このところ三日続けて、修学旅行の貸し切り列車が通過するのに遭遇している。山手線秋葉原駅、朝6時45分のことだ。高校生が乗っている。シーズンなのだろう。
投稿者: 佐藤俊夫
バイエル#92 その2
昨日深夜、またぞろネット上をうろついていて、バイエルを練習している人のブログを見つけた。
見つけた、というか、Google等でよくヒットすることがあるので、以前にもこのタイトルとニッカさんのハンドルは見たことがあった。そういえば、こっきーさんのブログでもこの人のハンドルを見かけたことがあるような気がする。
昨日はアクセスログの文字化けなどのことで盛り上がっていたのでその件でコメントしたのであるが(その記事とコメント)、ほかのところを拝見すると、バイエルのほうは目下92番を弾いておられるようである。(ニッカさんのバイエル92番の記事)
見ていると自分もまたバイエル92番を弾きたくなったので弾いてみた。
私の使っている全音の「最新バイエル」では、移調してあって、前のでは「変ホ長調」で弾いたのだが、ニッカさんのを見ていたら自分も原調のヘ長調で弾きたくなったので、ヘ長調で弾いた。
応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.08
「エリーゼのために」、引き続き練習中である。
なかなか抜本的な進歩というものは難しいが、ナニ、微進歩・微前進でいいのだ。
今日のところはこんなデキである。
第1中間部がどうしても慣れてこない。第2中間部はこれもナンチャッテ感横溢である。
今、付け刃でググッて調べたのだが、こういう「エリーゼのために」みたいな曲のことを「小ロンド形式」と言うそうだ。
小ロンドというのはつまり、
「主題 - Aメロ - 主題 - Bメロ - 主題」
・・・という、この「エリーゼのために」みたいな形式を言うらしい。
バイエル#59 その2
昨日の深夜、ネットをうろついていて、バイエルの練習をしている「ぎんはな」さんという方のブログを見つけた。ちょうど59番を練習しておられたので、嬉しくなってしまい、コメントした。バイエル59番は私が大変好きな曲だからである。
見ていたら自分ももう一度59番を弾きたくなってきたので、弾いて録音しなおした。
自分の練習記録
自分のバイエル練習記録を「佐藤のバイエル練習表」とて、midiデータと一緒に書き記していたが、ブログの記事と自分のウェブサイトの記事が両方あったことと、mp3のデータもけっこうな量がたまっていたこと、また先日からブログを有料プランに乗り換えて容量を増やしたためにmp3をアップロードしてもなんでもなくなったことなどもあり、固定Webページとして作り直した。
今日のように、過去に弾いた曲をおさらいして録音しなおしたいこともよくあるし、そういうときにはこっちの表のほうを更新することにしよう。
この表を作るためにHDDの隅をほじくり返し、以前録音のmp3を聞きなおしてみると、自分でも好きな演奏、気に入った録音というのがある。
バイエルの中でも前半の曲だが、曲自体、安らいだいい曲だと思っている。演奏のほうも、自分で書くのも恥ずかしい気がするが、しみじみしたできばえだと思う。
弾くのに悪戦苦闘し、苦労しただけに思い入れ一入(ひとしお)の曲である。この録音も、まあまあよく弾けたほうだと思っている。
練習を始めたばかりの頃、バイエル練習界の先達たちが弾いているこの曲のデータをチラッと聞いて、「一体、俺にこんな曲が弾けるようになるのだろうか。ここまで到達する前に挫折してしまうのではないだろうか?所詮私には無理だったのでは・・・」などと不安を覚えたものだ。それでも地味に練習を続け、弾けるようになった。この曲にようやくたどり着いたという思いが強く、この演奏自体も自分では気に入っている。
ま、結局のところどれも自画自賛、自己満足っちゃあそれまでなんスけどね(笑)。これでいいのだ。
意外なのは、自分が非常に好きな曲には、気に入った録音があまりないのだ。思い入れが強いために、自分の演奏が気に入らないのだろう。
バイエル midi mp3
佐藤のバイエル全曲練習表
-
練習期間
平成18年(2006年)9月10日(日)
~平成20年(2008年)10月12日(日)(2年1ヶ月3日) -
使用テキスト
最新バイエルピアノ教則本 全音ピアノライブラリー
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2004-11-20
|
|
バイエル#102 その2
「エリーゼ」練習中ではあるが、毎日バイエルもおさらいしている。
今日、102番をおさらいしていたら、なにかイイ感じで弾けたので、録音してみた。
スタイルシートなどをいじる
このブログのいろいろなデザインやテンプレートが、どれも全部気に食わない。
音符のデザインのテンプレートも悪くはなかったが、どうも細部の点で気分に合わない。
意を決して、デザインを全て捨て去り、カスタマイズ用のデザインを選んで、カスタムスタイルシートを全部書くぐらいの意気込みでゼロからデザインしなおした。
ようやくスッキリした。
応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.07
「エリーゼのために」、連休中も毎日練習している。
今日の出来はこんなところ。音を探し探し、楽譜を拾っている様子が実によくわかり、聞いていてイライラする(笑)。
ともかく、引き続き徹底して反復演練あるのみである。
専門家に聞くべきこと
私は別段、ピアノの独学にこだわっているわけではない。成り行きでたまたまそうなっただけだ。
独学しているのには、たいした理由はない。せいぜい、
- レッスンに使うお金がない。
- 他人に追い立てられ、せかされるのがイヤ。
- レッスンにいく時間が自由にならない。
・・・こんな程度である。できることなら、優れた先生に指導してもらいたいものだと思っている。
しかし、だからと言って「アナタはピアノのレッスンに通うべきです」と指図されたいわけでもない。
かの億万長者、投資家のウォーレン・バフェット氏は、何かの講演で、聴衆の一人が
「株式投資を私はやったことがないのですが、これからの時代、やはり投資をやるべきでしょうか?」
と質問したのに対し、
「そのご質問は、床屋さんに行って、床屋の大将に『私は散髪したほうがいいですか』と聞くようなものです」
と答えたという。
私はこの話が大好きだ。さすがはバフェット、世界一の投資家にして世界経済を左右すらする人。「俺に聞けばヤレというに決まってんじゃん。聞く相手間違えてるヨ」と答えて見せるのは、大家の余裕の表れとも言えようか。加えて、この答えには「経済だのなんだの言ったって、所詮俺は株屋さ」といった謙虚すら隠されているふしがある。
私は昨日・一昨日、車を新車に替えたいなあと思い、カーディーラーを2~3軒回った。もし自分の古びた98年式のデミオを指して「どうしたもんでしょうかな?買い換えたもんしょうか?」と営業員に問えば、そりゃ、「今が買い替え時です。ぜひ買い換えるべきです。古い車は危険ですし、しかも今は50年に一度の税制優遇チャンスです」と答えるに決まっている。実際、トヨタもマツダもホンダもニッサンも、どのカーディーラーの営業員も全員そう答えた。
ピアノの先生に「ピアノのレッスンに通うべきでしょうか?」と問えば、勿論「絶対にレッスンに通うべきです。一人で学ぶと変なクセがつきますし、進歩が止まりやすいです。そうなる前にきちんと教わり、体系的な技術・知識・精神を身につけるべきです。なにより、よりよい刺激があるでしょう。」と答えるだろう。先生ならずとも、ピアノを教わって身につけた人もそれに近いことを言うに違いない。
専門家には「どのようにそれをすべきか」を聞くのがよく、「私はなにをしたいのでしょうか」なんてことを聞くものではない。
私は計算機方面の技術者なのであるが、そんなわけで、最近は
「ウチのWebサーバはapacheで、3層クラサバで運用しています。phpで動的にアイコンを作りたいのですが」
というような質問には
「GDを入れるといいでしょう。大抵のLinuxディストリビューションにはデフォルトで入ってますよ。Redhat系でしたら、php-gdで探せばRPMがどこかに転がってるはずです。」
などと答えるのだが、
「コンピュータを買ったほうがいいでしょうか?人生にプラスになるような気がするのですが」
「私はエクセルを身につけたほうがいいでしょうか。仕事に有利になる気がするのですが」
などという質問には、
「買ってはいけません。今は買うべきではないし、アナタのためにもなりません。人生にはマイナスになってしまうでしょう」
と冗談めかして答えることにしている。できれば私は、あまり繁盛していなくても、腕は確かな床屋の大将でありたいから。
そういえば、一度こんなことがあった。私は視力が良い。両眼1.5である。そのために老眼が早く来た。42歳の現在、自分の腕時計の文字を読むにも老眼鏡なしでは読めぬほどになってしまっている。
最初に老眼の症状を覚えたのは37歳くらいの時だったので、いくらなんでも老眼には早過ぎると感じた。「ひょっとして脳や神経などの、何か重大な病気なのでは・・・?」と心配になり、近所の眼科で診てもらった。
眼圧を測ったりだの、最新機器で視力を測ったりだの、実にいろんな検査をしてもらった。最後に先生の前に引き据えられ、戦々恐々診断を待った。私の「緑内障とかなんとか言われるのでは?」という心配をよそに、判決は
「老眼です」
と一言に尽くされてしまった。そもそも、「老眼」の『老』という漢字がよくない。そりゃあ、老眼なんて誰でもなる、病気とすら言えないようなもので、反面病気としては緑内障は恐ろしく、そんなものにはならないほうがいいわけだが、まるで「お前は老人である」と判定されてしまったような気がしたのである。心配するよりむしろ、ホノカに重大な病名を期待する、若者ぶりたい自分がそこにあったのは笑うべきことであった。
さて、その先生は忙しくカルテになにやら書き込みながら、「で、・・・どうしましょう」と言った。
私 「・・・は。何がでしょう」
先生 「いえね、老眼鏡の処方箋なんですがね・・・。私のほうで処方しますと、そりゃあ、まあ、精度はいいですし、アナタの場合、ごく軽い乱視があるようですから、それも一緒に補正する眼鏡は作れるんですがね・・・」
私 「はあ、ではゼヒお願いしたいと思いますが?」
先生 「いや、そのう、アナタの老眼はこれからどんどん進むんですよね。はっきり言って、毎年、眼鏡を換えることになります。で、私の処方だと、2万とか4万とか、そういうお値段でしょう?でも、アナタの乱視はごく軽いし、老眼も病的なもんじゃない。医者の私が自分で言うのもアレなんですけど、100円ショップの老眼鏡をどんどん買い換えると安く済みますよ。いやほんと、不熱心な医者ですみませんが」
私はこの先生が好きになった。人間こういう簡単なことが言えるようで、なかなか言えないものだ。日々の小さな成績に一喜一憂するガツガツした暮らしを送っていると、どうしてもこういう場面で自分の儲けを追及してしまうものなのだ。
チナミにその眼科は患者が大勢つめかけて大変はやっている。床屋も本当にウデが良ければ、一人二人の客を断ったとしても、繁盛する可能性がなくもない。