標記のことについて少し、経験したことや知っていることをメモしておきたい。
実は私は、このことについての結論めいたことを知ってはいるのだが、その結論というのが「どっちでもない」という、結論とは言えないものであることをあらかじめお断りしておく。それには、
実は自衛隊でも論争になったことがあった
私は自衛隊で40年間働き、一昨年、定年で
今の私はIT技術者として口を
オッサンは生きている。
標記のことについて少し、経験したことや知っていることをメモしておきたい。
実は私は、このことについての結論めいたことを知ってはいるのだが、その結論というのが「どっちでもない」という、結論とは言えないものであることをあらかじめお断りしておく。それには、
私は自衛隊で40年間働き、一昨年、定年で
今の私はIT技術者として口を
前から「気づき」「学び」「気づきがあった」「学びがあった」などとする書き方や言い方の流行に
語 | 学ぶ |
語幹 |
活用形 | 活用 | 下接語 |
---|---|---|
未然形 | 学ば 学ぼ |
ない う |
連用形 | 学び 学ん |
ます た(だ) |
終止形 | 学ぶ | (言い切り) |
連体形 | 学ぶ | とき こと |
仮定形 | 学べ | ば |
命令形 | 学べ | (命令言い切り) |
一言でいえば、口語文法の場合、活用語尾が「ます」「た(だ)」につながる活用形が連用形である。この「気づきます」「学びます」の語部分「気づき」「学び」を名詞として使うものが「連用形の名詞化」だ。
理屈はともかく、日本語として違和感があることは否めない。文法的な違和感に加えて「気づき」だの「学び」だのと言いたがる人が苦手だということが私にはある。こういう言い方書き方をしたがる人というのは、
最近気になる流行の言い方に、標記の二つがある。ドイツもフランスも、……いや違った、ドイツもコイツも「チカシイ間柄」だとか「このネジをキュッと締めてアゲル」などと言っている。
どっちも変だし、おかしいからやめてほしい。
「近い」は活用して確かめて貰えば誰にでもわかることだが、「近かろう・近かった・近い・近いとき・近ければ」で命令形はなし、つまり典型的な形容詞だ。語幹は「ちか」であり、「ちかし」ではない。
同じような形容詞に「赤い」がある。「赤かろう・赤かった……」と活用するが、「赤しかった」などと言うだろうか。言わない。同様に、「
「何々しい」というふうに使う言葉には、例えば「いたましい」がある。しかしこれは、「いたむ」という動詞を形容詞的に変化させて使うものである。元の言葉が形容詞であるわけではない。
「
他に、「おいしい」という言葉もある。だが、これは語幹が「おいし」で、活用語尾が「い」だ。「おいしかろう・おいしかった・おいしい・おいしいとき・おいしければ」で命令形なしである。「し」は語幹に含まれる。「おいしい」の「し」を取り除いて「おいかろう・おいかった・おいい・おいとき・おいければ」などと活用するとまったく成り立たないのは明らかだ。だから、「近い」で成り立つものに無駄な「し」を入れた「近しい」とは根本的に違う。
もっと
こう考えてくると、だからやっぱり、「近しい」なんていう言い方・書き方は変だ。「近い間柄」とか、もし言うなら「
歴史的に「近しい」と著述した文筆家はいるのかも知れないが、これは「揺れ」の
昔は小児科で「先生がくれたお薬を赤ちゃんにあげたら……」(正しいのは「頂いたお薬を息子に
「この残りの髪をピンでとめてアゲル」
「共通項の二乗の部分を消去してアゲテ、ルートでくくってアゲル。」
「ここで釘を打ってアゲル」
「で、コンストラクタをオーバーライドしてアゲテ……」
「大根は面をとってアゲテ、十字に切れ目を入れてアゲマス。」
だ~~~ッ!!
……ええい、誰も彼もアゲルだアゲテだアゲマスだの言ってやがって、
「ピンでとめる」「消去して、ルートでくくる」「釘を打って」「オーバーライドする」「面をとって」「切れ目を入れます」と言えんのかあああ!(笑)。
はあ、ふぅ……落ちつけ、俺。
まあ、言葉と言うのは、時代により人により、
だが、極端に変なものや、誰にでもわかるようなルールに沿っていない変化には、注意深く向き合っていくべきものだろう。
ネットをぼんやり見ていたら、
立憲民主党・枝野幸男代表が内閣不信任案を提出する場面で約3時間の演説を行った件について、書籍化された本が本屋でバカにされていることが分かった。
……などとある。
うーん。「書籍化された本」って、なんだ。書籍と言うのは本ということで、本と言うのは書籍ということだ。……いや、深く味わうと、「書」が「籍」に入る、つまり、書き手によって
だから、ここは「書籍化された本」ではなく、「出版された書籍」とでも言うべきではなかったか。
……とでも書けばいかがであろうか。字数の関係でそれがダメだったというのなら、
ではいかがか。この一文、それ以上に盛り込む情報などあるまい。無論、前者と後者の間にはさまざまなアレンジがあるから、仕事上の字数制限に従いお好み次第であろう。
断っておくが、このこと、単に文章とか書き方にケチをつけているに過ぎず、内容に関しては何ら一切文句などないことをここに記し添えておく。
ある著名な方の文章に曰く、
日本列島は地震や津波や台風や豪雨や土砂崩れや豪雪や火山噴火や酷暑や、ありとあらゆる自然災害の宝庫だ。
……。なんというか、「地震や津波や台風や豪雨や土砂崩れや豪雪や火山噴火や酷暑」は、「宝」なんですかねえ。なんだよ「宝庫」って。
ここは、
……というふうに書いてほしかった。
いや、この方特有の皮肉を込めて、「民族を磨く試練にこれほど恵まれているにもかかわらず、なにをボンヤリしておるのだ、災害は日本民族を磨き照らす宝だ、覚醒せよ、日本民族、喝~ッ!!」とでも言うのなら、「宝庫」でもいいとは思う。
だが、多分うっかり「宝庫」と書いただけで、深い意味はないだろう。
人が死んでいるのに「宝庫」は、ない。
このこと、主義主張にはまったく関係ない。単に日本語の話である。
最近の日本人、
言葉の意味や姿がフラフラと定まらないと意思の疎通に支障をきたすから、言葉には一定の安定が求められる。しかし反面、言葉は世につれ姿形を変え、人につれ味わいが変わり、状況につれその意味を変える。従って、話し、書き、聞き、読むには寛容もまた求められる。そのバランスが大事だな、などと感じる今日この頃の私である。
さて、そんな私の最近の楽しみは「
何?「丸坊主で不良の歌舞伎か?」……ちゃうちゃう。それは「
世の中にはいわゆる「商業丁寧語」というものがある。本来の正しい丁寧語ではない上に、日本語としてもおかしいが、ごく一般的な商行為やビジネス場面ではまあいいだろうということで許容されている丁寧語だ。
「こちら、497円のお買い上げにナリマシタので、お釣りのホウが3円のお返しとナリマス」
「こちらのホウ、ハンバーグ定食にナリマス」
文字づらにするとものすごく変なのだが、実際に街のお店屋さんで20代くらいの若い店員がこういう言葉で接客していても、おそらく誰も何とも思わない。「そういうもの」だからである。むしろ、これくらいの言葉の量が返ってくるほうがまだ丁寧な店の部類に入る。店の格が下がってくると
「……ッシャイセ~……っす~……よんひゃ……あざっした~……」
……くらいの、呟きとも何かの呪文とも分からない、謎のため息のようなものしか吐かない深夜のコンビニのレジ係だっている。そういう店員が駄目だと言っているのではない。こういう人でも人前に出て、真夜中にもかかわらず少ないアルバイト代を稼ぎ、
それはそれとして、この語尾にくっついてくる変な「ナリマス」に対する、よくあるツッコミとしては、
「『ハンバーグ定食にナリマス』って、『なる』ってことは、私の注文したこの料理は、今はまだハンバーグ定食になっていないということでしょうか。では、一体、いつになったらハンバーグ定食になるのでしょうか。ハンバーグ定食になるまで、まだ食べたら駄目なんでしょうか。」
というのがある。こう茶化してツッコむことで、この「ナリマス」言葉の、日本語としての奇妙さは説明できていると思う。
さておき、前者の「ナリマス」がやたらと目立つ店を、私は脳内で「成増屋」と呼んでいるのだ。
これは
逆に、店員が若いくせに
「お客様、お待たせ致しました。ご注文のお料理、『オマール海老のムースを塗った
……と、大きからず小さからずの声量で、立て板に水、まったく淀みもつかえもなくハッキリとこの難解で長大な料理の名前を言ってのけ、しかも「コチラ」だの「ホウ」だの「ナリマス」だの、無駄な合いの手をまったく入れないのだとしたら、もう、ごめんなさいと逃げ出したくなってしまうだろう。こういう店では支払いだって「コチラ、お釣りのホウ、300円のお返しにナリマス」だなんて言わない。
……などというやりとりになるはずである。あるいは、こういう店ではもはや現金で支払いなんかしないだろう。アメックスのブラックをさりげなく出すとかなんとか、もしくは金の話なんかせず、後日事務方がきちんと清算しているとか、そういう
最近は、だから、日本語が間違っていようがどうだろうが、もう、いちいち文句など言いたくもなくなってきた。成増屋を使うたび、逆に安堵を覚えるのである。
店員さんはみんな変な日本語で一生懸命やっている。いとおしく誉めてやりたいくらいだ。
私の知り合いの知能の高い人たちによると――私は馬鹿だが、私の知り合いには賢い人がたくさんいる――、日本語は駄目な言葉であるため、今後100年くらいで日本語は消滅し、全部英語に代わり、店員や社長、工員、管理人、その他もろもろあらゆる職業人は
昨日から読んでいる内田百閒の「阿房列車」に出てきた言葉で、知らない言葉だった。
Weblio辞書によれば、
「(宮城の外に出て塵(ちり)をかぶる意)変事に際し,天子が難を避けて宮城の外に逃れること。」
……だそうである。
この言葉も同じく阿房列車から。
コトバンクには、
結代とも書く。脈拍が不規則となったり,1拍動が欠けたりすること。期外収縮や心房細動による。
……とある。
同じく「阿房列車」から。
心ひかれるものがなくて興ざめするさま。空虚なさま。
……とある。
同じく「阿房列車」。
いつかひまな時。多く「はるながに」の形で副詞的に用いる。
……とある。たまたまだが、この「コトバンク」の用例も「阿房列車」からの引用で、借りたお金をそのうち返すから、というような意味で「(お金の返済は)いずれ春永にということになって」という、私には意味の分からなかったところがそのまま使われていた。
メディアの記事の「子どもなし世帯」という言葉の書きっぷりに怒っている人のブログ記事で見つけた。聞いたことはある言葉だったが、意味は忘れてしまっていた。めったに聞かないもんな、こんな言葉。
「烙印」というような意味と、「聖痕」というような意味の二つがあるようだ。
池波正太郎の小説を読んでいると、飲食店の描写などで、よく「入れ込みの座敷」というのが出てくる。
私はこの「入れ込みの座敷」というのを、「小上がり」のことだとばかり思い込んでいたのだが、昨日読み終わった「酒場百選」という本で、全然意味が違うということを知った。
酒場百選によると、「入れ込み」というのは、「客が来た順にどんどん混ぜて座らせる」ことを言うそうである。繁盛している居酒屋の方式だ。
だから、池波正太郎の「入れ込みの座敷」というのは、客がどんどん、「
うーむ、
「
「水を押しわけるところ」つまり「
まだまだ、日本語の学習は果てしない。足らない。
昨日、更科蕎麦の事を書いていて、「しなやか」という言葉を使った。
「しなやか」には、たしか、「
だから、この字を使った「
一方、同じ「しなやか」でも、「
そうすると、「しなやか」という言葉には、互いにかなり離れた二つの意味があることになる。
昔、山口百恵の歌だったか、「しなやかに歌って」というのがあった。恋人来たらず、寂しい時や悲しい時もある、そんな時はこの歌を「しなやかに」歌おう、というあらすじの歌詞だった。この場合は、これは実にいい言葉選びだと思う。「
「しなやかに生きる」と書くと、なにやら