神功皇后記

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 通勤電車の中で、日本書紀第九巻、「神功皇后記」を読み終わる。

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 さて、以下のことは、学校の日本史の授業や、国語の授業ですら習った覚えがまったくないので、あらためて記しておきたい。

 日本書紀では、「魏志」を参照文献として取り上げ、その記述を引用している。(このこと自体、知らない人も多いだろう。)

 この「引用」に関しては、日本書紀はさすが、現代の役所の仕事にも通じるものがあり、読み飽きてしまうくらいしつこい。念入りである。「ある書に曰く…」と、考えうるあらゆる参考文献の記述を列挙してやまない。

 そんな日本書紀の中で、外国文献の引用があるのは、この「神功皇后記」が最初である。

 その引用部分は、私たちが学校の授業で耳慣れた、「倭の女王が朝貢をしてきた」という部分である。

 読めば分かるが、その引用の態度は冷静で、淡々と、「この年にあったこととして、『魏志』にはこう書かれている」と、潤色も何もなく書かれているだけだ。

 ところが、である。学校では、この、「魏志」の方ばかり教え、日本書紀にそう書かれている、ということは、決して教えない。

 ついでに書けば、日本書紀に沿うなら、魏志に言う「卑弥呼」は、明確に「気長足姫尊(おきなが たらしひめの みこと)」こと神功皇后である。「ナントカひめのみこと」というのが当時の呼び名であったわけだから、つづめて「ヒミコ」にもなろうというものだ。日本書紀第九巻、神功皇后記の中で魏志が引用されているので、朝廷はそのように歴史を検討・整理したのであろう。

 なぜ、学校では日本書紀を引かないのか、ということを人に聞くと、「そりゃあ、日本書紀は国家による捏造が行われていて、疑わしいからだよ」という。

 それを言うなら、私たちがまるで、絶対の真実が書かれた第一級の歴史資料のように崇め奉ってやまない中国の書、「魏志」だって同じではなかろうか。

 日本書紀について語る人はたくさんいるが、「日本書紀は嘘交じりで、国家による捏造が行われている」と、皆異口同音に言う。だが、私の身の回りでそう言っている人で、日本書紀を通して全部読んでみた、という人に、私は会ったことがない。皆、誰かからの伝聞や、せいぜいWikipediaの記事をもとにそう言っている。

 また、「魏志」についても、学校でそう習うから、皆そう言っているだけで、この書のことも、多くの人は知らない。魏志倭人伝が、何の本の中に出てくる、何の章か知っている人は、はたしてどれくらいいるだろう。

 書いておく。

 有名な「三国志」を書いたのは、陳寿(ちんじゅ)と言う人だ。この三国志全六十五巻の中に魏王朝にかかわりのあった諸族の記があって、その中に「東夷伝」という蛮族の記録があり、更にその中の「倭人条」というものを、我々は今、「魏志倭人伝」と呼んでいる。

 正確さなどどっちをとったって似たり寄ったり、というものが二つあって、それぞれ「自分の国で昔書かれたもの」と「外国の作家が昔書いたもの」であるとき、「外国の作家」のほうを「正確な歴史」として採用する、というのは、どういうことであろう。

 戦前、神功皇后は「お札」の肖像に使われていたのだが、なんで、それをあわてて否定するようなことをするのか。

 改めて書いておこう。「神功皇后という人がいて、それは、中国の参考資料には『ヒミコ』と記載されている」のである。

 たしかに、大昔のことだから、本当にいたのだかなんだか、わからない。だが、現代の私たちがああでもないこうでもないと推定するより、近い時代の昔の人が推定したことのほうが、マシな精度があるのではなかろうか。

乳守(ちもり)」片聞

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 同窓生と雑談チャットをしていて、「堺・乳守(ちもり)」というゆかしい地名を聞いた。

 私は大阪・堺、世界最大の陵墓として有名な伝・仁徳天皇陵や、東京・府中に次ぐ規模の巨大刑務所、大阪刑務所に程近い、田出井町というところの生まれ育ちである。

 乳守。乳守と書いて「ちもり」と読む。たしかに、聞き覚えがある。昔、大人たちの雑談の端にあらわれていた。「堺の旦那衆」の御大尽な遊びの話の中に「戦前にナ……」などという前置きとともに語られていたものだ。

 だが、忘れていた。だから、「乳守」は、同窓生にほとんどはじめて教わった地名と言ってよい。

 遊里である。同窓生によると、京・祇園よりもまだ古い、鎌倉・室町のむかしにまでさかのぼる遊郭(正しくは花街(かがい))であったそうな。堺の古い遊里は高須、乳守の両地区が渾然一体となっていたようだ。

 だがさきの大戦は由緒にも容赦なく、乳守は戦災で壊滅し、今はその片鱗すらもない。現在の地図ではこのあたり(Google Maps)である。

 かの一休禅師宗純が傾城(けいせい)地獄太夫に会ったのは、乳守の(くるわ)であるようだ。一休は堺の名刹・南宗寺に住んだので、乳守の遊里に遊んだとしても不思議はなかろう。「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という歌や、「聞きしより見て美しき地獄かな」「生き来る人の落ちざらめやも」という歌が乳守と一休の由緒として伝えられてあるようだ。

 上方落語に「すみよし茶屋」という噺があり、その中に、この地獄太夫と一休禅師の話がでてくるらしい。また、「三枚起請(きしょう)」という(はなし)にも出てくる。三枚起請のほうは、舞台を吉原に直して、東京でもかかるという。手元の蔵書「上方落語」(ISBN4-06-203330-5)を繰ってみると、「すみよし茶屋」は載っていないが、「三枚起請」は載っている。だが、この蔵書では由緒のある乳守ではなく、「堺の新地から難波(なんば)の新地へ移った(こども)」ということになっているようだ。

 この「三枚起請」のサゲは、「別に(からす)に怨みはないけども、あたいも勤めの身。世界中の烏を殺してゆっくり朝寝がしてみたい」となっている。東京では高杉晋作の作と言われている都々(どど)(いつ)「三千世界の烏を殺し(ぬし)と朝寝がしてみたい」にからめて語られるようだ。

 子供の頃の私などが度々耳にすることがあった遊所というと、旧軍隊の衛戍(えいじゅ)地にはつきものの「新地」(『青線』であったろうか)、「信太山(しのだやま)新地」などである。乳守は、いわゆる「新地」の信太山などとは比べものにならぬ、「一見さんはお断り……」の、由緒と格式を持ったれっきとした遊里であったものであるらしい。

渚のアデリーヌ その0.00

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 少々失敗したものの、発表会は終わった。ノクターン、だいぶ弾いたものだ。

 さて、次である。

 サティの「ジムノペディ1番」の楽譜も、次女の先生にコピーをいただいて、持っている。しかし、来年の発表会にこれで出るのは、少し簡単かな、という印象を持っている。だが、名曲だから、弾きたいとも思う。

 そんな風に思っている折、ふと心に浮かんだのは、「ポピュラーはどうだろう」ということである。「渚のアデリーヌ」などはどうだろう。

 Youtubeなどを見ていると、「How to Ballade pour Adeline」などとして、そのチュートリアル映像などがけっこうある。それを見て指を動かしてみたところ、なんとなくいけそうな気がした。

 そこで、早速、島村楽器へ行って、ピースの楽譜を買ってきてみた。

ピアノピース 渚のアデリーヌ/星のセレナーデ/Love Theme~Blue Lagoon~ (Piano solo) ピアノピース 渚のアデリーヌ/星のセレナーデ/Love Theme~Blue Lagoon~ (Piano solo)
価格:¥ 630(税込)
発売日:2001-12-18

 どうも、オリジナルより簡単にアレンジしてあるようだが、まあ、いいや。ちょっと、コレを、やってみようではないか。

「王様の行進」 その0

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 次女との連弾曲、何を弾くのだろう、と思っていたら、先生が子供向けの連弾の楽譜を沢山貸して下さり、「この中から選んで見てください」とのことである。

 貸して下さった楽譜の中に、「私はピアニスト 連弾曲集3」という本がある。

わたしはピアニスト 連弾曲集(3) わたしはピアニスト 連弾曲集(3)
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2002-05-09

 実は去年もすすめられた曲なのだが、この中に「王様の行進」という曲がある。この曲は、ビゼーの「アルルの女」の第2組曲の4曲目、「ファランドール」を編者の田中雅明氏が編曲したものだ。もととなったフランスの民謡も、「3人の王の行列」「王の行進」などという題名であると言う。

 次女と相談して、この曲を弾くことにした。

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.08

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 「エリーゼのために」、引き続き練習中である。

 なかなか抜本的な進歩というものは難しいが、ナニ、微進歩・微前進でいいのだ。

 今日のところはこんなデキである。

 第1中間部がどうしても慣れてこない。第2中間部はこれもナンチャッテ感横溢である。

 今、付け刃でググッて調べたのだが、こういう「エリーゼのために」みたいな曲のことを「小ロンド形式」と言うそうだ。

 小ロンドというのはつまり、

「主題 - Aメロ - 主題 - Bメロ - 主題」

・・・という、この「エリーゼのために」みたいな形式を言うらしい。