時事雑挙

投稿日:
大阪の新しいJR線

 数か月前の記事だが。

 大阪にそんな路線が出来ていたなんて、さっぱり知らなかった。この前老親の顔を見に大阪へ行ったが、本当に顔を見ただけですぐ帰ったので、全然興味もなく、気付きもしなかった。

ああ、そこだ

 私は改革が嫌いだ。だから、「変わらない勇気」という文言に強く心()かれる。

 やみくもに固執しようということでも、めったやたらに変えようということでも、どちらでもない。

 不易流行、ということである。

キャバクラであろうと学校や会社であろうと

 これもSNSでフィードされてきた誰かの文筆だが。

 下らない話かと思いきや、なかなか含蓄に富んでおり、発見と指摘がよく盛り込まれていて、文章も上手く、読ませる。

そりゃまあ、他人の映像で稼いじゃイカンわな

 これも数か月前のブログエントリだが。

 そりゃまあ、生のままのゲーム画面の撮りっぱなしでは、まるっきり他人のコンテンツで儲けるようなもんだもんなあ。いずれはこういうことにもなるであろうという気はしていたが。

 しかし、現在有名になって稼いでいるYouTuberは、多かれ少なかれゲーム実況で出世したって人も多いから、痛しかゆしのところもあるんだろうね。

へえ、しかし、権威嫌いというのも、一種のアメリカ人らしさでもあるわな

 GAFAが嫌われているという記事があった。

 えっ、ウソッ、アメリカ人って、自国の大企業を誇りに思ったりして鼻を高くしてるんじゃないの、と思ったら、案外そうでもないようだ。

 言われてみれば、確かに、トランプ大統領の票田であったデトロイトなどの「赤錆地域(Rust belt)」の、一昔前のアメリカ人らしいアメリカ人あたり、GAFAなんて嫌っていそうだ。

 日本だって、ソフトバンクみたいな新興大企業やその経営者が嫌い、って人、いるもんな。

まず初めに憎まれ、謝罪させられなければならないのは、犯罪人の方である。

 横浜地検が刑務所に収容される前の犯罪人を逃走させてしまい、問題となっている。

 無論、司直の側の不手際は否めない。否めない、というか、大失敗ではある。

 しかし、この粗悪な犯罪人を排撃非難することもなく、検察や、(いわん)や警察の不手際のみを責め立ててばかりいる世間の論調には反対だ。

 まず、この粗暴凶悪そのものの犯人を責めねばならぬ。狩り出し、罪を償わせ、謝罪させねばならぬ。それがまず先だ。それがあって、それから、「司直もどうなの」となる。それが順序と言うものだ。

 悪いのは犯人なのだ。この男が罪を犯さなければ、また逃走しようとしなければ、こんなことは起きなかった。刑が確定しているから、刑務所に送り込まれればこの男の管理は法務省、要するに刑務所に移る。刑務所において徹底膺懲(ようちょう)すべきである。

 あと、どうでもいいけど、この小林誠なるポン中、裁判で確定判決が出て刑務所への収容が決定している犯罪人なので、「容疑者」という肩書は正しくない。「容疑者」というのは、「罪を犯した疑いを()るる余地ある者」という意味であって、まだ「疑い」の域を出ないからだ。今回の逃走そのものに関してはまだ容疑者だが、全体としては容疑者ではないのである。が、さりとて、まだ刑務所に収容されているわけでもないので、「小林収容者」などという呼び方も正しくない。ただ一つ、法定の犯罪人名簿に載る犯罪人であることは間違いない事実だから、社会的な肩書は「犯罪人」である。メディアも「小林犯罪人」とでも呼んだらどうか。

追而(おって)書き

 ニュースを見ていたらこの逃走犯、逮捕されたようである。

 それにしても、大捕物(おおとりもの)になっちゃって、まあ……。公器を無駄にふりまわし、無関係の人々に迷惑をかけおって、恥ずかしい犯人だ。日本中の人に謝れ。

なかなか面白い、だが……。

 SNSでフィードされてきた知らないブログのエントリが興味深かった。

 そこそこ面白かったのだが、しかし、どうも、論理を分かり易くする為もあるのだろうけれども、単純に過ぎて、大人の賞翫に耐えるようなところには達していないと思う。

ロシアの半分玄人(ハングロ)、スゲェ

 YouTubeのホームでリコメンドされてきた動画なのだが、ロシアの趣味人が自動車のターボファンを取り外して自家製のジェットエンジンを作り、ラジコンに搭載して飛行させるまでを撮影している。

 趣味人と言っても、多分、半分プロ、すなわち、所謂(いわゆる)半分玄人(ハングロ)」なのだろうとは思う。だが、それにしても凄い。力量も凄いし、昔のソ連、あるいはソ連崩壊直後のロシアと違い、こういうことを余力でやる豊かさや、それをYouTubeで公開できるようになったロシアの自由さ、こういうことが趣味でできるような工業技術の普及と、層の厚さ、そういうものに感心する。

なるほどなーっ……

投稿日:

 なるほどなーっ……。

インタビューの音声をiPhoneで再生してイヤホンで聞きながら、iPadのメモを音声入力にして、マイクに向かって自分で同じセリフを喋り続けた

 自分の声で喋れば、「機械に認識させようとして認識させている」わけだから、フリーで喋っているインタビューの生録音よりも認識率が良いことは間違いない。しかもタイプするのとは違って、耳から聞こえたものを口に出すだけだから迅速だ。よくこんなこと思いついたものだ。若い人は優れている。後生(こうしょう)(おそ)るべし、といったところか。

伝えること、怒ること、伝わらないこと

投稿日:

 行動なしに伝えるのは難しい。行動すべきと言っているのではない。世の中の(ほとん)どの伝達は、むしろ行動などなしに伝えることを要求される。だからなおのこと、伝えることは難しいのだ。行動さえできれば、簡単に伝わる。しかし、行動が禁じられているとなれば、隔靴掻痒(かっかそうよう)などとは言うも愚か、まず伝えるべきことは半分、いや四半分(しはんぶん)も伝わらぬ。

 巧詐(こうさ)拙誠(せっせい)()かず、とは言うものの、だが、伝えることには技術がある。そこに技術があるということをわからぬまま、誠実さを振り回そうとするから軋轢(あつれき)が生まれる。怒鳴ったり暴れたりしなければならなくなる。

 怒るのも技術のうち、と言ってしまえばまるで身も蓋もない。しかし、ある程度以上の年齢に達すると心底から怒るようなことができなくなってしまうから、年配の方々には、「怒る技術」という表現に同感して頂けると思う。加齢というのは残酷で、簡単には怒りなど湧かなくなってしまうものだからだ。

 最近は、何か、マネジメントの一環ということで、怒りをどのようにコントロールすればよいか考えるのが流行っているようだ。曰く、「アンガー・マネジメント」というのがそれだ。その内容はほぼ「怒らないためのテクニック」らしい。しかし、私に言わせれば、怒らないも何も、(ジジ)ィになってくると憤怒など湧いてこなくなってしまうのが普通だ。だから、怒らないためのテクニックに時間をかけるのなど無駄である。

 してみれば、腹を立てたくなければ歳をとりたまえ、ということになる。いずれ皆さんも、腹を立てようとしても腹なんか立たない、という境地に到達するだろう。腹を立てるのに苦労するようになってしまうのだ。怒らなければならないのだろうな、と言う局面で怒ることができなくなる。老成により衝動や感情が平板になってしまうのだ。これには、恐らく脳内物質の枯渇など、生理的・科学的な理由があるのだろう。老成には個人差があり、怒れなくなる年齢は人によって異なると思う。

 更に付け加えれば、加齢によって嫉妬なども感じなくなる。他人のことなどどうでもよくなってしまうのである。金持ちを見ても、出世頭を見ても、石か木のようにしか感じられなくなるのだ。「お前、アレ見て悔しいと思わないか?」などと言われても、「へ?」などとすっとぼけた声しか出なくなる。

 だがそれでも、社会の一員として、自分を駆り立てて怒らなければならない場面がある。怒りたくもないような局面で怒らなければならないのだ。そこに居合わせ、周囲を見渡して「あれっ、この場の『怒り役』は俺か」と気づいたりすると、正直言ってゲンナリする。実際のところ、全く腹など立っていないから、そういう場面は苦痛以外の何物でもない。

 そんな私だから、自分より年下の人が怒りをどのようにコントロールすべきか、なんてことを真剣に議論しているのを見聞きすると、ほほえましくすら感じるが、難しいのが自分より年上だったり同年配だったりする人の場合だ。星霜を経た人が怒りや嫉妬に悩まされているらしい様子は、何か病的に感じられることが多い。これは病的だな、と感じられるとき、大抵、相手は実際に病気だ。十中八九、程なく入院したり心療内科や精神科に通いだし、長期にわたって休んだりするのだから始末に悪い。

 さらに始末に悪いのは、そうした人を見て、私など、「これも明日は我が身だ」と同情しまうことだ。どうしても同情が先にあるから、メンタルなど病みそうもない健全な若い人たちが、病気になってしまった人を負担だと感じて批判しようとする、その若い人たちの痛みや怒りなど、私には心底からはわからない。つまり私もまた、脳の萎縮した、鬱病予備軍にほかならぬのだ。

表裏(おもてうら)のない若い人

投稿日:

 私のそばに、表裏(おもてうら)のない人がいる。私よりうんと若い人で、頭がよく、スピードもあり、恬淡としていて、体が頑強で、真面目だ。それらよりまして、正直なことがその人の良いところだ。尊敬すべき人物である。儒語に曰く、「後生(こうしょう)(おそ)るべし」というのはこういうことだと思う。

 その人を見ていて、自分を振り返ると感懐去来する。私はもともと、正直な人物ではなかった。それが芯から底から嫌になったことがあった。そのため、私も表裏のない人になろうとしたのである。人の悪口を陰で言ったりするのをやめよう、その人の前で言えないことは、陰で決して言うまい、陰で言うのなら、その人に直接言おう、極端な話、その人をバカだと思うのなら直接バカと言って怒られよう、というわけだ。

 決意は立派だったが、元来が正直に育った性質(たち)ではないから、正直さが骨の髄まで沁みとおってなどいない。長じてから他人の正直さを羨んでやってみようと思っただけの事だから、所詮、付け(やいば)、やっているふりに過ぎない。

 そんなふうに、中途半端に裏表のない性格の人になろうとしたものだから、変にこじれて、人に対して皮肉を言うようになってしまった。

 つまり、正直さ、表裏のなさから来る人間対人間の摩擦がしんどく、省力化をしようとする。

 人に対して表裏なくふるまうことは結構大変なことで、力が()る、それを省力化しようとして、無駄な部分を削り落とすことにしたのだが、間違ってその弊害の部分、悪い部分、しかも中途半端に悪い部分だけを残して良い部分を削りおとしてしまったのだ。すなわち、バカにバカと言うと相手を怒らせてしまってコッチもしんどいから、「あなたのやり方はあなたの頭脳から言えば上々のうちには入りますよ」などという、よく聞くと「あんたはバカだ」と言っているのだが、かえってひどい言い方で相手を傷つけるという、中途半端な正直さの人、要するに「皮肉家」になってしまったのである。

 今度はそれをも反省してその性格を直そうとしたのだが、これがまたなかなか直らない。最近になってだいぶ直ったが、まだ他人に皮肉を言う悪い癖が残っている。

 何にしたって、人を傷つけるようなことを言うのは、やめようと思う。よく考えても言い方がわからないときは、黙っていようとも思う。