イランと胡乱(うろん)

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 このところパリサイ(びと)の地方がきな臭い。……などと書いてみる。

 聖書にはよく「パリサイ人」という言葉が出てくる。これは「ペルシア人」の古い読み方だそうだ。但し、聖書で言うパリサイ人というのは厳格なるユダヤ教の保守主義者の人々のことを言っていて、すなわちナザレのイエスを処刑した人たちであって、ガチゴチのユダヤ人のことであるから、ペルシア人とは全く異なる。

 ともあれ、聖書の時代にはイスラム教はまだ成立しておらず、教祖マホメットが活躍したのはナザレのイエス入寂(にゅうじゃく)後600年程も()ってからのことであるから、パリサイ人と呼ばれていた頃のこの人々は、異教徒と言うわけでもない。強いて言えば後世ニーチェ賛仰するところのツァラトゥストラこと、ゾロアスターの興した拝火教がササン朝ペルシアそのものであったはずである。それもこれも考えあわせ、パレスチナに連なる近隣の地方の、未分化な宗教の混沌の中に彼らもまたいたのだろう。

 ペルシア、というのも、もはや古い言い方だが、これはイランのことと思って差し支えはない。往古、漢語ではペルシアのことを「()の国」と呼んだ。これは夷狄(いてき)とか戎蛮(じゅうばん)とか言う言葉につらなる蔑称(べっしょう)で、良い言い方ではないようだ。当時の大陸文化を敏感に感じ取っていた日本では、「胡」とだけ書いて、やまと言葉で「(えびす)」という()みもあるほどである。神様の「ゑびす様」ではなく、わけのわからぬ異民族を(さげす)んで「えびす」と言う。

 だがしかし、昔の「胡」「ゑびす」という字や言葉には、なんとも言えぬエキゾチシズムへの(あこが)れも、込められていたのではないかと、私は思う。

 「胡」と言う字はIMEのかな漢字変換ではなかなか出てこないが、「胡椒(こしょう)」と入力すれば一発で出てくる。

 「胡椒」。日本料理には「山椒」、中国、特に四川料理には「花椒(かしょう)」すなわちホァンジャンがあることから見てわかる通り、「椒」は香辛料であるから、「胡椒」とは「ペルシアのほうの香辛料」とでもいう意味であろう。だが、中国から見て、産地がペルシアであろうと、はたまたインドであろうと、ともかく「なんだかよくわからない外国の香辛料」ということであって、必ずしもペルシアを指したものでもなかろうが、まあ、「あこがれ高き、遠き異国の香辛料」というほどの意味と理解しても、それほど大きな間違いでもあるまい。

 漢語にはこの「胡」がついた言葉が多い。香辛料で「胡椒」は上掲の如し、食物に「胡瓜(きゅうり)」、服に「胡服(こふく)」(呉服(ごふく)ではないので、為念(ねんのため))、楽器に「胡弓(こきゅう)」、生活起居に「胡坐(あぐら)」、住居や化粧に「胡粉(ごふん)」……等々、である。様々なものがシルク・ロードの西の方、不思議な謎の異国・ペルシアのものとして伝えられてきたのであろうことが、これらの漢語から(うかが)われる。

 「()」は、後に「()」とも読むようになった。別のエントリに書いたことがあるが、これは「漢音」「呉音」の別である。古い時代、(すなわ)ち漢の時代には「()」と読んだが、呉の時代には「()」と読んだのである。

 「胡」の字を「う」と読むとき、どうも、調子が違ってくる。「こ」と読むときには、上掲の様々な単語からもなんとはないエキゾチシズム礼讃の香りがそこはかとなく漂ってくるが、「う」と読むときの代表単語は「胡散(うさん)臭い」「胡乱(うろん)な奴」である。どちらも「怪しい感じ」「危ない、怪しい奴」の意味で言う。「胡散」は、直接には中国から見て西方の異国の、なにやら不思議の怪しい散薬(こなぐすり)を言い、胡乱とは恐らくは呉以降の時代の中近東の情勢が定まらず、不安定であったところから、「よくわからない危険さ」などを言うのだろう。

 さてこそ、今日(こんにち)のことを思う。私はイランという国が好きなのだが、ウクライナの旅客機など誤射撃墜して世界に詫びているようでは、どうもいただけない。これぞ「胡散(うさん)(くさ)く」「胡乱(うろん)な……」国、と言われても致し方あるまい。

 こんなことからして、またしても中東がきな臭いようだ。「きな臭い」というのは、元は可燃物の焦げる臭いよりする火事の前兆から転じて、一発撃った硝煙の臭いのことを言う。

 皆さんは、硝煙の臭いを嗅いだことがあるだろうか。普通の人は、硝煙の臭いなどあまり嗅いだことはないと思う。往古の「糞便の臭いのする」硝煙も、また臭いは異なる。花火の臭いともまた違う。現代の銃火の(にお)いは、酸の臭いのまじる、化学性の、快からざる臭いである。

 何にせよ、「胡の国(イラン)胡散(うさん)(くさ)い事件を起こしてしまい、胡乱(うろん)で、きな臭い」なんぞと書かれては、どうにもこうにも情けないことであり、道徳きびしき清潔の国にしては、恰好がつかない。

 ホメイニ氏により米国の(くびき)を逃れて復古を果たした誇り高きイスラムの独立国よ、本来の静謐で信心深い人々に戻り、正義を掲げて、しっかりしてほしい。

異世界転生もの

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 最近あまり書店に行っていない。ずっと平凡社の古書「世界教養全集」ばかり読んでいることと、仮にそれでなくても、Amazonで本を求めることが多くなってしまっているからだ。

 そんな最近ではあるが、一昨日、新越谷駅近くの蕎麦屋「SOBA 満月」さんへ蕎麦を手繰りに行った帰り、珍しく新越谷VARIEの旭屋書店へフラリと入ってみた。

 漫画の棚へ行ってみた。以前はBL(ボーイズ・ラブ)ものばかりが並び、腐女子が(たむ)ろして瘴気(しょうき)が立ち込めていた(あた)りの品揃えがガラリと入れ替わっていて驚いた。

 全部「異世界転生もの」に入れ替わっていたのである。

 異世界転生ものについては、去年、私が司会をしているささやかな読書サークルの参加者から「最果てのパラディン」(柳野かなた著)という本を教えてもらい、そういうジャンルが流行している、ということを知ったばかりである。残念ながら私はこの「最果てのパラディン」については未読なのであるが、その参加者女史によると大変面白いのだという。

 最近の漫画売り場は「体験立ち読み」サンプルが吊るしてあるなどして親しみやすくなっている。旭屋には「とんでもスキルで異世界放浪メシ」(赤岸K著)というのと「異世界おじさん」(ほとんど死んでる著)の2冊の、それぞれ第1巻が立ち読み可になっていた。

 2冊とも読んでみた。どちらも非常に面白かった。

 特に二つ目の「異世界おじさん」は、もう既に異世界放浪は終了して通常の世界へ戻ってきたところから話が始まっていて、もうプロットのバリエーションもこれくらい拡がっているんだな、と感じられた。

 しかし、どちらも続巻は買わなかった(苦笑)。今別の本(言わずと知れた平凡社の世界教養全集)を読んでいるからである。

 なにしろ、コッチのほうは親の生前形見分けみたいなもんだからタダだし。

禁則処理を厳しく

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 このブログの禁則処理が気に入らない。「読書」の記事に「マチルデ・デンボースキー」と人名を書いたら、長音(-)が行頭に来てしまう。

 そこで、子テーマの「style.css」の中に、「line-break: strict;」を書き加える。

 具体的には、「wp-content/themes/twentysixteen_child/style.css」の次のところに、下線赤字のように書き加えた。

body,
button,
input,
select,
textarea {
	color: #1a1a1a;
	font-family: 'MS 明朝', 'serif';
	font-size: 16px;
	font-size: 1rem;
	line-height: 1.75;
	line-break: strict;
}

靖国神社の元宮と鎮霊社

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 昨年の終戦記念日、靖国参拝の折、いつもは立ち寄らない「鎮霊社」に立ち寄った。

 だが、その時は、数年前に爆破未遂事件を起こした韓国人テロリストのせいで立ち入りが制限され、参拝できないようになっていた。やむなく、できるだけ近くに行って、遥拝した。

 靖国神社の鎮霊社は、戦死した我が国の英霊には含まれない、世界各国のあらゆる戦没者を鎮め祀る社である。

 先週、年始に参拝したところ、通行止めがなくなって裏の日本庭園の方まで回れるようになっており、鎮霊社の傍まで行くことができた。

 依然、鎮霊社そのものは高い柵に囲まれ、社前まで行くことはできないが、ごく近くまで寄って遥拝することができた。

 写真には奥と手前と、二つの御社(おやしろ)が写っているが、奥が元々の靖国神社の前身であった「元宮」、手前が「鎮霊社」である。

 由来の札を撮影することができた。

 次のように書かれている。

 鎮霊社

 明治維新以来の戦争・事変に起因して死歿し靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰める爲昭和四十年七月に建立し萬邦諸国の戦歿者も共に鎮齊する。

 例祭日 七月十三日

成人の日

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天皇陛下万歳

 祝日「成人の日」である。

 新成人が幸せな人生を送れるよう、励まし、祝いたい。

 世界は混迷の度を増し、政府は贈収賄によって腐敗著しい。外国では戦争の予兆か、硝煙の焦げ臭いにおいが漂ってくるような感じがする。

 だが、それでも、新成人の皆さん、幸せに生きることは可能である。幸福は自分の心の中に置くことができる。