ゆびとま

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 例の「ゆびとま」から随分久しぶり且つ突如のメールが来たが、メール内のリンクをクリックしたものかどうか、ハテ。

 まあ、クリックしないんでしょうね。

 それにしても、ゆびとまは惜し過ぎた。あんなによい着想はなかったと思うし、現在のFacebookなどよりも日本人の出身校固着気質とも一致してよかったのだが、ヤクザとかかわってしまっては、しかたがない。

久しぶりに弾き逃げ

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 秋葉原ヨドバシの楽器売り場で久しぶりにピアノの弾き逃げ。以前と違ってスタインウェイはない。ローランドの30万円くらいの新製品を弾いた。楽しかったが、やはりスタインウェイのあの重厚なのにキラキラした弾き応えとはくらべものにならない。

散る前の桜は濃厚に薫る

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 散る前の桜の香りが濃い。

 香りも「薫り」と書くと、なにやら格調めくが、ここは「香り」と記しておこう。

 散ったあと、落ちた花びらも殊に香る。水のそば、皇居の外濠を歩いたりなどすると花筏から香りが立ち上る。

 昨日など、昼まではまだ満開下り坂、くらいの咲き加減だった東京の桜だが、夕刻に至って散り始めた。さっと風が吹くと、まだ吹雪とまではいかぬ、しかし桜の時雨とでも言うべきものとなる。この桜吹雪が香る。

 夜など歩いていると、桜の香りに驚かされることがある。

 普通、人がびっくりする場合というのは、音や光、あるいは思いがけず辻から人が出てきた、などと言うような時だ。香りでびっくりすることはあまりない。

 ところが、ぼんやりと歩いていて、不意に桜が香って、びっくりするのである。桜だけは別なのだ。

 匂いは大脳の古皮質に属する部分で感じるそうだ。大脳古皮質は人が無知蒙昧な獣だった頃から存在していた部分で、動物としての最低限の機能をつかさどるという。

 してみると、太古から猿人どもの周囲にあった桜樹の香りだけは、なにか別の感じ方をするよう、太古から連綿と続く人の遺伝子に刷り込まれているのかも知れない。

花筏(はないかだ)

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荒川と言へどやさしや花筏(はないかだ)   佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha (季語は「花筏」)

花筏を詠めないこともある

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 昨日次女のピアノ発表会の帰り、川口の荒川河川敷あたりの花筏を見て、これをなんとか十七文字に、と思った。

 ところが、今に至ってもまだ詠めぬ。

 苦吟、とは文字通りこのこと、なぜか言葉にならないのだ。

 そういうこともある。多分、脳の中の何かが減っているのだと思う。感動が薄いのだ。ものに感じる心が減っているから、言葉が減るのだ。

花と早春賦と文語体

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 「花」や「早春賦」をYoutubeで聴く。

 ああ、明治時代の詩は、どうしてこうも美しいのだろう。なんで、文語体でないとこの美しさが出ないんだろう。

 というか、多分、そんなふうに思う私は変人なんだろう。

 多くの人は文語体なんてクソだしダメだし理解不能だし死んでしまえ、それより英語サイコー!……と思っているに違いない。

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