1億倍で言わないと消滅する。

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 以前、「中国人13億人と日本人1億3千万とが全力で殺し合いをしたら、秒殺で日本人全滅。戦い方で工夫をして勝つなら、あらゆる能力が100倍優れてないとダメ」みたいなことを、ランチェスターの二次則にからめて書いた。

 簡単な理屈で、100倍というのは勢力比の自乗である。

 もう一度書くならこういうことだ。ランチェスターの2次則によれば、損耗は勢力比の自乗で作用する。

{B_0}^2 - {B_t}^2 = E({R_0}^2 - {R_t}^2)

 ここに、
  B 青軍
  R 赤軍
  B0、R0:  青・赤両軍の最初の兵力
  Bt、Rt:  ある同じ時点での青・赤両軍の残存兵力
  E:  兵力の質の比。赤軍の質が青の倍であれば2、半分であれば0.5。

 式を変形すると、例えば、

{B_t = \sqrt{{B_0}^2 - E({R_0}^2 - {R_t}^2)}}

 このR0に日本の人口、Rtにはゼロを、B0に中国の人口、Eに1.0を代入すれば、つまり「日本人が全滅を期して捨て身の特別攻撃をしかけて、中国にどれだけの損耗を強いることができるか」という冷厳な計算となる。

 言うまでもないが、この計算はするだけムダだ。それでもあえて計算してグラフを描けば、こうなる。

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 日本人の人数の、10分の1の損耗すら、与えることが出来ない。一人十殺どころか、10人がかりで1人殺すこともできないのである。

 これを互角にするには、兵力の質の比「E」を高めることだが、これも計算するだけムダである。100倍以上という数字が出るだけだ。

E=\cfrac{{B_0}^2 - {B_t}^2}{{R_0}^2 - {R_t}^2}

 この式にそれぞれ中国と日本の人口、互角となるようにBtとRtにゼロを代入すれば、約106という途方もない数字になってしまう。

 これが、先日私が書いた、じつにお粗末で簡単な理屈である。だがしかし、「殺し合い」なぞと物騒な書き方をしたから、どうにも老幼婦女子に刺激が強すぎたと言おうか、まず「穏当でなかった…」のは否めない。

 だが、殺し合いまでは行かない、例えばあることに関する意見や主張、ということではどうだろう。

 「昭和10年~20年(1935年~1945年)までをリアルに過ごした全ての日本人は悪魔で殺人鬼で血も涙もない許すべからざる鬼畜で、レイプ大好きな人類の敵だった」

…ということを、13億人の中国人が全員で言い、そして、かたやの日本人の、まあ、せいぜい100万人ほどのかわいい勢力が、小さな声で

「そ、そんなことないよぉ…当時の日本人にだって、いい人はたくさんいたんだよぉ…」

と、ボソボソ口ごもるとする。まあ、大声の大合唱と、小さな声のつぶやきとの戦いだ。そうすると、どうなるのだろう。

 この際、10億ナンボという土台に対して、朝鮮半島の5、6千万なぞ、計算の埒外、誤差というか、ゴミのようなものであることをあらかじめ言っておく。

 13億人の中国人全員が全力で100%の力を出し切ってこんなことを言うというのも、非現実的だ。中国人の中にだって、「いやいや、それは言い過ぎだって。日本だって、当時当時の情勢ってものもあったわけだから」と、一定の理解を示す知性のある人も少なからずいるだろう。だから、方程式の入力に「13億」と叩き込むのはよろしくない。また、全員が100%で主張するというわけでもなく、かなりラジカルな活動家でも、1%ぐらい「日本人だって人間なんだから」と心の片隅で思っていなくもないだろう。そういったところをあれこれ差し引きして、

「13億人中の10億人が全力で『A』と主張する」

…とでもしようではないか。

そして対する日本が、「100万人のかわいい勢力が小さな声で言う」というところを置き換えて

「10万人の勢力が全力で『非A』と主張する」

とでもしようではないか。

 先日の私の遊びのように、13億対1億3千万をランチェスターの二次則に代入するなど、代入する前からわかりきった馬鹿馬鹿しいことだった。それが10億対10万である。これは馬鹿馬鹿しいを通り越して頭脳の目方を疑われるような無意味なことだ。

 それでも、あえてグラフを描こう。

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 横軸の、中国の10億が、まったく変化していないことに注目しよう。実は変化しているのだが、桁が小さすぎて表示できないのだ。つまり、ただの一人たりと、日本の意見に同意してもらうことなど出来ない。

 では、これを互角にするにはどうしたらよいのだろう。互角にするためには、交換比Eを計算すればよい。

E=\cfrac{{B_0}^2-{B_t}^2}{{R_0}^2-{R_t}^2}=\cfrac{10^2}{0.001^2}=\cfrac{100}{0.000001}=100000000

 1億倍である。

 こちらの主張を、日本人特有のおくゆかしさでもって、「いつかはどちらが正しいかをちゃんと天が見定めてくれる」とわけしりぶって小さな声で言っていることには、数値上の意味はまったくない、ということだ。

 正しいとか、正しくないとかはこの際置こう。おじいちゃんおばあちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃん、我々を産み育てた父祖の世代が、「クズでカスで大便みたいなゴミだった」という認定が、世界的定説になるかならないか、それをどうするのかということなのだ。

 それを互角に保つには、キチガイ右翼の街宣車のボリュームがやかましいなどという、そんなどころの騒ぎではまったくダメで、「1億倍の強度でそれを言わなければならない」ということである。

 「1億倍の強度で言う」ということは、簡単なことではない。これは例えではないからだ。

 例えではない、ということはどういうことか。具体的に書けば、中国人一人がネットに

「日本カス。死ね。」

…と8文字ほど書いたら、互角に対抗するために、10万人の日本側は

「日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です

~(中略)~

日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です」

…と、8億文字ほどの情報をネットに流せ、ということなのだ。そうしないと、「日本人は昔から罪深い糞でアホでカスだった」という認定が、朝夕に迫るのである。

 そんなことは、到底できることではない。

法定冷涼

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 まことに申し訳ないけれども、私は、日本と言う国が再び力を得て、人類と文明全般に対する責任と言うものを果たすためにはグローバル化などではなく、「核武装」が必要であって、100年かかるか200年かかるかわからないけれども、いつの日か欧米白人の頭上に神罰の鉄槌を炸裂させて奴ばらの非を悟らしめるためにも、原子力発電所は必要であると考えるような非道なオッサンである。

 どうか、そのことをなんとでも責めてくれたまえ。

 ただ、今日と言う今日は、そこを、百歩どころか、万歩、億歩ほど譲ろう。

 譲りに譲って、原子力発電所は、全廃しようという、そういう主義になりましょうよ、ええ、ええ。

 それであるならば、キミたち。この夏場の、電力がなんとかフクシマがどうとか、したり顔でヌカすわりには、この、冷房のための電力需要はどうしたことか。

 これは、わけもなく厚着をしているのが悪いのである。服なんか脱げ。脱いで、パンツ一丁になってしまえ。

 クールビズなどと言っているが、何を甘いことを言っているのか。

 あらゆる職場における、男の「パンツ一丁」を法制化すべきだ。

 女性は、これは、薄着にすると性犯罪が増えるし、女は冷え性と相場が決まっており、ただでさえ女性が職場に増えている昨今、冷房の温度設定が低すぎると男女間のトラブルの原因にもなっているから、オーバーでも毛布でもなんでもかぶって、暖かくして勝手にすればよろしい。ただ、オッサンは、総員、職場における全裸を許可、いや、許可などと甘ッちょろい、義務とすべきだ。

 フォーマルの場合はパンツ一丁にビーチサンダル、首にはネクタイを結ぶ。カジュアルはフリチンか、パンツ一丁だ。

 こうすることによって、体感温度は人によるとはいうものの最大5℃ほどは下がり、夏場の電力需要を著しく低下させることができるにちがいない。

 品とか見た目がどうとか、そんなのは気分の問題で、「全裸法制化」ののち、5年ほどもガマンすれば、なに、全員慣れるに決まっている。

 見た目を気にするキザな連中は「筋トレ」を始めるなどして、体脂肪が減少して健康になり、生活習慣病が激減して、健康保険問題が劇的に改善されるであろう。

 あと、夏場に湯など使うのは、罪深いことだ。男は全員、4月から11月まで風呂のかわりに「(みず)垢離(ごり)」をすべしと、エネルギー消費制限法というようなものでも作って強制すればよろしい。ぜいたくをやめさせろ。そうすると、原子力発電所の半基ぶんくらいは廃止できるのではあるまいか。ナニ、冷たい!?アンタらの言う、子孫のため、地球のためだ、ガマンせんかい。

 女性は、まあ、冷え性だから、湯でも何でも好きなだけつかえばよろしい。

欧米白人を嫌うおっさん(私)の落想

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 悪意の欧米白人が日本人を困らせ、いじめ、持っている金を巻き上げるにはどうしたらよいか。

 軍備に劣る日本を、力で追い込むと、さすがに窮鼠猫を噛むが如きことになって、大東亜戦争の轍を踏む。日本人が全員、核攻撃を浴びて死に絶えようが、それは欧米白人の知ったこっちゃないが、悪者は欧米白人だということになるのは具合が悪い。

 それなら、まずエネルギーだ。これでジャップを困らせ、金を払わせよう。欧米白人はそう考える。

 知らない人が多いが、アメリカは、実は世界一の産油国だ。

 だから、アメリカは、産油地域のイスラム・アラビアをどんなにいじめ、困らせようと、エネルギーという点ではちっとも困らないのである。困るのは、日本のような国である。そして、世界一の産油国のアメリカは、自由自在に石油の相場を決定できるのだ。

 これもあまり知られていないが、その昔、日本が対米戦争に踏み切った直接要因は、陸軍が勝手に暴走したなどというようなNHK流の荒唐無稽な妄想話ではなく、アメリカの石油の禁輸措置にあった。戦前もアメリカは世界一の産油国であったから、日本の石油の輸入は、100パーセント、アメリカに頼っていたのである。そこを衝かれたのだ。

 悲惨を極めた戦争の後、日本とアメリカは講和し友好国となった。だが、さすがに日本も馬鹿ではないから、アメリカから石油を買うことだけは、もうしなくなった。アメリカ以外の国々、特に中東諸国から買い入れるようになったのである。

 「クソッ。猿野郎。怯えやがった。もう一度ウチの石油を買いやがらねえかな」くらいのことは、内心アメリカの意思として伏在するだろう。

 たとえアメリカが凋落して、世界一等国の地位から転落するようなことがあったとしても、原住民から収奪した広大な国土から産する石油その他の地下資源を掘り出して売れば事足りる。油田の開発と掘削はテクノロジーのしからしむるところであり、簡単なことではないとは言うものの、いろいろな物を開発生産することに比べれば、基本的には力づくで地面に穴を掘るだけだから、文明度が低かろうと国民の知能が劣ろうと、それで食っていくことはできる理屈だ。

 彼らは道徳高い人を育てたりすることに欠ける。それは、別に人など育成せずとも、いざとなれば地面に穴を掘れば、カネになるようなものがザクザクと出てくるからである。だから、人を育て、その高度な知能によって物を製造して売ること、そのこと一点にのみに賭ける、というような、日本のような国づくりはしなくてよいのである。

 ともあれ、イスラム・アラビア攻めで困るのは、日本のような国だけだ。アメリカは困らない。多少、戦傷者が出る程度で済む。罪のない、貧しいイスラムの一般の人がその10倍死傷しようと、それを現地の元首や政府のせいにして澄ましかえっていればよいのである。

 次いで、食料。日本は、食糧を輸入に頼る。米以外のほとんどの食料を海外から買っていることはそこいらの小学生でも知っている。だが、確かに輸入といえば輸入だが、ほかの食料と比べて純然と輸入とは言い切れない食料が、実はある。それは魚介などの海産物である。「魚離れ」とはいうものの、日本人の蛋白源は、いまだにかなりの率が魚に頼る。

 日本人を食料の面で締め上げ、困らせたあげく、食料を売りつけて金を巻き上げる。それには、どうしたらいいのだろう、と、欧米白人は考える。どうも日本人は、金は確かにある筈なのに、こっちの押し付ける肉などを買いやがらねえ、肉なしで人間が生きられるはずがねえ、何か代わりのものを食ってやがるんだろう、調べてみよう、…などと考えたかどうかは知らないが、そうやって調べてみたら、なんと、天然資源の魚をどんどん獲って、それを食っていることが、たちどころにわかるわけだ。

 広い大洋で海産物を獲るのは、勝手である。漁にかかるコストはあるが、畜産などに比べれば、はっきり言って、魚はタダだ。そしてまた、国際的に文句のつけられるような筋合いのものではない。

 よし、それなら、日本人が海産物を獲れないようにしてやろう。そして、オーストラリアやアメリカから、牛肉を買わせてやる。

 そうするにはどうしたらよいか。

 そう、まず手始めに、「鯨を獲るな」である。牛肉を買わせたいオーストラリア人が言い出すとは、実にわかりやすい話だ。

 鯨は現在では、日本人が主として口にしている海産物ではない。だが、それを皮切りに難癖をつけ、欧米白人たちがどのように議論を広げていくつもりなのかは明白だ。現に、もう、次第に奴らの意図は見え始めている。マグロに対して、奴らは狡猾な言いがかりをつけ始めたではないか。

 「マグロが減っている。学術的にそれは明らかだ。」

 「野蛮な競り市で、マグロの屍骸を取引している。文明的でない。」

 「マグロの解体ショーとはいったい何事。血なまぐさく、民度が低い。」

 こんな難癖をつけ始めているのだ。そして国際会議の議題に持ち込み始めた。しまいには、「マグロは知能の高い魚で、人類の友達だ」などと言い出すだろう。

 そしてもうすぐそれは、魚全体そのものに関する内容に広がってしまうだろう。いわしもさんまも、じきにそうなる。

 単に嗜好や文化のことを言っているのなら、我慢のしようもある。だが、違う。彼らは彼らの低劣な収奪と侵略の意図でもってそれをやっている。それを決して見過ごしてはならない。

 だから、これ以上、欧米の文化を無防備に受け入れることをしてはいけない。ハロウィーンなどの子供の遊びにも、心の奥底にはピリッとした警戒感を常に持ち、猜疑心を持ってそれを監視し続けなければならぬ。そうしないと、「何が何でも石油化学製品を作り続けなければ文明国の地位からたちどころに転落する」とか、「獣肉を食うことは優れたことであり、海からタダで魚をとることは、卑怯で野蛮なことだ」などという、知らない間にもぐりこまされたおかしな価値観を握らされ続けることにつながってゆく。

 すでに、彼らは日本の商習慣を破壊することに成功した。

 これも、知らない人が多いが、昔、ペリーに屈服させられた日本は、欧米の言うがまま、不平等条約で不当な関税措置を飲まされ続けた。ところが、関税をかけることができなくても、日本国内ではいわゆる「舶来物」は売れなかった。なぜか。

 「大問屋・中卸・卸問屋・問屋・小売店」などといった日本の再販制度が作用したのである。それは、長い鎖国時代、飽和状態にあった国内市場で、ひとつの工業製品に、できるだけたくさんの人がぶら下がって食っていくために編み出された、流通の完成形であった。それが思わぬところで作用したのだ。

 輸入品にはさらに総代理店・代理店などが入るため、その利益が上乗せされ、舶来品は高価なものとなった。だから、大正時代に不平等条約が撤廃されても、また、その後、戦後かなり経ってからですら、日本では輸入品はさっぱり売れなかったのである。それは、民衆が勝手にやっている関税のような働きをした。民衆が勝手にやっていることだから、欧米白人はそれに文句をつけることができなかった。

 そこで、おかしな価値観を奴らは吹き込み始めたのだ。

 「日本の前近代的な商習慣は、日本の産業や商業の発展を阻害している。アメリカではそんなことはやっていない。アメリカは優れているから、アメリカのようにするべきだ。だから日本はダメなんだ」

 というわけである。

 まじめに国産品を作り、また、国産品を売っている人に問いたい。「グローバル」などという当時耳慣れなかったカタカナに妄従し、国をあげて馬鹿のようにアメリカ化に励んで、その結果、物はよく売れるようになっただろうか。否である。物事をアメリカ流に変えた結果、得をしたのは、アメリカだけだ。

堕落論

投稿日:

 坂口安吾の「堕落論」は、とうに著作権が消滅していることを知る。掲げてみる。


堕落論

坂口安吾

 半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

 昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼等が生きながらえて生き恥をさらし折角の名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ。十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終らせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。

 この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。

 いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、之は皮相の見解で、彼等の案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。

 武士は仇討のために草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼等の知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照らし、忽ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。日本戦史は武士道の戦史よりも権謀術数の戦史であり、歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。今日の軍人政治家が未亡人の恋愛に就いて執筆を禁じた如く、古の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。

 小林秀雄は政治家のタイプを、独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き者の意志を示している。政治の場合に於て、歴史は個をつなぎ合せたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦巨大な独創を行っているのである。この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿に於て独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。何人が武士道を案出したか。之も亦歴史の独創、又は嗅覚であったであろう。歴史は常に人間を嗅ぎだしている。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点に於ては全く人間的なものである。

 私は天皇制に就ても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に担ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代り得るものならば、孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである。

 すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。

 我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲るたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就てはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。宮本武蔵は一乗寺下り松の果し場へ急ぐ途中、八幡様の前を通りかかって思わず拝みかけて思いとどまったというが、吾神仏をたのまずという彼の教訓は、この自らの性癖に発し、又向けられた悔恨深い言葉であり、我々は自発的にはずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。道学先生は教壇で先ず書物をおしいただくが、彼はそのことに自分の威厳と自分自身の存在すらも感じているのであろう。そして我々も何かにつけて似たことをやっている。

 日本人の如く権謀術数を事とする国民には権謀術数のためにも大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚に於て彼等はその必要を感じるよりも自らの居る現実を疑ることがなかったのだ。秀吉は聚楽に行幸を仰いで自ら盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。これは秀吉の場合であって、他の政治家の場合ではないが、権謀術数がたとえば悪魔の手段にしても、悪魔が幼児の如くに神を拝むことも必ずしも不思議ではない。どのような矛盾も有り得るのである。

 要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変り易いから「節婦は二夫に見えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。

 まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕ちて暗黒の曠野をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘らず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。

 死んでしまえば身も蓋もないというが、果してどういうものであろうか。敗戦して、結局気の毒なのは戦歿した英霊達だ、という考え方も私は素直に肯定することができない。けれども、六十すぎた将軍達が尚生に恋々として法廷にひかれることを思うと、何が人生の魅力であるか、私には皆目分らず、然し恐らく私自身も、もしも私が六十の将軍であったなら矢張り生に恋々として法廷にひかれるであろうと想像せざるを得ないので、私は生という奇怪な力にただ茫然たるばかりである。私は二十の美女を好むが、老将軍も亦二十の美女を好んでいるのか。そして戦歿の英霊が気の毒なのも二十の美女を好む意味に於てであるか。そのように姿の明確なものなら、私は安心することもできるし、そこから一途に二十の美女を追っかける信念すらも持ちうるのだが、生きることは、もっとわけの分らぬものだ。

 私は血を見ることが非常に嫌いで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしていた。けれども、私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に戦きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。

 私は疎開をすすめ又すすんで田舎の住宅を提供しようと申出てくれた数人の親切をしりぞけて東京にふみとどまっていた。大井広介の焼跡の防空壕を、最後の拠点にするつもりで、そして九州へ疎開する大井広介と別れたときは東京からあらゆる友達を失った時でもあったが、やがて米軍が上陸し四辺に重砲弾の炸裂するさなかにその防空壕に息をひそめている私自身を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持になっていたのである。私は死ぬかも知れぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。然し廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。その好奇心は私の一生の最も新鮮なものであり、その奇怪な鮮度に対する代償としても東京にとどまることを賭ける必要があるという奇妙な呪文に憑かれていたというだけであった。そのくせ私は臆病で、昭和二十年の四月四日という日、私は始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのとき丁度上京していた次兄が防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。又、当時日本映画社の嘱託だった私は銀座が爆撃された直後、編隊の来襲を銀座の日映の屋上で迎えたが、五階の建物の上に塔があり、この上に三台のカメラが据えてある。空襲警報になると路上、窓、屋上、銀座からあらゆる人の姿が消え、屋上の高射砲陣地すらも掩壕に隠れて人影はなく、ただ天地に露出する人の姿は日映屋上の十名程の一団のみであった。先ず石川島に焼夷弾の雨がふり、次の編隊が真上へくる。私は足の力が抜け去ることを意識した。煙草をくわえてカメラを編隊に向けている憎々しいほど落着いたカメラマンの姿に驚嘆したのであった。

 けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。麹町のあらゆる大邸宅が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に坐っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変るところがない。ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、罹災者達の蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交い、路上の鮮血にも気づく者すら居らず、たまさか気づく者があっても、捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さない。米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。

 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。

 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。

 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。

 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。

 私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.991

投稿日:

 今日はお彼岸連休に働いた分の代休だったから、朝からせっせとピアノの練習をした。すなわち、「エリーゼのために」を「その1」にして、完成品にするためだ。

 だが、できなかった。

 朝から数十回にわたって録音を繰り返したが、満足のいく演奏は一度もできなかった。

 ・・・がっかり・・・、すると、思うでしょ?

 ところがどっこい。これで絶望したりがっくりしたりする私ではないのであった。弾けるまで、何百回でも練習だ!!既に、概数千回以上は通し練習をしているだろう。

 私はオッサンであり、物覚えも悪く、才能もない。才能のない頭の悪い人間が、勉強も研究も練習もしなければ、どんどん落ちぶれていくのはわかりきった理屈である。

 早くに自分が愚かであると認定することだ。もし、私に似た人がいるなら、その人は、「私は本来は頭がよく、才能もあり、ただ、少しばかり運に恵まれないのだ、だから不当な地位に甘んじているのだ」などという馬鹿げた妄想から脱却して、愚者の道を歩むことをはじめるべきである。

 返す返すも、若い頃にこうしたことに気付かなかったのは、実に残念なことであった。

供養

投稿日:
職場にて

 私 「定年後も働かなければなりませんな」

同僚 「まったくで。お互い年金なんか貰えないでしょうからね、このぶんだと。」

 私 「何かいい商売か仕事でもないもんですかねぇ。老境でもラクに儲かるような。」

(しばらく沈黙)

同僚 「ないですね、ハッキリ言って。アナタも私も、大して学があるわけでもないですしねぇ」

 私 「やっぱり、私ら、間違いでしたよねえ、もっと人の上前をハネて生きている連中のマネをしとけばよかったですねぇ、金貸しとか株屋とか。ま、今更ナンですけど。」

同僚 「う~ん、しかし、今からでも脳漿を絞れば、なにかなくはないでしょう、元手の少ない、ピンハネ系の儲け話なんかが。」

 私 「果たしてあるでしょうかねぇ、そんなウマい話が。トレーダーなんて言ったって、言い換えれば『プー』ってことですからねぇ。」

同僚 「『百姓百層倍、薬九層倍、坊主マル儲け』ってねぇ。ボロい商売って言うと。」

 私 「なるほど、結局、付加価値をいっぱい付けて売るか、あるいは、値打ちがないかもしくは不明なものに値段を付ける、ってことでしょうかねぇ、『薬九層倍、坊主丸儲け』ってところは。」

同僚 「元手が少ない極北っていうと、やはり、『坊主丸儲け』、つまり宗教でしょうかねえ、定年後は。」

 私 「ああ、なるほど、教祖になるわけですね。儲かるでしょうね。」

同僚 「まあ、でも難しいでしょうなあ。みんなから祭り上げられないと、儲けにはなりませんからな。」

 私 「既存の宗教で、もっともらしい人の道だのなんだのは、経典やらなんやらでもう大概論述済みですからねえ」

同僚 「既存の宗教の経典のいいとこ取りで、ツギハギのもっともらしい経典を作るのが手っ取り早いでしょう。インターネットでテキストはいくらでもコピペ可能ですし」

 私 「そうするとあとは、何か目立つ新機軸を中心に据えるだけですな。思うに、人々の不安を煽って、カネを集めたり支配したりするのが宗教ですから、なにか不安要素をネタにすることでしょうねぇ。」

同僚 「古典的なところだと、『この木切れだか石ころだか掛け軸だか、なんだかわからないけどそれを拝まないと地獄へ落ちて死ぬより苦しい目にあうぞ』とかね。頭の悪い奴に根拠のないことを吹き込んで不安を煽って、そんでカネにしてますよね」

 私 「そうやって改めて考えると、前生とか後生とか、まったく何の根拠もない不安を捏造したり、『地獄』などとバカみたいな妄想を煽り立ててて人々を制御しようってんだから、宗教ってあざといですよね。なんかハラ立ってきた。」

同僚 「お腹立ちはもっともですけれど、そこをうまいぐあいに取り入れて、定年後ラクに儲けることを考えましょうや。」

 私 「う~ん、う~ん・・・あっ、一つありますよ。」

同僚 「ほう、ありますか、宗教のアイデアが」

 私 「ありますあります。いや、元ネタは以前にどっかで見たことがあるモンなんですけどね。だから完全オリジナルじゃないですけど。」

同僚 「ほうほう、で、どんなアイデアです?」

 私 「まあ、慌てず聞いてくださいよ。今や、インターネットやパソコン、携帯電話、すなわちITだの情報通信だのは、社会に広く浸透していて、必要欠くべからざる、ま、いわば社会インフラになっているワケです。ま、アンタも私も、だから食っていけている。ITは私らのメシのタネでもありますからな。」

同僚 「ふむふむ」

 私 「で、ところがですよ、ITとかインターネットがこれだけ社会を支えていながら、バカな奴にはその細部はウッソリとした雲みたいなもので隠されて見える。なにか、根拠のない、漠然とした不安なんかをそこから覚えるわけですよ」

同僚 「不安って例えばどんな?」

 私 「すぐわかるところでは、ウィルスとかハッカーとか。あるいは、ネットを通じて官憲によって私生活が監視され、特高警察に逮捕されて軍国主義になっちまう、とか、アホな官公庁が情報を流出させて、善良な市民のすべての私生活が白日の下に晒されて恥ずかしくて生きていけなくなるとか、そんなことばっかり言い立ててる連中がいるでしょ。」

同僚 「ああ、なるほど。ウィルスなんて、トレンドマイクロがマッチポンプで作ってんじゃないかとか、よく冗談で言いますもんねえ。ま、ある種、不安を煽ってカネにしてますよね」

 私 「で、ウィルスにやられたり、ハッカーにやられたり、情報が流出したり、ま、私らが言うセキュリティリスクですけど、でも、ぶっちゃけ、こんなもん、『運』ってものもあるじゃないですか」

同僚 「ああ、運は大きいですよ」

 私 「それでね、インターネット上のそういう、困ったインシデント、しかも運が左右するような、こういうのにですね、もっともらしい、祟りとか怨念とかいう理由をつけるわけですよ」

同僚 「う~ん、でも、どんな理由をですか?」

 私 「ソコですよ。つまりね、インターネットってのは、所詮パケット通信じゃないですか」

同僚 「ふむふむ」

 私 「で、インターネットでは、常時、何千兆という数のTCP/IPのパケットがですよ、グルグルグルグル、ルータやらスイッチやら、地中を潜り海を越え空を超え、宇宙を経由すらして、飛び交いつづけているワケです。」

同僚 「ははぁ、トラフィック交換所なんかになると、もう、東京とかニューヨークどころじゃないですねえ、パケットの海みたいなモンになって。」

 私 「この、無数の、名もなく従順なパケットたちの努力によって、インターネットは支えられておるワケですよ。」

同僚 「ふーむ・・・」

 私 「ま、決まった任務を果たすか、寿命が来れば、パケットには『TTL』があって、ルータなんぞに捨てられてしまいますわな」

同僚 「なるほど」

 私 「で、ね、こうやって日々、生まれてはまた黙々と死んでいく何千兆というパケットもね、数が数だけに、中には果たせぬ渇望とか、恨み、怨念なんかを残して、通信障害なんかによって、あたら若い命を散らす奴もいないとは限らないと思うんですよね」

同僚 「おっ、なにやらスイッチが入ってきましたな、得意なヘンなところに」

 私 「そういう無念な死を遂げるパケットは多くはないとは思うんですけど、でもほら、数が数だけに、積もり積もるとかなり大きな怨念が蓄積する。」

同僚 「それはちょっと怖いかもしれませんな」

 私 「そういうパケットの怨念が積もり積もって、あるスレッショルドレベルみたいなものを超えると、大規模なシステム障害に見舞われたり、コンピューターウィルスの流行などが起こったりするワケです」

同僚 「はは~ん、古い話ですけど、みずほ銀行のシステム障害とか、パケットの怨念のせいにすればカンタンですな。」

 私 「で、だ。こういうパケットの怨念を捨てておくと、今や社会インフラとすらなっているインターネットに霊障が出てしまう、なんとかしなければなりませんよ、そこで、当寺が仏縁なくして亡くなった寄るべなきパケットの魂を手厚く回向し、責任をもって永年供養いたします、と、こうやるワケです」

同僚 「おっ、これはカネが取れそうですな!」

 私 「でしょ?で、月々供養料というか香華料みたいなものを集めるわけです。あと、さっき言ってた、コピペで適当に作った経典にもっともらしいどっかで聞いたような人の道みたいな警句のクッサいヤツをめいっぱい盛り込んで、これも値段を付けて売りましょう。当然、ダウンロードPDF販売。紙代がもったいないですからな。読経とか法事はストリーミング映像配信で手っ取り早くイっちゃいましょうや。」

同僚 「宗教ですから、税金もいりませんな」

 私 「あと、どっかの宗派がタイコ叩いたりしますけど、こっちはウェブ上の本尊の画像かなんかを100万遍クリックすると修行になるとか、テキトーに行法を作るわけですよ」

同僚 「なかなかキビシイ教えですな」

 私 「でしょでしょ?そんで、供養料を納めなかったり、経典PDFをダウンロードしないような不信心なネットワーカーには、『祟りが来るぞ、情報流出してしまうぞ、捨てたパソコンが地獄に落ちて、お前の恥ずかしいデータやネットバンキングのパスワードなどが晒されてしまうぞ、2ちゃんねらーがブログに大挙してやってきて炎上してしまうぞ、いいのかオイ』みたいな不安をどんどん煽るワケです。」

同僚 「なるほど、『パケット供養寺』ですなっ?」

 私 「いかがなもんでしょう。定年後、一緒にやりませんか?」

同僚 「いや、お断りします。」

 私 「なんでですか?このアイデア、ダメですかね。」

同僚 「ええ、ぜんぜんダメです。っていうか、クダラネェです。」

 私 「・・・。」orz

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.32

投稿日:

 「エリーゼのために」、変わらず練習に励む。

 弾きなれてきた気はするが、ミスタッチをなくすことがなかなかできない。

 次女は併願していたピティナのコンペの2回目に出た。前回よりうまく弾けたように思い、これはひょっとして、と思ったものの、意外と採点は辛く、前回より悪かった。少々残念である。親馬鹿は気持ち半分にするようにしよう。

 明日はキャンプに出かける。

行楽の支度等

投稿日:

 今日はあまりピアノの練習はせず。

 次女はピティナのコンペティションを二つ併願しており、ひとつは先週惜しい点数で終わったが、来週の土曜日にもうひとつ出願している。どうも練習に身が入らないようだが、あと0.何点ごとき、マグレか何かで運良く稼いで地区予選を通過しないものかと期待している。親馬鹿もいい加減ではある。

 それが済んだら、知人同士3家族でキャンプに出かける予定である。仕事がチョイと忙しいのだが、無理やり休暇を申請した。今日はその支度をしていてあまりピアノを弾かなかったのである。

 越谷「イオン レイクタウン」の「SPORTS AUTHORITY」で、コールマンの4~5人用のテントを中心にいろいろ入った6点セットが2万9千800円。お得感があったので買い。ディスカウントショップへ行って、その他、炭やら燻製チップやら花火やらを買い込む。丸焼き気分を楽しもうと、肉屋には「まる鶏」を一羽、注文してある。

 20年以上前の若い頃にしばらく北海道に住んでいて、仕事が休みの度に大雪山系を跋渉した。トムラウシ山やクヮウンナイ川の景色が、肉体の苦しさの記憶とともに懐かしく今も瞼裏に五体に蘇る。周りの若者が皆街へ出て女の尻を追いかけるのに余念のなかった時、私はそれらの友人たちと一線を画して山通いばかりしていて、変わり者だと言われたものだ。仕事が忙しくなったこと、また結婚したことで、危険を避けるべく山には行かなくなり、アイゼンだのハーケンだのザイルだの、数多くの山行き用具は他人にやってしまった。山行きの記憶は封印してしまい、アウトドアとも縁遠くなった。北海道のすばらしい自然に親しんだことがあれば、関東・関西の自然になど何の魅力も感じなくなるということもある。

 それがまた、家族のためにテントなど買い込むことになろうとは。わからぬものだ。

 流しの蛇口が気に入らないと家内が言うから、システムキッチン用の手頃な水栓を三郷のホームセンターで買い、脂汗流して取り付け作業をする。業者に頼めば6千円も取られるが、自分でやればタダだ。

 ずいぶん買い物をしてしまった。給料がだいぶ減らされているから、支出が多いと不安を覚える。家計はなんでも家内任せにしていて、家にいくら金があるかすらも私は知らない。だが、家内は真面目な女だから心配はない。給料は減ったものの、定額給付金と新車購入の補助金でプラマイ零くらいにはなっているだろう。

成人の日所感

投稿日:

 成人の日、祝日である。朝から我が家の玄関先には日章旗を掲げて祝意を表した。

 だが、本心を言えば、私はあまり喜ばしく思っていない。

 テレビや新聞は、どうせ今年も荒れる成人の日、などという面白くもないニュースで塗りつぶされているのだろう。見る気もしない。電気代や新聞代を自腹で払って不愉快な思いをする必要などない。

 20年以上前、自分の成人式の日、私は仕事をしていた。だから、いわゆる世間一般の人が言う「成人式」というものには出ていない。その日は朝からなぜか一日中忙しかった。職場の下の者に私と同い歳の者が何人かおり、午前中、時間になると彼らを成人式に送り出してやった。私は職場に残ってなんやかやと深夜までコマのように働いて、自分の成人式がどうとか言っている暇はなかった。深夜1時、職場のきしむベッドにもぐりこみながら「ああ、成人式だったな。日がまわっちゃった。俺、成人じゃないか、ハハ」と、ひとりごちたものだ。

 社会人として責任を果たした、自分なりの成人式だったと思う。いや、そのずっと前から、私は社会の一員としての責任を果たしていた。だから、既に成人だったのだと思う。何ぞ我を他人が祝うことやある、と言うぐらいの内心を私は抱いていたようにも思う。

 親の金で高校や大学を出てぬるく生きている者には、成人の日における私の行動など、知能の低い者が自業自得によって仕方なくとった愚かさの代償に見えることだろう。2ちゃんねる流の言い回しなら「ドキュソ」である。「そうなる前になんで勉強して大学出るなりしないわけ?バカじゃねぇの?」とでも言い捨てることだろう。

 自分のことや当時のことをわかってもらおうと他人に説明する気など私にはない。親兄弟、妻や子供にすらわかってもらおうと思わない。理解などできまい。こんな話をすれば、「大げさだ、ウソだ」と言う。言わば言え、なんとでも。哀れまれたいと思っているわけではさらにない。

 自分のことをどうこうではない。ただ私は、高等教育を受ける機会を与えられておきながら、モラトリアムだのニートだのフリーターだのと称して怠け、寧日をむさぼっているスネ齧りの馬鹿者たちを腹の底から軽蔑し抜いているだけだ。

 手放しで誉められ、甘やかされてきた若者たちは、祝福されるにふさわしい人間となれるよう、自分たちを責め抜き、鍛え上げ、懺悔しなければならない。そうしなければ、今日という日は永久に、誰からも本当の本心からは祝ってもらえない、ゴミか痰唾のような蔑まれるべき成人式のままである。

タワごと

投稿日:

 久しぶりにタワ言の見本を見た。
  ↓
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/y/98/index2.html

 晴れ晴れとよく笑うことができた。