時事無明(むみょう)

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〽 馬鹿は死ななきゃ治らない

 〽 馬鹿は死ななきゃ治らない~

……というのは、浪花節の一世一代、廣澤虎造(ひろさわとらぞう)の名調子であるが、それにしてもしかし、私の故郷である大阪というところはまったく、橋下(ハシゲ)だの籠池(森友)だの、変な人物が続々と出現アソバサレルところだけあって、阿呆(アホ)馬鹿(バカ)競売(けいばい)市場のようなことになっている。

 その大阪府堺市のパチ屋というのは、「P.E.KING OF KINGS 大和川店」なのだそうな。Twitterでは「大勢の客」なんていうキーワードがトレンド入りする始末である。

 上ページには他に、「HALULU」(堺市北区金岡町192-1)、「ザ・チャンスα」(堺市美原区黒山611-1)、「ベガス1700枚方店」(枚方市招提大谷2-25-1)等の店名が挙げられている。大阪府堺市生まれの私としては、堺市だの、大和川だの、金岡だの、美原だの、ずいぶん懐かしい地名の数々であるが、それはさておき。

 新型コロナウイルスが病気なら、まあ、パチ屋通いも病気のうち、競馬も煙草も、ひいてはポン中、アル中もそんなもののうち、……だと私などは思う。

 私?……ええ、私も25~26歳の頃までは、パチ屋に入り浸ってましたナ。私や私の友達、同期生などはパチ屋のことを「北朝鮮国立銀行」なんぞと呼んでいて、そのあたりで言うと、私も随分、この銀行には貯金をし、そして引き出せぬまま、今に至るもそのまま貯金しっぱなしである。

 私は幸い、死なずに、そんな引き出せない銀行への一方的貯金などというわけのわからない行動をするような馬鹿が治った。しかし、普通は死ぬまで、馬鹿は治らない。私のような例は稀有なことと言ってよい。馬鹿と言って語弊があるなら、病気と言いなおそう。

 パチ屋でウイルス貰った奴がそれをよそでバラ撒くというのは迷惑極まるが、この愚かさこそが生身そのままの人間というものではある。人間の哀しむべき、そして愛すべき実態が、これなのだ。そんな実際のありのままの姿のために、あなたも、私も、死に、生きる。

 つまり人は、イヤらしいセックスによって生まれる、ということと、これは同じことであるように、私には感じられる。

う~ん、でも

 冷徹で鋭い指摘と見た。

 だがしかし、東京の死亡率を語るには、東京の人口は住民ばかりでないことによくよく注意しなくちゃいけないんじゃないのかな……。

 私などもそうだが、埼玉・神奈川・千葉なんどから、朝早くからわんさかと東京へ勤めに出、夜遅くこれまたワンサカと帰っていくというのが東京の実情で、しかも途中にはコロナ感染必至の難関にして名物、圧縮混雑三密痴漢続出迷惑地獄の世界的に悪名高い通勤電車がある。だから、東京への通勤圏全般で丸めないと、どうも精密ではない気がする。

 と言って、私は東京へどれだけの人が都外から通勤しているか、東京の日中の人口がどれだけか、とか、何も知りませんけどね。何となく上のように思うだけだ。手間暇かけて調べる気も、あまり、ない。専門家の分析と研究を待ちたい。

ワクチン、できるかな……?

 ワクチンの作成は相当難しいようである。

 「新型コロナウイルスには、エイズウイルスに似た性情が見受けられる」というような言説も見かける。つまり、ワクチンの適応がどんどんずれていくというのだが、どうもこれはデマのように思われる。

 いずれにせよ、研究者をどんどん盛り立て、特効薬やワクチンの作製に励んでもらわなければならない。

もはや誰も言わぬ「KY」、そして「忖度」悪し、へ

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 もう7~8年ほども経つだろうか。ひと頃、「KY」という言い方が大流行した。曰く、「(K)気が(Y)めない」というのである。

 無神経な人を指して、よくこういうことが言われた。「アイツは『KY』だ」と。

 だがそれからもう何年も経ち、人々の口にはこの言葉はのぼらなくなった。私も、もう「KY」だなんて言葉は忘れてしまっていた。

 ところで、私は蕎麦が好きだ。東京の名店を訪ねては息抜きをするというのがこのところの習慣になっている。

 蕎麦の名店会が出している「新そば」という無料の季刊誌がある。有名な店に行くとカウンターや帳場のあたりにこれが置かれている。蕎麦好きの有名人がコラムを載せていたりして、これがなかなか楽しいので、よく貰って帰る。

 先日、赤坂の室町砂場へ行ったら新しいのが出ていたので1冊貰った。女優の若村麻由美氏のインタビュー記事が出ている。その中に、ヒット中の舞台「ザ・空気」についてのやり取りがあったのだが、読んでハッとした。

以下「季刊『新そば』No.157」から引用

――「ザ・空気」という意味深なタイトルは、そのあたりに関係がありますか。

若村「KY(空気が・読めない)」という言葉が流行ったときは、空気を読めないのはダメみたいな使い方をされましたけれど、空気を「読みすぎる」のは自己規制につながりますよね。

 「これを言ったらイヤな空気になるだろう」というのを恐れて、当たり障りのないコミュニケーションを続けてしまう。

 今の世の中は「おかしいな」と思っていても声を上げられずに、その場の空気に従うことが多いんじゃないでしょうか。

以上引用

 さて、以前このブログに「忖度(そんたく)」という言葉について書いたことがある。今、言外に含められた様々な意図を汲み取るという意味で使われるこの「忖度」という言葉が、大阪の森友学園~籠池氏~財務省の不透明な経理……などと言った「悪いイメージとともに」クローズアップされている。

 「空気を読む」ことはよいことで、「忖度」は悪い政治家や官僚がする悪いことだ、というわけである。なるほど、それはその通りかもしれない。だいいち、「KY」と「忖度」では意味も違うし、言葉が指している領域(ドメイン)も違うように感じられる。

 だが、それはそれとして、人の心って、流行に従って読んだり、流行でないから読まなかったりするものだろうか?

 違う。読むべきであれば読み、読むべきでなければ読まない、そういうものであるはずだ。そうするためには不易の自己を確立することが必要だ。そうした人間として最低限のあり方に、変化や改革は必要ない。

 まったく無常な世の中である。こういうことがあるから、空気を読めと言ったり忖度悪しきことなどと言い立て、人を煽って変化を志向せよとする連中が嫌いなんだ。昨日のことにも異を唱える。その責任を取る奴なんて、誰もいない。