ちゃう島

投稿日:

 チャウシマ、という言葉を知った。

 ルーマニアのチャウシェスク暗黒時代、古い文化財級の建物がチャウシェスクによって無理やり取り壊され、無味乾燥な現代風の建物に強制建て替えされたそうだが、ルーマニアの人々はその死屍累々ともいうべき惨状を指して、「ヒロシマ」になぞらえて、自嘲的に「チャウシマ」と呼んだものだそうな。

あっ、この席

投稿日:

 トム・ハンクスのツイートに写り込んでいる人々が「ジャパニーズ・酔っ払いサイコーw」と話題になっている。

 で、このツイート見てて、あっ、と気づいた。これ、先月私が座った席だわ。

 ……と言っても、神田・まつやは広い店ではないので、どうしても似たような席にはなるんだけどね。

秋だ目黒だ秋刀魚(さんま)だガーデンプレイスだ

投稿日:

 昨日「室町砂場」の事など書いて「蕎麦自慢」をしていたら、Facebookで三十年来の旧友F君からコメントがつき、「明日は『目黒のさんま祭り』だ、一緒に行かないか」という。

 実は私は、以前、目黒の職場に10年ほどもいたことがあり、この「さんま祭り」のことには「ちょっと詳しい……」のである。当時は職場の古株だったので、このさんま祭りの事は人によく紹介した。

 ところが……。

 白状してしまうと、私はこのさんま祭りに一度も行ったことがないのだ。さんま祭りは例年日曜日にあるが、自宅から目黒の職場は遠いため、日曜日にわざわざ出かけるのが面倒だったのである。しかし、更に加えて面倒だったことには、望まずして職場の古株だったものだから、しょっちゅう「さんま祭り」のことを他人から尋ねられたのだ。

 で、「私自身は行ったことは実は一度もないんですが」と前置きしたうえで、自分の知る限りのことを調べては人に教えた。それが運悪くというか、「さんま祭りのことなら佐藤さんが詳しいから、聞くといいよ」みたいなことを誰かが言ったらしく、自分が行ったこともないさんま祭りの事を案内紹介しつづける羽目に陥ったのだ。

 さておき、そんな風だった目黒の職場から離れてもう8年経った。さんま祭りの記憶も次第に薄れていたが、畏友F君の誘いとあればこれはもう行かないわけがない。

 改めて記せば、例年目黒では落語の「目黒のさんま」にことよせて、「目黒のさんま祭り」が行われる。主催主体の違いで、二週にわたって似たさんま祭りが二つ催される。いずれも本場宮城沖のさんまを取り寄せ、香ばしく焼き上げたものが無料でふるまわれる。

 今日のさんま祭りは目黒区が実施主体で、「目黒区民祭り」の中に組み込まれているイベントである。

 旧友F君と目黒駅で待ち合わせる。連れだって目黒川沿いの受付窓口へ行くと、手首に整理券になるバンドを巻いてくれる。色分けされ、時間が書かれてあって、私達は正午からの順番になった。

 正午まで暇だから、F君を爺が茶屋のあった場所に案内した。

名所江戸百景・目黒爺々ヶ茶屋
名所江戸百景・目黒爺々ヶ茶屋

 目黒川沿い、「目黒のさんま」の噺のもとネタとなったといわれている「爺が茶屋」という丘がある。安藤広重の「名所江戸百景」の中に「目黒爺が茶屋」という有名な絵があるが、これがまさしくその場所だ。

 現在の地名は「茶屋坂」だ。丘のふもとには清掃工場、丘を登り切ってしばらく行くと、恵比寿ガーデンプレイスがある。

 次のような話が残る。


 目黒は当時、景勝地で、馬の遠乗りや鷹狩の場所でもあった。

 この地に住まいしていた百姓の彦四郎じいさんは、峠近くに茶屋を設け、百姓仕事の傍ら店を切り盛りしていた。

 三代将軍家光が目黒で鷹狩りを行うという。彦四郎は粗相があってはならぬと、その日は茶屋を閉め、ひっそりと家に閉じこもっていた。鷹狩が始まり、にぎやかに勢子(せこ)の声がし、やがてそれも()んだが、どうしたわけか茶屋の前に人声がし、多くの人がたむろしているようだ。

 そうと見る間に、茶屋の戸をがらりと開けてつかつかと入ってきたのは征夷大将軍徳川家光その人であった。驚きいぶかしむ彦四郎に、将軍は親しく「茶を所望する」と声をかけた。

 しかし彦四郎は困惑する。百姓町人に供するような渋茶しかないのだ。どうしようかとまごまごしていると、将軍は「よい、(じい)、普段出しているのとおなじ茶でよいのだ」と闊達(かったつ)なことばを彦四郎にかけた。

 それでも、いつもより丁寧に茶を淹れ、おそるおそる差し出せば、将軍もこだわりなく、喉が渇いていたのでもあろう、熱い渋茶をうまそうに飲み干して、

 「爺、これからは遠慮なく、鷹狩の時も店は閉めずともよいぞ」

 と言って立ち去った。

 それから家光はあるじ彦四郎の純朴さを愛してたびたびこの茶屋を使ったという。

 また、八代将軍吉宗の時代にも、この茶屋はあった。家光の頃から50年~60年以上も経過しているから、茶屋の主彦四郎も、息子か、孫であったのだろう。吉宗も彦四郎にことばをかけては、茶代に銀1、2枚を下し置くのを例とするようになった。歴代の将軍や大名も、それにならい、目黒筋の狩猟や参詣にはよくこの茶屋を利用するようになった。

 十代将軍家治も親しくこの茶屋を使った。

 あるとき、いつものように将軍が茶を喫していると、なんとも言えぬ良いにおいがただよってくる。

 「(じい)、このよいにおいは何か」

 「はい、これは手前どもの昼餉(ひるげ)の、『田楽』の味噌が焦げるにおいでございます」

 「ほう、『田楽』とは聞きなれぬ。どのようなものか知らぬが、いかにもうまそうな香りである。どれひとつ、これへ持て。」

 恐縮しつつも焼きたての熱い田楽を差し上げると、うまそうにそれを平らげた将軍はその味をほめ、ことのほか満足の(てい)で茶屋をあとにした。

 ところが、その後の鷹狩の際、「あのうまい田楽なるものをば、この(たび)はぜひ供の者どもにもふるまうべし」と将軍の仰せである。その数たるや、なんと100串。

 彦四郎は大慌てで、方々からかき集めて豆腐をあがない、必死になって田楽味噌を摺り、囲炉裏の火をかきたてて、汗だくになって次から次へと田楽を焼き、やっと将軍の思し召しに(たが)わずにすんだという。


img_4678 落語の「目黒のさんま」は、この田楽の話を秋刀魚(さんま)に翻案したのではないかと言われている。

 どちらかというと海から遠く、鷹狩りを催すほどの丘にあった当時の目黒で、秋刀魚が名産であるわけがないのだが、そこをうまく使って落とし噺にしたのが「目黒のさんま」だ。

 このあたりの実際の話は、右リンクバナーの「東京今昔探偵」という本の中に、爺が茶屋の(あるじ)彦四郎の子孫、島村七郎氏から聞き取った、ちょっとした実話が載っている。

 ガーデンプレイスでコーヒーなぞ飲んで時間をつぶし、またゆっくりと会場に引き返す。おりから小雨交じりの曇天ではあったが、会場からはさんまの煙が威勢よく立ち上っている。

img_4680 整理方法が計画的に工夫されているようで、大して並ぶわけでもなく、整理券さえちゃんと貰っておけばスムーズに会場に入れる。

 地域の人たちが何百もの秋刀魚をどんどん焼きたてていて、その様子は壮観だ。

img_4682 焼き立ての秋刀魚をひとつ貰う。

img_4683 うまい。実にうまい。(はらわた)まで全部平らげてしまった。

 ビールを飲み、至福の見本のようになる。

img_4707 すっかり出来上がって、F君とフラフラほっつき歩き、再び茶屋坂を登って、恵比寿駅前の「おっさんホイホイ」系居酒屋の前あたりなんぞをひやかす。

 そうするうち、それはそうとビールならこうでしょう、というわけで、再び恵比寿ガーデンプレイスまで、JR恵比寿駅「atré」のエスカロードに乗る。

img_4697 ガーデンプレイスでは「恵比寿麦酒祭り」というのを開催中で、これがまた、さんま祭りの客を大いに取り込み、大変な盛況である。

 F君と雑談などしつつ、ヱビスビールをたっぷり楽しむ。店をかえ、更に飲んだ。

 日暮れ。一日、少々ぐずついた空模様ではあったが、傘なしでも濡れるというほどではなく、日に照られずに済んでかえって涼しくて良かった。

 旧友F君の誘いで、秋の一日を楽しく過ごすことができた。

二日ずれ望

投稿日:

 仲秋の名月は旧暦八月十五日で、今年は一昨日の9月15日だった。

 だが、天文学上の朔望は、完全なものは日本では夜ではなかったり、日の境を超えたりするので、最大2日弱ずれる。

 このため、旧暦八月の本当の「望」、すなわち満月は、仲秋の名月から二日後の今日である。

 このあたりは国立天文台の暦要項に計算の上で端的に記載されている。

 これによれば、本当の望は今朝の未明4時5分なので、いつの夜に近いかと言うと今夜と言うより昨夜に近い。

 今、外に出てみれば、秋らしくもなく(おぼろ)の月が、丸く大きく出ている。

徹夜明けふらりへろり

投稿日:

 最近続いているパターンだが、今週末も金曜日から泊まり込みで徹夜仕事、土曜日の今朝(けさ)引けた。疲れた。まあ、大変だがこれで口を糊しているのだからしかたがない。稼ぎの分は働く。

 朝9時頃に「七里蹴ッ灰(けっぱい)……」くらいの荒涼たる気持ちで職場の門からまろび出て、帰途についた。秋色が濃い。天気は曇りで、陽光が散乱し、却って眩しい秋の朝だ。樹葉もそろそろ緑に倦み飽いているように見える。

 すっかり涼しくなった風の中を歩く。

 職場近くのスターバックスでコーヒーなど飲んでいるうち、せっかく国会図書館の近くにいるのだから、もう少し「太平記」でも読んでみようか、という気になる。

 無論、あの日本最長の古典文学を今日一日で全部は読めない。だが、国会図書館の活用法として、すばやく資料を調べる、ということがあるから、ひとつ、太平記全40巻、岩波文庫では全5巻だが、このなかから、もともと興味を持った()()けの、楠正成に関する記述の部分ばかり抜き出した目録でも作ってみようではないか。

 市ヶ谷の職場から国会図書館のある永田町までは3~4km程で、さほど遠くない。秋色など味わいつつ歩いても構わないが、どうせなら開館間もない午前9時半の()いているうちに入りたいから、有楽町線か南北線で(ふた)駅、地下鉄で行く。

角川俳句大歳時記でさえずり季題

 先日も書いたが、国会図書館はWiFi完備で、閲覧室ではコンセントも使える。

 そこで閲覧室の机にさっそく店をひろげていると、Twitterの俳句知り合いの@donsigeさんからリプライが来た。「来週の『さえずり季題』出題よろしく」とのことである。

 無論応諾、なんと都合のいい時に国会図書館に来ていることか。いつもは使っていない歳時記をここで借りて、そこから出題しよう、と思いつく。

 私が所有している歳時記は、角川の合本、それから同じく文庫、平凡社のポケット、他にノーブランドのものが一つ二つ、そんなものなのだが、今日は前から手元に欲しいなあと思いつつも高価だから手を出しかねている、あの浩瀚な「角川俳句大歳時記」の秋の巻を借り出して、そこから知らない季語を拾って出題しようではないか。

 さっそく借り出して捲ってみると、あるある。いろんな季語があるじゃあないのグフフフ、というわけで、その中から面白そうなのを選び、来週の出題を作った。

 来週の出題をお楽しみに、というところである。

太平記・楠正成登場の段の題目録

 さて本題の、今日国会図書館へ来た目的、標記のまとめをした。

 次のとおりである。


岩波第1巻

第三巻 笠木臨幸(かさぎりんこう)の事 1

第三巻 (くすのき)謀反(むほん)の事、(ならびに)桜山(さくらやま)謀反(むほん)の事 3

第三巻 赤坂(あかさか)(いくさ)の事、(おなじく)(しろ)()つること 8

第七巻 千剣破城(ちはやのじょう)(いくさ)の事 3

岩波第2巻

第九巻 千剣破城(ちはやのじょう)寄手(よせて)南都(なんと)に引く事 8

第十一巻 正成(まさしげ)兵庫(ひょうご)(まい)る事 5

第十五巻 (おな)じき二十七日京合戦(きょうかっせん)の事 7

第十五巻 (おな)じき三十日合戦(かっせん)の事 8

第十五巻 手島(てしま)(いくさ)の事 11

第十五巻 湊川(みなとがわ)合戦(かっせん)の事 12

岩波第3巻

第十六巻 正成(まさしげ)兵庫(ひょうご)下向(げこう)子息(しそく)遺訓(いくん)の事 7

第十六巻 尊氏(たかうじ)義貞(よしさだ)兵庫湊川(ひょうごみなとがわ)合戦(かっせん)の事 8

第十六巻 正成(まさしげ)討死(うちじに)の事 10

第十六巻 (かさ)ねて山門(さんもん)臨幸(りんこう)の事

第十六巻 正行(まさつら)(ちち)(くび)()悲哀(ひあい)の事 14


 多少漏れがあるかもしれないが、太平記には楠正成に関する記述がこれだけの段にわたって含まれていることがわかった。

 調べながら楠正成の人生を読み、いやもう、涙、涙。

東京・日本橋 室町砂場

 朝からそんなことで、徹夜明けの目をムリヤリ見開いて本なんか(めく)った。

 昼過ぎて腹も減ってきた。

img_4631 図書館を出て、いつもあまり気にしていない、ベンチに座っている銅像にからんでみたりなどする。

img_4635

 もう昼も遅い。そこで、今日はひとつ、前から行こうと思っていた、砂場御三家の一軒、「室町砂場」に行ってみようと思い立った。

 この木曜日にも代休で午後がヒマだったから、虎ノ門の砂場に行ったのだ。なんだか、毎回毎回蕎麦ばかり手繰って、我ながら好きだなあ、と思う。先週行った三ノ輪の砂場総本家を勘定に入れるなら、東京の砂場御三家はコンプリートということにもなろうか。

 室町砂場は日本橋に本店、赤坂にもう一軒支店がある。国会図書館のある永田町からなら、赤坂の方が歩いて行けるくらい近いのだが、室町砂場自体に行ったことがないので、今日はひとつ、半蔵門線に乗って日本橋まで行ってみようではないか。

 室町砂場の最寄駅は、神田か、三越前、あるいは大手町である。

 今日の場合、永田町から半蔵門線に乗れば、皇居の北ッかわをぐるりと回り、三越前までものの10分ほどで着く。

img_4648_tern 地下鉄「三越前」の駅の、「A10」という出口から、国道17号線に出られる。「室町砂場」までは歩いて3~4分もかからない。

 奥に坪庭、その左に別仕切りの小部屋、奥に入れ込みの座敷があり、テーブル席が十幾つか。せせこましくなく、ゆっくり座れる。

img_4641 今日も焼海苔に酒をたのむ。これは単純に好物だから。

 チョンと赤いものが乗った小鉢は通しもので、海月(くらげ)を梅肉で()えたものだ。塩気が効き過ぎず、紫蘇(しそ)のいい香りがして、海月はほどよい大きさと歯ごたえだ。飲もうと思えばこの小鉢だけで五合くらい飲んでしまえる気がする。店員さんに訊くと「これだけでお肴のご注文もできますよ」とのことであった。

 この肴と焼海苔、酒を交々(こもごも)やって、杯ひとつ分の酒が残った頃に(おもむ)ろに「もり」を一枚注文する。

img_4646 この店の蕎麦は白くて歯ごたえの良い「さらしな粉」で、つゆは濃いめ、まことに品のある、旨い蕎麦だ。

 薬味の葱は他所でよくあるようなビショビショしたものではなく、香りがよく、しかもシャキッとしていて旨い。栞を見ると、「当店の葱は千住の葱で、水で晒さないようにしています」という意味のことが書いてあって、なるほどと思った。

 テーブルに置かれている栞に、「当店は『たぬき』と『きつね』を置いておりません。それは、お客様を『ばかす』のもいかがなものかという考えからです」という意味のことが書いてあり、なかなか洒落が効いていて、いいなあ、と思った。

 東京屈指の綺麗な名店で気持ちよく一杯飲み、上等の蕎麦を手繰って、全部でちょうど1700円だから、これはそんなに高くない、実に楽しい飲み食いだと思う。

 火災に遭う前の連雀町「かんだやぶそば」、閉める前の上野「池の端藪蕎麦」、それから今も盛業の浅草「並木籔蕎麦」、それぞれ既に行った。

 つまり、これで、東京の蕎麦の名店のうち、籔・砂場と、コンプリートしたわけだ。次は麻布十番の更科(さらしな)、これは3店あると聞くが、この3店へ順番に行って見ようと思う。

 焼ける前の「かんだやぶそば」と、閉店した「池の端籔蕎麦」は、惜しいところでギリギリ滑り込みだったな、という気がする。先日池の端へ行った時、思いがけず重機で取り壊しているのを見て、愕然としたものだ。

道路原標

 微醺(びくん)を帯びて室町砂場を後にし、川沿いに日本橋のほうへ歩く。

 東京・日本橋の名物といえば、かの有名な「道路原標」というものがある。残念なことに、今までにこれを見たことがなかった。実は先日神田川クルーズに乗船してみた時に日本橋に来ていて、その時見れば良かったのだが、道路原標のことは全く念頭になく、すっかり忘れていた。

 この「道路原標」は、日本の道路里程はすべてここから測られるという原標で、日本橋の中央の道路表面に埋め込まれている。いつもは車がビュンビュン通るので、実物は遠目にしか見られない。観光客は橋の北詰めにある複製の道路原標を見学するのがならわしだ。

 ところが、今日日本橋まで来たそのとき、たまたま、日中にもかかわらず、信号の成り行きで自動車が日本橋上から一台もいなくなった。北の信号も南の信号も赤で、車が入ってこない。交通量は結構多かったのに、本当にたまたま、そういう瞬間が訪れた。

 今だ、というわけで、ゆっくりと日本橋の真ん中まで歩き、落ち着き払って、真正の「道路原標」を写真に収めることができた。これはラッキー。

img_4651 これがその写真である。

 

葡萄

投稿日: