自分が詠んだ俳句のことをくどくどと解説するのは、誰が言ったのだったか、「女形が楽屋で
8年前に書いた「月は忌むべきものではない」という記事の中で、
と一句詠んであります。8年前に “
オッサンは生きている。
自分が詠んだ俳句のことをくどくどと解説するのは、誰が言ったのだったか、「女形が楽屋で
8年前に書いた「月は忌むべきものではない」という記事の中で、
と一句詠んであります。8年前に “
60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第6巻を読んでいる。
先月22日に第5巻を読み終わり、この第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」に来た。先週2月4日火曜日の帰り電車の中で「日本的性格」(長谷川
和歌が全国民の文学であったのは、上代の社会のことで、それが貴族社会の形式化によって、国民の手からとりあげられたのは、すでに平安朝時代からのことであった。しかし武門時代においても、歌はあらゆる階級の音律的言葉となっていて、その言葉を語り得ないものは武士としても不名誉とされた。
けれども事実上、歌は近代の町人文化の形態たるにはあまりに貴族的形式に規定されてしまっていた。そこからまず連歌が生まれ、より自由な言語による歌の応酬が回復されたが、それがいわゆる連歌師のギルド的約束によって、複雑にして困難な形式となった時に、それを極端に簡単化した発句となった。連歌の初めの一句を独立させたのであった。そうしてそれはもっとも普及的の町人文学となったのだが、これもむろん、日本文明が全国民のそれでなければならないという伝統の回復であった。
上の部分は俳句がどういう性格の文芸であるかということを、日本全体の性格と関連させてよく言い当てていると思う。
日本文化の外国的起原を高調する人々に対して、「純日本」を高調する人々がある。ことに民族宗教的の信仰や国民道徳の特殊性を指摘するものが多い。それらの
人人 は、往々保守的傾向となり、外国文化の排斥に傾き、進歩主義者と対立することとなる。けれども、彼らの主張にも真理はある。というのは、日本人は、古代においても、近代においても、外国文化に対して非常に敏感で、ただちにそれを採用する進歩主義者であったと同時に、その反面に、自国の伝統的なるものを頑強に固執する一面をもっていたのである。国民的に、同じ時代において、その両面をもっているのみならず、個人的にも、右の両面を一人で備えているものも珍しくないのである。
保守的なのに、新しいことをしたがる、という人は、自らそれと知らず多いように思うが、上引用のようなことなのかな、と感じる。
かなり正しく、しかしやや詩的の表現で、日本人の性格や道徳を外国人に紹介した岡倉覚三は ‘The samurai, like his weapon, was cold, but never forgot the fire in which he was forged.'(“The Awaking of japan”)といったが、我が国中世の武力闘争の支配した時代のサムライでさえ、冷静がその勇気であり、道徳であった。岡倉はその理由として ‘In the feudal days Zen had taught him selfrestraint and made courteousness the mark of bravery.’といったが、しかし我が国のサムライの冷静な一面は、大陸伝来の禅の教養によるというよりは、むしろ日本人固有の心理によるものというべきである。
英文は有名な天心岡倉覚三の著書からの引用である。「The Awaking of japan」は「日本の目覚め」として岩波から出ている。
「The samurai, like his weapon, was cold, but never forgot the fire in which he was forged.」というところは、「武士は彼の刀のように冷たく落ち着いていたが、それが火焔によって鍛えられたものであることを決して忘れなかった。」とでも訳せばよいのだろうか。また、「In the feudal days Zen had taught him selfrestraint and made courteousness the mark of bravery.」というところは、「封建時代、禅は彼に自己抑制を教え、礼儀正しさを勇気の証明にした。」とでもなろうか。
すなわち、日本人は、国民としては歴史のもっとも重大な時期において、自制と自己反省の心理を失わなかったのである。
武家専制の時代が始まっても武家そのものにそうした抑制の心理があった。北条氏は事実上政治上の独裁権を獲得したが、なお将軍家を奉じて、自ら陪臣の資格に止
ど まった。
御所の建築の単純、質素なのは、外国のように帝王の住居を城郭とする必要のない、わが国の皇室だったからであるが、それにしても皇室の威厳を象徴するためにも、今少し外観の壮麗を発揮する筈だが、上代にシナとの対抗上、やや大規模の宮殿の経営を行った例が二、三あるだけで、それも人民の課役が困難なため中止した場合が多い。
引用の通り、皇室は、ことに京都御所など、質素なものである。
古来日本の文学には、シナや西洋のそれに見るように、自然を現実に鑑賞する態度に欠けている。今日の文学においても、自然描写において卓越しているものは、はなはだ多くない。国民文学としての歌においても、『万葉』以来、自然描写がもっとも短所であった。自然に対しても、日本人は抒情的に感覚する。
この部分は「エッ、果たしてそうかなあ」と少し反対が胸に湧くが、続いて
上代の大和朝廷の貴族が憧憬した吉野山の風景の如き、抒情詩の背景としても、何ら現実的の鑑賞は現われていない。『万葉』にある吉野山の歌は、ことごとく概念的の記述に始終している。
富士山に対する山部赤人の有名な歌でも、自然描写でも何でもなく、ただ概念的に、古来語られている富士を語って、「語り継ぎ、云ひ継ぎ行かむ」といっているに過ぎない。「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」という反歌には、いかにも日本人の自然に対する態度の素樸さが見えていて、写実的のその態度も面白いが、しかしこれも実際見た現実ではなく、いわゆる「歌人はいながらにして名所を知る」というような格言を生ずることが、日本人の自然に対する感覚の不充分をいい現わしているのである。
と言われてしまうと、そうかも知れないな、と思う。
「山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく」(柿本人麻呂)
「み吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)
……というような歌も、自然を読んでいるようでいて、よく読むと自然を写し取ってはいない。読み込まれているのは自然に対する主観であり、読み手の観念である。
「
「れんけつ」だと思ったら、「
三十九年三宅雪嶺らと連袂退社し、「日本及び日本人」に拠る。
文字
「
国民の場合も個人の場合も、時代の必要に応じて、種種なる性質が要求されるもので、したがって性格の涵養は、決して膠柱的ではあり得ない。
これは、故事成語である。
「膠柱」、つまり「膠」と「柱」であるが、それだけではサッパリわからない。この「柱」とは、「
琴の音程は、この琴柱をその都度自在にずらして調えるが、これを立てたままでは弦が伸びて傷んでしまう。だから演奏しないときは外す。演奏するときは改めて琴柱を立て、試し弾きしながら音程を調える。これにはけっこう手間がかかるというので、琴柱を「膠」、つまり接着剤で琴に固定してしまった人がいた。
ところがこれでは、微妙な琴の調整ができず、別の曲を弾くことができないばかりか、琴は温度や湿度、経年変化で音程もその日その日で違ってくるから、まるで使えない楽器になってしまう。
この故事を「
史記・藺相如伝というと、一般によく知られている成語の出典には、「完璧」の故事、「刎頸の交わり」の故事などがあろうか。
ともかく、「膠柱的」というのは、自在に調整もできず、融通がきかない、固着的なことを言う。
「那堪空閣妾。未慰相思情」
その時代の漢詩文を集めた『文華秀麗集』には、大伴氏の女性の作があり、『経国集』にも嵯峨天皇の王女有智子内親王の詩が載っている。それには「那堪空閣妾。未慰相思情」というような句もある。女性教養の自由であったのは、臣下の女性のみではなかったらしい。
この句について、手元に調べる
「
……ではないかと思うのだが、違うかもしれない。
「
「贏」の音読みは「エイ」「ヨウ」、訓読みは「あまり」等であるが、「贏ち得る」と書いて「かちえる」だそうである。
女性が日本文学の創始者たる栄冠を贏ち得たのは当然であろう。
訓み方は分かったが、なんで「勝ち得る」と書かず「贏ち得る」と書くのか、理由はちょっとよくわからない。
「
また実に難しい。「鑒」は音読みにカン・ケン、訓読みで「かんがみる」「かがみ」だそうな。「貽」の音読みは「イ」「タイ」、訓読みは「のこす」「おくる」だそうである。
シナ流の歴史観によって「鑒を将来に貽す」(『
続日本後紀 』)とか「善悪を甄ち、以て懲勧に備ふ」(『三代実録』)とかいうことを序文にいっていたりするが、内容はかならずしも事実を道徳で歪めているわけではない。
「善悪を
「甄」の音読みは「ケン・シン・セン・ケイ・カイ」、訓読みは「すえる」「つくる」「みわける」とある。
ところが、「甄ち」というのがわからない。「
「
これで「すくない」と読む。この文字からは、普通は「
おそらく西洋の近代国家でも、その文明がわが徳川時代のそれのように、下から盛り上がって出来たもので、しかもピラミッド型に下の方が広がったものであるという例は鮮ないと思う。
思うに、「朝鮮」という国号は、「朝」には国とか王権とかいう意味があり、それに「鮮」ということは、「若々しい国」、あるいはそこから、特有の謙譲をもって「中国に比べるとまだおさない国」というようなことなのかも知れない。
「
荒っぽい、雑、というような意味である。
「粗」は「あらい」であることは論を待たないが、「
「スペキュレーション」
投機、思惑などのことであるが、文脈では「思い切った推測」のような意味で使われている。
かくの如く古代中世の歴史には珍しい信仰状態がどうしてわが国に成立したかについては、いささかスペキュレーションに傾くが、おそらくわが国固有の民俗信仰そのものが、わが国民形態成立の人類学的研究に現われている諸民族の混和という事実に伴うところの信仰の混和から成立したものであったからではないかと考えられる。
「
なんと、これで「うったえる」である。
ただ文学はその表現が議論ではなく具体的であるから、われわれに間接に愬えるので、読む者が何とかそれを再現して見なければならぬ。
亀井勝一郎は筋金入りの共産主義者だったと思うのだが、こんなにも上代の日本と皇室に対する
まだ読んでいる途中だが、そんじょそこらの薄っぺらな左翼とはわけが違う、と思った。
「
聖徳太子のことである。
最近、学校では聖徳太子の幼名である「
昔から聖徳太子は「聖徳太子」として呼びならわされてきているが、これは、聖徳太子の生前の名前ではなく、
もしそれがかなわぬ時は、死ぬ直前の名で呼ぶことである。「厩戸皇子」の名は幼名で、推古天皇の摂政として政務をお取りあそばされていた頃の聖徳太子は「上宮太子」と呼ばれていたのである。
この作品中では聖徳太子のことは一貫して「上宮太子」と記されている。
「
すすり泣き、むせび泣くことである。
高貴なる血統に宿った凄惨な悲劇を、御一族は身をもって担い、倒れたのであるが、この重圧からの呻吟と歔欷の声は、わが国史に末長く余韻して尽きない。
ふと、前に読んだ世界教養全集第5巻収録の「現代人のための結婚論」(H.A.ボウマン)の中の、「愛の相互性」というところで思い当たったことがある。
p.438から
そこに相互性のない愛情を私たちは愛情と呼ばないことにしよう。たとえば、私はイヌを愛する、なぜならイヌも私を愛しているから、という場合はよい。けれども、私は着物を愛するという場合には相互性がない。だが、これだけでは愛情の規定としては充分でない。親子間、夫婦間、恋人間の愛情は相互性をもってはいるが、この相互性ということだけで、「私は愛情のために結婚した」という場合の、愛情の性質を説明することはできない。愛情は人間がちがえばちがった事がらを意味する、というのは、その人々の生活の背景や経験や年齢によって愛情の意味がちがってくるからだ。
ここで思い当たったのが、
つまり、こうだ。
1対1の愛については相互性があるといえよう。「私は彼女を好きになった」という場合、彼女は私を好きであったり嫌いであったり、そのどちらでもなかったり、あるいはそれらの中間であったりする。
しかし、「私は湯飲みを愛する」などと言っても、湯飲みから何ほどのものが返って来るでもなく、これは「相互性のない愛」であるとは言える。
だが、工業製品の消費者としての感想は、巡り巡って作り手に届き、ひょっとすると新製品のデザインに反映されるかもしれない。だが、それは相互性と言ってよいほどのレスポンシビリティではないだろう。
同様に、アイドルのファンの熱狂はアイドルを擁するテレビ局やプロダクションの経営に反映され、アイドルの立ち居振る舞いに影響を及ぼすかもしれない。しかし、その影響はごくわずかであって、これも相互性と呼べるようなものではなく、一方的な熱狂に過ぎない。
「漫画の売れ行き」や「アニメの人気ぶり」なども、似たり寄ったりだろう。つまり、1対1ではなく、漫画の出版社と一読者の熱狂とは、10万対1くらいの反映のされにくさの相互性しか持っていない。
だから、オタクの愛は愛ではない、と言えないだろうか。そしてまた逆に、相互性のない、愛とは言えない自称の愛を「オタクの愛」と言い、また相互性のない愛を愛として認めている者を「オタク」と定義づけることはできまいか。
天皇陛下万歳
このところ
さておき、この「新嘗祭」は毎年行われる皇室の祭祀であるが、即位あそばされた後初めて行う一世一代の新嘗祭のことを「大嘗祭」というのである。
農業国家として作物を通じて
余談ながら、日本書紀では「百姓」と記して「お
「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」、昼過ぎからの読書で読み終わってしまう。
解説・
面白いな、と思った点は、魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝の四書ともに共通して、
「倭には女が多いが、
……というような記述が見られることだ。
残念な点がある。本書には参考文献として、日本書紀のうち「巻二十二 推古天皇」が全文引用で挙げられている。他方、日本書紀のほうでは「巻第九 神功皇后」の四十三年の条で魏志が参照されて記載されているのだが、これに関する考察や記載が全く見当たらない点である。戦後の学際は、戦前の皇国史観を嫌うあまりこのようになっているのではないかなどと感じてしまう。
特に付録の影印などは興味深く、所有して資料としてとっておきたいが、図書館で借りたものなので、返さないと仕方がない。
祝日・勤労感謝の日である。国旗を掲揚し拝礼する。
今日は遠く飛鳥時代、皇極天皇の御世にその起源を
日本書紀巻第二十四「皇極天皇」紀には、
と、その年の天変などとともにこの新嘗の記述があり、日本書紀の中ではっきりと新嘗の記述が現れるのはこの箇所が最初であることから、これが新嘗祭の起源となっている。
この新嘗祭は、重要な宮中祭祀であるため、明治時代から祝日として定められていた。
戦後、「勤労感謝の日」と改められたが、宮中においては今も変わらず、天皇陛下おん
本来、「新嘗祭」は新収穫を
漫然とこのブログの検索キーワードを見ていたら突如「共生大八洲国。然後伊奘諾尊曰」なんていうえっらいキーワードで来る人がいるのを見つける。
エライっ!!
そういふうでなくちゃイカんよチミィ!!
近所の稲荷神社へ詣でて、その古社のことを少しばかり深掘りしたことがあるのだが、そこに日本書紀の記述を引用したのだ。そこへ来て下さるのであった。