものだが、送別会の挨拶を聞くうちふと思ったことがある。「足らず」と「余り」に混乱がどうもあるようなのである。

 具体的には「2年あまりお世話になりました。」「2年足らずの間でしたがお世話になりました。」という言い方だ。

 1年10ヶ月は2年たらずだが、2年3ケ月は2年たらずではあるまい。同様に1年10ヶ月は2年あまりではないが、2年3か月は2年あまりである。酔席の挨拶のことだからと言って、どうせ誰も聞いちゃいないよ適当に言っとけ、というものでもなかろう。使い分けた方がいいと思う。

 さりとて、うまくぼかそうと「約2年」という言い方をするのもなんだか理屈っぽい。ビジネス報告会ではないのだから。

 「2年ほどの間」は当たり障りのない言い方だが、「ほど」という所にやや軽みがある。もし重く辛い2年間であったのならそれを表すのには馴染まない。

 「2年3ヶ月11日間お世話になりました」

 これも使い方によっては人柄が表れて笑いが取れるかもしれないが、科学技術の発表じゃあるまいし、これもなかろう。

 「概ね2年の間お世話になりました」

 「概ね」、て……。旧軍隊の検閲標語じゃあるまいし。

 まあ、目立たずスルーして貰うには、「2年間お世話になりました」って言っとくんでしょうね。

「支える」異考

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 昔の言葉や文章にはあまり出てこないが最近はよく見かける、というような、「流行の言い回し・書きっぷり」というのは、たしかに、ある。どこにも取りざたはされていないが、静かに流行する言い方、書き方だ。間違った言い方とまでは必ずしも言えず、だが、なんだか、古い向きはそこで一見無意味にひっかかり、考えてしまう、というものだ。

 例えば、いわゆる「商業丁寧語」というものにそれらを多く見つけることができる。

「食器をお戻し『いただけますよう』お願い申し上げます」
「こちらが設計書に『なります』」

というのがよく気になる。「台風が上陸する『可能性』があります」とアナウンサーが言うのも、私にとってはそのひとつだ。

 そんな中に、スピーチなどでよく気になってしまう言い方がある。

「私はその時、ほんとうに上司、また部下に支えられていると思い、元気を貰って…云々」

 この言い方のどこが気になるかというと、「上司に『支えられ』ている」というところである。「…を貰う」というのも、少し気になるが、まあこれは単純な流行と思いたい。

 言葉というのは世と人により、生き、生かされているものであり、変化していくものであってみれば、そこをさながら老人めかして「最近の若者は」などと言わぬばかりにあげつらうことはすまい。

 ただ、「上司に『支え』られる」とはいかがなものか、と思うのだ。

 事実上は本当に支えてもらったのかも知れない。また、実際の上司の気持ちのあり方と姿勢というものもあるだろう。しかしここでは、それは別にしたい。

 上司というものは「上」にある。したがって、引き上げ、あるいは鞭撻するものであって、部下の体の下側に回って「支える」というものではないのではなかろうか。上司の側から「支えてやった」というのはまだいいとして、部下の側から「上司が私を支えた」と当然のように言い放つのはやっぱり違うと思う。

 言葉の上のことでなく、実際の行動で言えば、まあ、あんまりにも上のほうに君臨してばかりいて、指図だけしてまったく手など動かさず、部下の上にどっかりと打ち跨り、それこそ「支えさせて」ばかりいる上司というのは、それは感心しない。だが、日本語は人の上下関係が入る言葉なのである。

 私のこのムズムズした感じは、病院で「センセイがくれた薬を赤ちゃんに上げたら、…」と話している奥さんの言葉に違和感を覚えた時のものと似ている。そりゃあ、お医者さんだからと言って患者より無条件に目上だということはなかろうし、赤ん坊にもれっきとした人格はあるだろうけれども、ここはやはり、先生が「下さった」薬を赤ん坊に「与えた」「やった」「飲ませた」のではなかろうか、と思うのである。

「頂けますよう」

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 最近よく、

「・・・の際にはご連絡頂けますようおねがいします」

などと書いてあるのを見かけるが、これは

「・・・の際にはご連絡くださいますようお願いします」

の間違いではなかろうかと思う次第である。

 だいたい、「頂けます」て、なんやねん、それ。なんで俺がアンタに関する事象を頭上に頂かにゃならんのだ。アンタが「ください」ってコッチを頭上に頂いてみせるってのが普通だろうがよ。

 コレって、なにか、「ご連絡を頂けませんでしょうか」などと言う例からまちがってっちゃったんだろうなあ。この場合の頂くは、自分の頭上に相手の連絡を頂いてるワケなんで間違ってないんだけど、「ご連絡頂けますようお願いします」ってなっちゃったら、何かを「頂いて」いる主体が逆だ。

 他の言葉で同じことをするなら、例えば、

「すみませんがうなずいてください」とか
「すみませんがひざまづけますか?」とか
「恐縮ですが立ってくださいませんか」

というのが

「すみませんがうなずけますようお願いします」とか
「すみませんがひざまづけますようお願いします」とか
「恐縮ですが立てますようお願いします」

・・・というのと同じことになるだろう。