思ってることなんか書くな

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 Twitterでこういうリツイートが流れてきて、なるほど、まったくだなあ、と思った。

 若いのに、私なんかよりもよっぽど苦労してるなあ、とも思うのだった。

 そりゃ、そうだよな。ネットで思ったことなんかズビズバ言ったり書いたりして、いいことなんか何にもないワイ。

 ……こういうことってのは、ネットでもリアルでも同じだ。お偉い政治家先生でも、いまだにこんな人だっているしな……。

 こんなの、「言っていいこと、悪いことを弁える」という、そういうごく簡単な話に過ぎないのだが、やってしまうわけだ。この人は古い政治家だから、よっぽど色んな辛酸を舐めている筈だと思うのだが、しかし、つい、こういうことを言ってしまう。この人、最近も確か、「学芸員はガン」ってなことを言ってしまってマスコミにそこだけ切り取られ、さんざん叩かれていたが、まだ懲りないと見える。多分ご本人は文字通り「少しブラックなジョーク」を閉じたグループの中で効かせただけだと思っているのだろう。

 「原爆落とされたのなんて自業自得」というふうに読まれてもしょうがないゴタクを無駄に多い文字数で並べ立てているこの人物も、まあそれと同断だろうなあ。

 この兄ちゃん、ちょっと前には「人工透析受けてる腎臓病患者なんか公費の無駄だから放置して死なせてしまえ!」みたいなことを言ってボロカスに叩かれてたんだよな……。ほんと、性懲りがないよなあ……。こういう人って、自分の身近にも、まあ、いるけどね……。

 「もう少し、戦争の原因と結果について、自分が出たという御立派な大学へでももういちど入学し直して、しっかりと勉強し直した方がいいのでは」と学のない私などは思うが、まあ、言うだけ無駄だし、こういう人物にはそれを容れるような懐もあるまい。すべて無駄だ。だから、本人が死ぬまで黙殺放置するしかない。

 本人たちに言わせれば、「いや、俺は違う」ってなものなんだろうけど、私から見ると、どっちも同じ、言語中枢に異常をきたしたバカモノにしか見えない。

 だからこういうことに関するセンスってものは、若い、年取っている、地位が高い、低い、そういうことには関係ないんだなあ、と思うのである。

 他山の石、っちゅうかね。私もよく心得ておき、発言や書くことを慎もう。

特に(こだわ)りもないが

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 平成18年頃からブログに読書記録を付けていた。使っていたブログサービス(OCNの『ブログ人』)が提供していたリスト化機能を使ったものだった。いつだったか、その機能のサービスが終了してしまうことになった。末端の一ユーザからは是非など言うべくもない。

 そのため、折角つけた記録が無くなってしまうことになってしまった。記録は100や200くらいはあったので、 “特に(こだわ)りもないが” の続きを読む

売れる

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 普段通勤電車に乗っていて、周りの人を落ち着いて眺めると、この5、6年がところ、たいていの人は携帯電話(スマホ)をいじっている。

 その前は大人のくせに任天堂に没頭している人が多かったが、いまやゲーム専用機を電車に持ち込んでいる大人はほとんどいない。皆携帯電話(スマホ)収斂(しゅうれん)した。

 悪趣味との謗りを御免(こうむ)って、人々の手許(てもと)を覗き込むと、字を読み書きしている人はほとんどいない。大体皆、色とりどりの画面でゲームをしている。最近はメールを書いている人もあまり見かけない。(もっぱ)らゲームであって、たまに字を書いているなと思ったら、LINEでスタンプを打ち合っている。

 してみると、もはや文字を書く人は儲からない。文字を読み書きする人は頑固なもので、デジタルに辟易して紙に回帰しているようだ。

 パソコンやゲーム専用機のゲームは数学で作られているが、携帯電話のゲームはまだまだ絵と論理で作られているように思う。使用できるマシンリソースが少ないからだろう。

 そうすると、まだまだ、絵を動かし、効果を派手にし、イベント毎に音を鳴らし、「当たり判定」なんていう地味な処理を書く人が食っていける理屈もあるように思う。(ただ)し、日本国内ではダメなのだろう。もはや中国も高価だ。食える場所は更に辺縁に広がっているのだろう。

あはははは、言ってろよ馬鹿

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 ハハ、まあ、生き馬の目を抜く業界だとか何とか、言うだけ言ってりゃいいさ。

 こんなことやって言って書いて宣伝してて、真っ先に馘首(クビ)になるのは、お前らだと思うぜ、はっはっは。ザマぁ見やがれ。

こぐまのケーキ屋さん

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 カメントツというと「オモコロ」などで明晰夢を見る実験などのフザけた漫画を描いている人、という印象だが、突然何を思ったのかカワイイ漫画を描き、しかもそれが10日ほどで書籍化決定というから恐れ入る。

 ネットオリエンテッドな時代だなあ、と感慨しみじみ。というか、「ど、どうしたんだカメントツ……!?」とネットワーカーは(いぶか)っているという(笑)。

()(ごと)成増(なります)

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 最近の日本人、就中(なかんづく)若者の言葉が乱れている、これは(まご)うかたなき亡国の徴候(ちょうこう)、このままでは日本は滅ぶッ!……などと他人の言うこと書くことに文句をつけてブツブツ言うのは爺ぃの楽しみのようなもので、自分が若者だった頃から若者が嫌いだったという私のような変人、つまりは若い頃は若年寄などと言われ、最近は本当に爺ぃになってきて、名実ともに人生の目標、老害者に近づいてきた私にとっては、またとない趣味の悦楽である。こんなことを言うと本当の老人から「何を言うとる、お前なぞまだまだ青二才のヒヨッコぢゃ!」とお叱りを受けるだろう。

 言葉の意味や姿がフラフラと定まらないと意思の疎通に支障をきたすから、言葉には一定の安定が求められる。しかし反面、言葉は世につれ姿形を変え、人につれ味わいが変わり、状況につれその意味を変える。従って、話し、書き、聞き、読むには寛容もまた求められる。そのバランスが大事だな、などと感じる今日この頃の私である。

 さて、そんな私の最近の楽しみは「成増(なります)屋」を見つけることである。

 何?「丸坊主で不良の歌舞伎か?」……ちゃうちゃう。それは「成田(ナリタ)屋」。

 世の中にはいわゆる「商業丁寧語」というものがある。本来の正しい丁寧語ではない上に、日本語としてもおかしいが、ごく一般的な商行為やビジネス場面ではまあいいだろうということで許容されている丁寧語だ。

「こちら、497円のお買い上げにナリマシタので、お釣りのホウが3円のお返しとナリマス

「こちらのホウ、ハンバーグ定食にナリマス

 文字づらにするとものすごく変なのだが、実際に街のお店屋さんで20代くらいの若い店員がこういう言葉で接客していても、おそらく誰も何とも思わない。「そういうもの」だからである。むしろ、これくらいの言葉の量が返ってくるほうがまだ丁寧な店の部類に入る。店の格が下がってくると

「……ッシャイセ~……っす~……よんひゃ……あざっした~……」

……くらいの、呟きとも何かの呪文とも分からない、謎のため息のようなものしか吐かない深夜のコンビニのレジ係だっている。そういう店員が駄目だと言っているのではない。こういう人でも人前に出て、真夜中にもかかわらず少ないアルバイト代を稼ぎ、健気(けなげ)に生きている。まことに立派なことだとすら思う。

 それはそれとして、この語尾にくっついてくる変な「ナリマス」に対する、よくあるツッコミとしては、

「『ハンバーグ定食にナリマス』って、『なる』ってことは、私の注文したこの料理は、今はまだハンバーグ定食になっていないということでしょうか。では、一体、いつになったらハンバーグ定食になるのでしょうか。ハンバーグ定食になるまで、まだ食べたら駄目なんでしょうか。」

というのがある。こう茶化してツッコむことで、この「ナリマス」言葉の、日本語としての奇妙さは説明できていると思う。

 さておき、前者の「ナリマス」がやたらと目立つ店を、私は脳内で「成増屋」と呼んでいるのだ。

 これは(あざけ)ってそう呼んでいるのではなく、逆に、私くらいの貧乏人が出入りしてちょうどいい身の丈サイズの飲食店や物販店、コンビニなどである、という意味なのである。

 逆に、店員が若いくせに

「お客様、お待たせ致しました。ご注文のお料理、『オマール海老のムースを塗った(ひらめ)の蒸し焼き ラタトゥユのグラチネを添えて』でございます。」

……と、大きからず小さからずの声量で、立て板に水、まったく淀みもつかえもなくハッキリとこの難解で長大な料理の名前を言ってのけ、しかも「コチラ」だの「ホウ」だの「ナリマス」だの、無駄な合いの手をまったく入れないのだとしたら、もう、ごめんなさいと逃げ出したくなってしまうだろう。こういう店では支払いだって「コチラ、お釣りのホウ、300円のお返しにナリマス」だなんて言わない。

    店員「8万円お預かりいたします。4名様でお釣りが……」
     私「ああ、いや、お釣りはあなたが取っておいてください」
    店員「いえ、お客様そのような」
マネージャー「おや、お久しぶりでございます佐藤様。お楽しみいただけましたでしょうか」
     私「ああ、田中さん、お元気ですか。オーナーシェフの鈴木さんはますます腕を上げたようだね」
マネージャー「お褒めにあずかりまして恐縮でございます」

……などというやりとりになるはずである。あるいは、こういう店ではもはや現金で支払いなんかしないだろう。アメックスのブラックをさりげなく出すとかなんとか、もしくは金の話なんかせず、後日事務方がきちんと清算しているとか、そういう塩梅(あんばい)式になっているはずである。私如き貧乏人など、こんな店がお呼びである筈がない。

 最近は、だから、日本語が間違っていようがどうだろうが、もう、いちいち文句など言いたくもなくなってきた。成増屋を使うたび、逆に安堵を覚えるのである。

 店員さんはみんな変な日本語で一生懸命やっている。いとおしく誉めてやりたいくらいだ。

 私の知り合いの知能の高い人たちによると――私は馬鹿だが、私の知り合いには賢い人がたくさんいる――、日本語は駄目な言葉であるため、今後100年くらいで日本語は消滅し、全部英語に代わり、店員や社長、工員、管理人、その他もろもろあらゆる職業人は人工知能(AI)になって人間の仕事は滅び、その後200年で日本は中国になって消えるそうだから、もう、正しく美しい日本語なんて、(あきら)めるのが手っ取り早い。

汚い言い方だからよせ

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 明日は「ブラックフライデー」だそうな。

 「黒い金曜日」などとは、どうも飲み込みかねる言葉である。悪魔や怪物でも出てくるのか、30年前のニューヨーク証券取引所の月曜馬鹿パニックが今度は金曜日に品を変えて襲来してくるとでもいうのか。

 なんだっていいが、どれもすべて「アメリカ人の言い方捉え方」だし、「売り手から見た言い方」であって、我々凡百貧乏の消費者から見た言い方ではない。

 だから、こんな言葉は大嫌いだ。いちいち「欧米ではこう言っていますから」などといううるさい怒鳴りたてはやめてもらいたい。

Twitterのフォロー整理

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 Twitterのフォローを見ていたら、長期間ツイートしてない人や、鍵をかけてしまった人が多くあった。だいたい、平成24年(2012)頃に相互フォローになった人たちに集中している。

 私がフォローしているアカウントは2、300がところで、さして多い方ではない。全部見て、半年以上ツイートのないアカウントは全部削除してしまった。

言葉

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蒙塵(もうじん)

 昨日から読んでいる内田百閒の「阿房列車」に出てきた言葉で、知らない言葉だった。

 Weblio辞書によれば、

「(宮城の外に出て塵(ちり)をかぶる意)変事に際し,天子が難を避けて宮城の外に逃れること。」 

……だそうである。

結滞(けったい)

 この言葉も同じく阿房列車から。

 コトバンクには、

結代とも書く。脈拍が不規則となったり,1拍動が欠けたりすること。期外収縮や心房細動による。

……とある。

索然(さくぜん)

 同じく「阿房列車」から。

 Goo辞書

心ひかれるものがなくて興ざめするさま。空虚なさま。

……とある。

春永(はるなが)

 同じく「阿房列車」。

 コトバンク

いつかひまな時。多く「はるながに」の形で副詞的に用いる。

……とある。たまたまだが、この「コトバンク」の用例も「阿房列車」からの引用で、借りたお金をそのうち返すから、というような意味で「(お金の返済は)いずれ春永にということになって」という、私には意味の分からなかったところがそのまま使われていた。

スティグマ

 メディアの記事の「子どもなし世帯」という言葉の書きっぷりに怒っている人のブログ記事で見つけた。聞いたことはある言葉だったが、意味は忘れてしまっていた。めったに聞かないもんな、こんな言葉。

 「烙印」というような意味と、「聖痕」というような意味の二つがあるようだ。

所謂(いわゆる)「釣り」とはいえど

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 非道なツイートを見かけて憤慨する。

 この男が言っているのは先日亡くなった声優の鶴ひろみさんのことである。

 まあ、所謂(いわゆる)「釣り」という奴だが、しかし、釣りにも限度ってものはあるよな……。

 日本は自由の国なのであるから、総理大臣を(けな)そうが、政権与党をバカにしようが、私達日本人全体に向けて「日本死ね」と叫ぼうが、はたまた逆に、左翼だアカだと野党をボロカスに愚弄しようが、不倫議員をガソリーヌだパコリーヌだとからかおうが、「朝日新聞死ね」と吐き捨てようが、いくらでも何でも、自由に言えばよろしい。

 この男が権力者と看做(みな)しているのであろう安倍総理に「有耶無耶(ウヤムヤ)では済まさんぞ、アベ」と挑みかかるのも、完全に許される。仮に「アベ、死んでしまえこの野郎」と吐き捨てたとしても、この男の小ささと総理大臣の大きさを考えれば、どうにか許容範囲には収まると私は思う。

 だが、不慮の病気で死んだ市井の人を「迷惑だ」「声優なぞ名も知れぬ売れない劇団員の片手間仕事だ」などと言い捨てて、それに引っ掛けての政権批判はなかろう。政権批判を鶴ひろみさんに引っ掛ける必要など全くない。政権批判だけ単独で言えばよろしい。

 私だって鶴ひろみさんと言う人の名前は知らなかったが、こんなふうには思わない。亡くなった記事を見て「お気の毒に」と思う。

 私もしょっちゅう政治家をバカにしたエントリを書いているし、それどころか「死んで詫びろ!」などと書いたこともあるが、もし彼ら彼女らが事故や病気で不慮の死を遂げれば、やっぱり同様に、「お気の毒に、可哀想に」と思うだろう。どうでもいい、とか、迷惑だ、などとは思わないし、仮に思ったとしても、これほど露悪的なツイートはしない。

 この澤谷と言う人は在日韓国人だという。私にも、昔、学校の同級生に在日韓国人の友達はいた。今は直接付き合っている在日韓国人の友達はいないが、間接的に知っている在日韓国人はいる。皆いい人だ。しかし、この男のような活動家が、プロフィールに在日韓国人の大看板を上げてこんなことを書いたりすると、善良な在日韓国人の友達や、一般の韓国人が結果として愚弄されてしまうことになる。これでは普通の在日韓国人にとって、迷惑以外の何物でもあるまい。

 十数年前、韓国の反日の状況があまりにも強く伝えられていた頃、私も韓国や韓国人を嫌っていたが、今はあまり嫌いではなくなった。むしろ仲良くなれないことを悲しんでいる。アジアの有力国である日・中・韓を分断してコントロールしようとする欧米白人の方が今は嫌いだ。

 なんにせよ、「他山の石」というか、こういうことを見て、自分の書くもの、言うことについて、書き方言い方に気を(つか)っていこうと思うのだった。

 ……「釣り」にこんなふうに気持ちをかき乱されるとは、まあ、私も、青ッちょろいと言えば、青ッちょろいわねえ。