ラーメンの寿司化

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 かつて寿司は屋台などで気軽に提供され、安くておいしく、生の魚を使っているのに日持ちもし、手(づか)みで、しかも一口でさっと食べることができて汚れ物が少ないという日本のファーストフードのチャンピオンであった。

 それがいまや、高級店と称する東京都内の寿司屋へなぞ入った日には、一席2万円だの3万円だのと言うそうな。値段から受ける印象は歌舞伎町のボッタクリバーと一緒である。しかも「しかるべき上客の紹介でないと断られる」のだそうで、通りすがりに暖簾をくぐることなど不可能である。もはやファーストフードなどとは言うも愚か、それどころか美食や高級料理をも通り越して、宇宙人が作った特殊なオーパーツかなにかのようである。私などのような貧乏人がもし仮にそんな高度な寿司など食べたら、あまりのありがたさのために法悦境となり、気が狂ってその場で悶死するのではなかろうか。

 本来、往古の寿司は「(すし)」と書いた。「寿司」は後世の当て字である。滋賀・琵琶湖の名物「鮒鮓(ふなずし)」のように、飯や魚を一定の期間発酵させ、独特の酸味を生じるようになったものが寿司の原型だ。

 端的に言えば、日本は(こめ)の世界的特産地であり、かつ、淡水海水を問わず水に恵まれ、あらゆる水産物の特産地でもある。余る程とれる米と魚をどうにかして保存しようとするのは自然の流路というものであったろう。塩蔵・乾蔵も主な方法であるが、乳酸菌の発酵により他の有害細菌の繁殖を抑え、栄養を損なわず食味も旨いという保存方法は、ヨーロッパの畜産地に()いて生乳をヨーグルトやチーズに加工する方法にも類似している。昔の人の知慧(ちえ)と、幾千年の昔に思いが至る。

 現代の寿司は江戸時代に作られたもので、発酵させるのに時間がかかる(すし)の欠点に着目し、本来なら乳酸菌発酵の結果生じる酸味の代用として、手っ取り早く飯に酢で味を付け、鮓のような味に調えたのである。この新型の鮓は発酵の手間を省いて早くできることから「早鮓(はやずし)」と呼ばれ、対して往古の(すし)は「馴鮓(なれずし)熟鮓(なれずし)」と呼びわけられるようになった。「(なれる)」「(じゅくす)」の二つの漢字は、ともに漬け込んでなじませ熟成させる意である。

 さてこの新型の「早鮓」は、東京湾で獲れる新鮮な魚の切り身を乗せて提供されるようになった。江戸時代、既に江戸の人口は百万人になんなんとし、鎖国であったにもかかわらず、世界一の巨大都市であった。当時の日本人は天武天皇の御宇(ぎょう)以来(このかた)(ごく)(まれ)に「薬喰(くすりぐい)」などと称してちょっぴり、かつこっそりと猪や鹿など野鳥獣の肉料理を楽しむ程度の他は(ほとん)ど肉を食べなかったから、東京湾は百万人分の蛋白質を供給する一大食糧供給源としての漁場だったのである。

 この東京湾、江戸時代は江戸湾などとは言わず、「前の海」と言った。つまり昔の地図や絵図は南を上にして描かれたので、江戸の前方にある海という意味で前の海と言い、江戸の前の海で獲れた魚を「江戸前の魚」などと呼んだのだ。当時の江戸っ子は

「江戸の(めえ)の魚どもは、御江戸(おえど)八百八町(はっぴゃくやちょう)から流れ出した米のとぎ汁やら飯粒やら、人間様の食い物のおこぼれを贅沢に飲み喰いしていやァがるから、(うめ)ェんでエ」

などと洒落のめしたとかしないとか……。

 そのため、新鮮な魚を乗せた早寿司は「江戸前寿司」と呼ばれるようになった。現代語にすれば「東京湾寿司」ということになろう。だから、現代、東京湾でない地方の漁港町で旨い寿司店を見つけたときなど、その寿司が旨ければ尚のこと、暖簾に「江戸前寿司」と(そめ)()きがあったりするのが逆に少しばかり残念なのである。

 この江戸前寿司に様々な魚を使って工夫(くふう)()らし、完成させたのが華屋(はなや)という寿司屋の(あるじ)与平(よへい)であったという。

 一説に、華屋与平は作り置きをせず、客が注文するとその場で素早く寿司を握って出し、新鮮で早いというのでこれが評判を呼んだのだそうである。このため、今のカラフルな握り寿司のことを古い呼び方で「与平ずし」ということがある。和食のチェーン店に「華屋与兵衛」というのがあるが、勿論、その店名はこの寿司屋の与平から借りたものだ。江戸時代の与平は実在も定かでない伝説の人物だし、「華屋与兵衛」チェーンが与平の子孫に商号の断りを入れたかどうかなど、多分今となってはどうでもいいのだろう。

 寿司は元来そうしたもので、長らく安価に提供されていた。戦後しばらくの間まで、そこまで高級な食べ物ではなかったそうである。寿司が妙に高級料理めいてきたのは高度成長期頃だという。日本料理の本格の料理人を「板前」と言うのに対し、寿司の料理人は「寿司職人」と呼ばれて一段低く見られていたが、寿司が高級料理化するとともに板前と肩を並べるようになり、今や「寿司職人」という言葉にはかつてのような一段低い響きは感じられない。

 寿司を高級料理化し、和食を代表する一画として押しも押されもせぬジャンルに育て上げたのは、長い間の寿司職人たちの精進と研鑽によるものであったろうことは想像するに(かた)くない。

 さて、ところで。

 昨日、気晴らしに東京駅へ迷いに行った。(くど)くも言うなら、東京駅は単に交通の焦点というだけではなく、地方の小都市並みの店舗数と面積を有し、他の商業施設と地下街で接続され、その拡がりはとどまるところを知らない。地下には携帯のGPS電波も達せず、しかも複層をなしていて、案内表示を頼らなければどこにいるのかも判然としなくなる。

 そこへわざと迷いに行ったのだ。世界各国の様々な食べ物や飲み物、菓子、酒、商品が満ち溢れ、どの店も繁盛している。全部で何店舗くらいあるのかもわからない。面白そうな店を見つけると入ってビールを飲み、つまみものをとり、別の店では菓子を食べ、他の店で肉を食べ、ウィスキーを飲み、またよそへ行ってコーヒーを飲み……という具合で、たっぷりと飲み喰いをした。

 どの店も繁盛しているが、行列が目立つのがラーメン店だ。ラーメン店だけでも東京駅には数えきれないくらいある。どのラーメン店も多くの人が並び、大変な賑わいだ。

 看板やディスプレイを見ると、いやはやなんとも、どのラーメンも「いい値段」である。中には一杯2千円近いものもある。

 つい先頃まで、ラーメンは屋台などで供され、安くておいしく、肉や卵や油を使っていてカロリーがあり、汁ものだからお腹も一杯になる。熱々のラーメンを啜り込むのは清貧の楽しみと言えた。私などが中学生の頃は、ラーメンは一杯180円くらいだった。買い食いをすると叱られたが、スポーツをしていて腹が減るので、時々こっそり小遣いでラーメンをすすったものである。中学生の小遣いなどたかが知れている。

 それがいまや、一杯780円の値段でも、これは「安い方」の部類だ。

 近頃、どこのラーメン屋の大将も客もなんだか変になってきて、「なんとか系」「うんちゃら家一門」などと称して俺の店こそラーメンの本道を行くものだと肩をそびやかし、注文の仕方(しかた)ひとつにしても作法(さほう)仕来(しきた)りをその「なんたら系」ごとに勝手に作り、「あれマシ」だの「なにをビシバシ」だの、よくわからない宇宙人のような注文方法で店と客が交信しているそうで、もはや何を言っているのかさっぱりわからない。その仕来りを守らないと

「これだから素人(しろうと)はヨ、ケッ……!」

……などと()き捨てる店主もいるのだという。それをまた自称「玄人(くろうと)」の客が横目でチラリと見てフンと鼻先で冷笑するのだそうな。

 かつての寿司屋で、ある時期頃から妙に生姜のことを「ガリ」とかお茶のことを「あがり」などと、職人側の使う隠語で言いたがり、つかみ方や醤油の付け方に難癖をつけて通ぶる客が増えたのだが、ひと昔前の寿司の高級料理化と今のラーメン屋の様子の変化は、なんとなく似ていると思う。

 先週、私が住む越谷市のあるラーメン店でひと騒動があった。このラーメン店は「夢を語れ」という屋号のチェーン店なのだが、店主が客の注文の仕方にケチをつけ、Twitterでその客を「クソ素人」呼ばわりしたのである。それがまた、薬味のにんにくの注文の仕方がなってないという些細なイチャモンで、しかも細かな話ではなく、「入れる・入れない」の言い方が気に食わなかったのだそうである。「にんにく抜き」と注文するのが玄人(くろうと)で、「にんにくなし」というのは「素人」なのだそうな。これなぞ、何が問題なのかすら(にわ)かには理解しがたい。

 もちろん、店主も何やらのぼせ上っていたのだろうが、チェーンの本部から看板を下げるよう申し渡され、炎上していた店主のTwitterも、ちょうど今日と言う今日、閉鎖する始末となったようだ。

 「クソ素人」も何も、ついこの前までラーメンは美味しくて気取らない「クソ素人の食べ物」ではなかったろうか。

 そして、店側も「看板を下げろ」とか「Twitterを閉鎖しろ」とかいうような、そんな俳優や歌手や政治家などの有名人みたいな扱いをされるような存在ではないはずではなかろうか。このラーメン屋の店主が客に投げつけてよこした「クソ素人」と店主は、もともと同じ水準に位置する同類なのではなかったろうか。同じクソ素人であるなら、そんなもの放っておけばよかったのではなかろうか。

 ところで、私はラーメン屋にはそんなに行かない。ごくたまに日高屋などのチェーン店でビールに餃子、ラーメンで腹ごしらえをすることがある程度だ。実はこの組み合わせもそんなに安くない。支払いは1000円以上になってしまう。

 一方、蕎麦屋にはしょっちゅう行く。寿司と蕎麦は同じ和食の並びであるような気がするが、蕎麦は寿司ほどには高級化しておらず、そんなに高くない。並木・藪とか室町砂場、更科堀井と言った都内屈指の名店でも、寿司屋みたいに一席2万だの3万だのと言うような途方もない値段はふっかけない。よほどあれこれ酒や肴をとっても、せいぜい2~3千円どまりである。蕎麦の手繰り方や打ち方にうるさい「玄人(くろうと)」の客も多くいるのだろうが、私はそっちの仲間ではない。単に気に入りの蕎麦屋でのんびり落ち着いて蕎麦前(そばまえ)の酒など飲んでいたいだけだ。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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