twitterのいいところがやっと判った。
言いっ放しでいいところだ。多くの、それこそスズメのtwitに紛れて、隠されるのだ。
いやぁ、それだけのために1週間も費やしたぞ。俺の時間を返せ。
・・・まぁ、技術上は、別にどうってことないよね。多くのアクセスに耐えるサイトの運営、ってことを技術と言うなら、まぁ、それもそうだろうけど。
オッサンは生きている。
twitterのいいところがやっと判った。
言いっ放しでいいところだ。多くの、それこそスズメのtwitに紛れて、隠されるのだ。
いやぁ、それだけのために1週間も費やしたぞ。俺の時間を返せ。
・・・まぁ、技術上は、別にどうってことないよね。多くのアクセスに耐えるサイトの運営、ってことを技術と言うなら、まぁ、それもそうだろうけど。
台風一過。
今日はもともと、沢山溜まった代休のため、仕事は休みだった。これを有意義に過ごさんものと、次女のピアノの先生に「単発レッスン」をお願いしていた私である。
私はもともと独学にこだわっているわけではない。単に時間やお金がないこと、また、あまり頭が良くないので、レッスンに通って、普通の人のようなカリキュラムに放り込まれたら、溺れ死にそうになってついていけないであろうことがわかっているから一人我流をやっているのであって、事情さえ許せば専門の先生に指導して頂きたいのが本音のところなのだ。今日はその貴重なチャンスだ。
楽譜と筆記具を持って、約束のとおり、まだ台風の強い10時に教室に伺った。今年の1月、次女の発表会の「トルコ行進曲」の連弾のパートナーをするためにレッスンして頂いたことがある。その時は無料で見て頂いたが、今回は私自身に稽古をつけて頂くためであるので、相応の謝礼をする。
その「トルコ行進曲」の時も思ったことだが、いやァ、やっぱりプロの先生に教えて頂くというのは、違いますなァ。一人で「通し練習」をする回数で例えると、50~60回は練習したのと同じくらいの手応えがある。
先生によると、私が使っている全音の「最新バイエル教則本」付録の「エリーゼのために」は、だいぶ「大人向け」の楽譜であるらしい。私は逆に子供向けだとばかり思っていたので、少し驚いた。先生の見解は、「更に言えば、このバイエル教則本自体、世間で思われている『子供向け』というのとは違い、大人向けである」そうな。どちらかというと、音大生など向けであると。知らなかったこととはいえ、思えばえらいモンを買ってしまったものだ。
アウフタクトの分の、1拍目と2拍目を数えるようにする。それにより、続く曲本体の拍が、本来の拍の感じになる。「(イチ・ニ、)ミ#レミ#レミシ♮レドラ~・・・」という風である。
楽譜が「大人向け」ゆえ、だいぶ弾き手任せなところがあったり、ペダルなどは「踏めるもんなら、これくらいの踏み方も挑戦してみてチョ」と言う位沢山書いてあるのだそうだ。だから、第1中間部で16分音符でペダルを細かく踏む所などは、私の場合なら省略してしまって良いらしい。
それで、先生は第1中間部のペダルを殆ど整理して下さった。各小節の頭だけ踏んでいく感じだ。その代わり、単にペダルを踏まなくて良いと思ったらダメで、「手でスラーする」ことが大切である。
曲の全体像から考えていくと、楽譜どおりをやめ、ペダルせず、軽く弾くとよい。作文で例えて言うなら、段落が改まるところで、「そして、」などという言葉を入れる感じである。
チナミに、他の楽譜では、ここは「メゾスタッカート」になっている。
「シ~ララソファミレドシ~ラ~」(25小節目)の、最初の「シ」は一番高い音で、大事だから、気合いを入れて弾く。だが、強く大きく弾けというのとは違う。頑張って大事に弾く。
また、このあたりの左手は「ファラド・ファbシレ・ファソbシミ」のキレイな和音を分散にしているので、和音を感じながら綺麗にやる。
指使いを合理的にして下さった。ただ、なかなか弾き慣れるものではないから、例えるとイビツながらも概ね組みあがっていた機械をもう一度分解したようなもので、通して失敗しないで弾くことは私にはかえって難しくなってしまった。直して頂いた指使いに変えるには、おそらくまだ数ヶ月の練習を要するだろう。
入り口の、「ド~・ミ」のところの、「ミ」が、私のだと短く弱すぎる。もっと「厚く」してよい。ただ、「イチニィ(サン)・イチ(ニィサン)」の音の長さを守る。
オクターブを飛んで弾くのに「指くぐり」風の親指の型を指導して下さった。そのコツとして、「肘を使う」ようにするとよい、とも。親指をくぐらせるとき、少しばかり肘を外に張るのである。
「間」を。「レドシ」と「ラ~」の間のところは最も重要である。
このような具合で、他にも書ききれないほど多くのことを教わった。一生懸命教わっているうち、ハッと気付いたら、あっという間に2時間が経過してしまっていた。
「日本が良くなる or 変わらない」って、「悪くなる」って選択肢はないのか!!??喝~ッ!!
どうしていつもこう、変な選択肢しかないんだ!!「変わらない」じゃネェ!!悪くなるッ!!
帰宅するなりエイッ、っと弾いたら、マグレでミスをしなかった。いや、表現と言うには無論ホド遠いですがね。
こういう、フラリと弾いたら、まぁ、上手くもないけど、なんとなく弾いてはいるよね、というような程度のことが何度も続けて出来ればいいと思う。
更に訓練、訓練ッ。
次女のピアノの先生に、次女と家内を通じて「単発レッスン」をお願いしたら、快く応じてくださった。
今週の木曜日の午前中にお邪魔することになったのだ。もともと木曜日には代休を取ってある。
楽しみナリヨ~。
twitterをいろいろ試してみておかなくちゃ、と思い、通勤途上のことや飲み食いして旨いとか、2~3、適当に書いてみたのだが、うーん、・・・。
チョイとしばらく使ってみなきゃ、良さはワカランかもなあ。
盆やシルバーウィークに休みがなかったので、その代わりに今日まで1週間、休暇だった。サイボクハムへ行った他は、どこへ行くでもなく、家でのんびり過ごした。
随分ピアノが進歩した。
明日から気分を入れ替えて仕事をしよう。
朝から数えて4回目か5回目くらいの演奏。ミスタッチしなかった。演奏自体も、自分としてはうまく弾けたと思っている。
10回に1回くらい、ミスしないで弾けるようになってきた。
来週、次女のピアノの先生にお願いして、1時間ほど「単発レッスン」をしていただこうと思っている。ここまで練習してからお願いするのだから、かなりいろいろなことを吸収できるはずだ。
「何回弾いてもミスしない」というレベルの、なんと遠いこと。だが、目標なんか見ない。ええ、目標など、見ませんとも。見てなんかやるもんか(笑)。練習これあるのみッ。
先だって「あの頃はフリードリヒがいた」という、岩波少年文庫から出ている子供向けの本を読み、いたく感じ入った。
あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520)) 価格:¥ 714(税込) 発売日:2000-06 |
あまりにも抑制気味の筆致が、大人には余計に考え込ませて悲惨の気持ちを増幅する。いい本だと思い、長女(小6)にやった。
このブログの「最近読んだ本」というサイドバー項目にも出してある。それを見て誰か読む人でもあればという心持ちである。
そのサイドバー項目を眺めていて、突然気付いたことがある。
ドイツは戦争に敗れた。だから、悲しみをもって、罪のない者を痛めつけたことを反省できる。アンネをかくまい、フリードリヒをかくまった者を温かい目で見、それら善意の人々を逮捕した秘密警察を憎むことができる。ユダヤ人をいじめ殺したアウシュビッツやベルゲンベルゼンの跡地をむしろ逆に保護保存し、反省することができるのだ。
だが、アメリカで、たとえば強制収容所に連行されようとする日系人をかくまった善意の人がいたとして──いや、広い国土だ、そういう者だってかならずいたであろう──そういう善意の人は、温かい目でなど永久に見られることはないだろう。日系人と言ってピンと来なければ、9.11直後のアルカーイダ兵の家族でもなんでもいい。アメリカ人は、彼らをいたわる者があれば、逮捕し訴追し、刑務所にブチ込んで殴るだろうし、アルカーイダの下っ端兵士をなぶり殺しにした三下将校を英雄だと言って勲章の一つもやるだろう。
アメリカ人は永久に弱いものをいたわる気持ちなど持つことはできないに違いない。あいつらなど、黒人の大量強制連行や原子爆弾による文明と人道への嘲笑ですら反省していないではないか。
彼らは正しいのではない。彼らはよこしまに強いだけだ。強いものが正しいと言うのは誤りだ。弱いものでも正しいものは正しいし、強いものでも邪なものは邪なのだ。
いっそ、ワシントンとニューヨークあたりで水爆でも炸裂して、2億人ほど死ねば彼らも反省と言う気持ちを知るに違いないのだが、そのようなことなど永久になさそうなのが口惜しい。アメリカ自身の退廃ぶりの見返りの疫病、たとえばエイズなどで死に絶えてくれないかと思ったが、逆にエイズで滅びそうなのはアフリカ諸国であったりする。
専制国家中国に頭を押さえつけられるくらいならアメリカにナメられたほうがまだマシではあるが・・・。