さえずり季題【536】は「孕雀」です。子持雀、孕鳥、子持鳥でも。もちろん、見た目にはわからないのだけれど。いろいろ悩ましい時、ヒトにばかり集中しないで、万物繁栄の春の気を観ましょう。「孕雀行列の跡にいつまでつく 石田波郷」」#saezuriha #saezuriha_odai
— boubun (@boubun) March 13, 2021
月: 2021年3月
圧巻
最近、「ものすごく圧倒されるような、壮大な感じ、気圧されるような感覚」というような意味で「圧巻」という言葉を使っている人をよく見かけますが、それは使い方が間違っています。
……と言っても、多分、わかってもらえないということは、これも分かっています。— SatoToshio (@SatoToshio) March 13, 2021
最近、「ものすごく圧倒されるような、壮大な感じ、気圧されるような感覚」というような意味で「圧巻」という言葉を使っている人をよく見かけますが、それは使い方が間違っています。
……と言っても、多分、わかってもらえないということは、これも分かっています。
多分「圧」という字の持っている感じと、「巻」という字の読みが「かん」「感」と混交して、そういう使い方をしてしまうのだと思います。
しかし、言葉が違う意味で定着してしまうということはよくあることで、私のような一般人は、ムズムズと違和感を覚えつつ、我慢をしていくよりほかにありません。
一番より抜きのところ、出色の所……というほどの意味から、例えばコンサートで演奏の一番盛り上がったクライマックスや山場を「圧巻」というのは、これは合っていると思います。ところが、今日読んだ文章の中に、
千栄子が東亜キネマを辞めて京都を去った後の昭和4年(1929)には、鉄筋コンクリート4階建ての巨大劇場に建て替えられた。
桃山風の大きな屋根がそびえる圧巻の眺め……。その威容に松竹の資本力を思い知らされる。
……というプロのライターの書いたものがあって、この「圧巻」は多分、間違えて覚えているんだろうな、「壮観」「威容」というような言葉と混同しているんだろうな、いくつもの著作をものしている文筆のプロでもそうなんだから、他は推して知るべし、……などとと思う次第です。
- 圧巻(コトバンク)
この文章は、上左に掲示のとおり、最初は Facebook と Twitter に書いたものである。
春燈
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
春
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
読書
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」のうち、三つ目の「世々の歌びと(折口信夫著)を、帰宅後の自宅で読み終わった。
自ら歌人として著名な釈迢空折口
気になった箇所
他の<blockquote>タグ同じ。p.151より
今はとて影をかくさむゆふべにも 我をば送れ。山の端の月 (玉葉集巻十八、二四九三)此歌もはっきりしている。はっきりし過ぎている。ただ「影をかくさむ」と言うのが、月の事を言っているのか、自分の事を言っているのか、直接には来ない所があるが、月の縁語――かげを使っただけなのだから、身を隠すということはわかる。此が遁世することなどでなく、死ぬる事を言っていられるのだとすれば、亦もっとはっきりして来る。此以上はっきりしたら、歌の持っている空想がなくなって、この歌としての、又その頃の歌としての表現の特徴をも失うであろう。
窓近き竹の葉 すさぶ風の音に、いとど短き うたたねの夢 (新古今集、三、二五六)此歌には、恋愛の気分が這入っている。
……。いや、わからんわー、……と思った。
何れにしても、社会において、一流人として女性が認められぬ間は、其文学も、一流の水準にはのぼって来ないのである。
子規という人は、健康であったら、可なりうるさい人であったろうと思われる。
鉄幹に比べれば短命であった子規、題材の範囲の狭かった子規、彼が佳作を残すことが少かったのが当然であり、其が又、彼の価値を鉄幹より低めなかった理由である。高市黒人の作物は、十数首に過ぎないが、殆、すべて名作であり、この為に傑作の多い人麻呂に比べて、どちらが高い作家だとは定められないのと同じである。
日本短歌史とは、ある意味では、日本文学史のバックボーンともいうべき意義を持っている。本書はそのもっとも平明な、具体的な記述であって、折口学説の立論の根拠にある、解釈・鑑賞の具体的なたしかさを
読みとるべきものであろう。
言葉
陳套を極める
「陳ぶ」と書いて「のぶ」の他に「ならぶ」とも
- 陳套(コトバンク)
宮内省派の人々も、実は其をしようとしたのだが、古典の教養の乏しさから、其が一々低俗になり、又新しさも卑俗な程度にとどまり、其に附随して奏でる調子も、陳套を極めたものであった。
次
次は引き続き第14巻から「俳句読本」(高浜虚子著)を読む。言わずと知れた
……の、あの高浜虚子による俳句論である。
私の趣味は俳句を詠むことだが、実は、恥ずかしいことに、こうしたまとまった俳句論を読んだことがない。そのため、読むのが少し楽しみである。
一杯
梅
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
縹渺と笑ふ心地や夜の梅 佐藤俊夫 #kigo #jhaiku #haiku #saezuriha #jtbt
— SatoToshio (@SatoToshio) March 6, 2021
今日の沈 丁 花
菜の花
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
今週のさえずり季題
さえずり季題【535】は(菜の花)です。アブラナもカラシナも大根も葉牡丹もまた花を咲かせて
春は菜の花みんな揃って種を結びに
例句 (菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村)
#saezuriha_odai #saezuriha pic.twitter.com/nyePVmpFsG— 平坂謙次 (@hedekupauda) March 5, 2021