野見(のみ)宿禰(すくね)

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 さて、なんとしても、「野見(のみ)宿禰(すくね)」の話を書き留めておかねば面白くない。日本の総合格闘技「古式相撲」の創始者として知られるが、それ以外に実は、多くの人に知られていない話がある。それを不肖・佐藤の現代語訳で、ここに書きとめておく。底本は岩波文庫「日本書紀(二)」(ISBN4-00-300042-0)(著作権消滅)である。

「野見の宿禰」~日本書紀より~
(現代語訳・佐藤俊夫)

 垂仁(すいにん)天皇が即位されてから七年が経った秋のこと。垂仁天皇のおそばに仕える者たちが

当麻(たいま)村にものすごく強い格闘家がいるそうです。この人の名は当麻(たいま)蹶速(けはや)と言うそうですが、この男の強いのなんの。牛と戦って角をへし折り、鋼鉄でできた太い鉤を、素手で真っ直ぐに伸ばしてしまうと噂されています。いつも回りの人々に、『あちらこちらと歯応えのある奴を探しているが、俺より強い奴はどうもいないようだな、ふん。俺と互角の格闘家と、生き死にに関係なく、全力で戦ってみたいものだぜ』などと豪語しているようです。」

と、申し上げた。

 垂仁天皇はこれを聞き、

「ほう。当麻の蹶速はそれほどに強いか。天下一の格闘家と申すようだのう。……どうだろう、当麻の蹶速の相手ができるような者は、国には他におらぬのか?」

と臣下たちに言われた。ある大臣が進み出てきて、

「私が聞き及んでおりますには、出雲(いずも)に名の知られた格闘家がおります。『野見(のみ)宿禰(すくね)』という名だそうです。ためしに、この人と当麻の蹶速に試合をさせてみてはどうでしょうか。」

と申し上げた。すぐに、(やまと)一族の先祖と言われている長尾市(ながおち)が出雲に使いに発ち、野見の宿禰を呼んできた。野見の宿禰はすぐに都にやってきた。

 さっそく、当麻の蹶速と野見の宿禰の試合が行われた。

 二人は向き合って立った。

 それぞれ、蹴り技で戦い始めた。

 大変な蹴り試合になった。当麻の蹶速は肋骨をへし折られた。ひるんだところを、野見の宿禰の(とど)めが容赦なく襲った。腰骨に踏み蹴りが決まり、当麻の蹶速は腰骨を粉砕されて、その場で死んでしまった。

 当麻の蹶速の領地は召し上げられ、すべて野見の宿禰に与えられた。

 このことがあったため、野見の宿禰の領地の村には、「腰折田(こしおりだ)」という地名が残っている。

 野見の宿禰はそのまま、垂仁天皇の臣下となって、そば近く仕えることになった。

 それから二十年以上が経った。垂仁天皇の弟の、倭彦(やまとひこ)(みこと)が亡くなった。桃花鳥坂(つきさか)に葬ったが、その折、倭彦の命に仕えた者たちが数多く呼び集められた。

 呼び集められた者たちは、すべて、陵墓の周りに生き埋めにされた。殉死である。生き埋めにされても、すぐに死ぬものではない。昼も夜も、生き埋めにされたその人たちが泣き叫び、苦しむ声が聞こえ続けた。そして、苦しむままにその人たちは死に、朽ちて腐乱死体となった。犬や烏が死体にたかり、死肉をむさぼった。

 垂仁天皇はその声や、一部始終を聞き、大変心を痛めた。臣下たちを集めて

「いくら(あるじ)の生前に一生懸命に尽くした人たちだからと言って、主と一緒に死なせなければならないなどと、こんな残酷なことはない。昔からのしきたりかも知れないが、良くないことはたとえしきたりでも良くない。そんなしきたりに従う必要はないと思う。これからは、こんな殉死の風習は廃止せよ。」

と命令した。

 それから更に5年後(当麻の蹶速と野見の宿禰が戦ってから26年後)、皇后が亡くなった。葬るまでにしばらく時間があったので、垂仁天皇は臣下たちに

「私は以前、殉死と言うのは良くないことだと悟った。それにしても、今度の皇后のとむらいは、どのようにしたものか……」

と言われた。

 天下一の格闘家である野見の宿禰がすっくと立ち、進み出て垂仁天皇に次のように申し上げた。

「仰せの通り、主が亡くなったからと言って、人を生き埋めにすることは、私も良くないことだとかねがね思っておりました。こんなことをいつまでも後世に伝えることなど、できません。そこで、私に名案があるので、どうかお任せくださいませんか」

 野見の宿禰は使いの者を出し、故郷の出雲の焼きもの師を百人、呼び集めた。そして、自分が指揮をして、焼きもので人や馬など、いろいろな物の模型を作った。

 これを垂仁天皇に差し出し、

「これからは、この焼きものの模型を埋めることで、生き埋めの殉死の代わりにしては如何でしょうか。後世にはこのやり方を伝え残すべきだと思います」

と言った。

 垂仁天皇は大変よろこび、

「野見の宿禰よ、お前の名案は、本当に私の気持ちの通りだ」

と仰せられた。こうした焼きもののことを「土物(はに)」と言う。皇后の陵墓には、この「はに」が、初めてずらりと並べて埋められた。輪のように並べたので、「はに」の輪であることから、これは「はにわ」と言われるようになった。立物(たてもの)とも言う。

 垂仁天皇は

「これからは、陵墓には必ずこの『はにわ』を使うこと。決して生きている人を傷つけてはならない」

と命令された。そして、野見の宿禰の功績を大変褒められ、領地を下された。

 このことから、野見の宿禰は焼きもの師(土師(はじ))の監督官として任ぜられることとなった。それで、姓も変えることになり、「土師臣(はじのおみ)」と名乗るようになった。土師の一族が、後世も天皇の葬儀をとりしきるようになったのは、こうしたことがあったためである。

 このように、格闘家・野見の宿禰は土師一族の元祖とされている。


 なお、この部分の白文は、次の通り。

七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言、當麻邑有勇悍士。曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤。恆語衆中曰、於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者、而不期死生、頓得爭力焉。天皇聞之、詔群卿曰、朕聞、當摩蹶速者、天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言、臣聞、出雲國有勇士。曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立。各舉足相蹶。則蹶折當摩蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。

(中略)

廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彦命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域。數日不死、晝夜泣吟。遂死而爛臰之。犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷。詔群卿曰、夫以生所愛、令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。

(中略)

卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰、從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。於是、野見宿禰進曰、夫君王陵墓、埋立生人、是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰、自今以後、以是土物更易生人、樹於陵墓、爲後葉之法則。天皇、於是、大喜之、詔野見宿禰曰、汝之便議、寔洽朕心。則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰、自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地。卽任土部職。因改本姓、謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。

「1Q84」感想

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 文句なしに面白かった。何年も前に発表された大ヒット作であり、あらゆる人々に読み尽くされた後の本であるから、私如きが今更感想など書き留めておくのもなんだか痛々しい。だがそれでも、書いておきたい。面白かったからだ。「ネタバレ注意」である。

 私は、村上春樹の作品を一冊も読んだことがない。若いときにも読む気は起こらなかった。私は村上春樹に限らず、リアルタイムの話題作と言うものをほとんど読まないのだ。本屋でポスター貼りの本や平積みの本を手に取ることなど、まず、ない。話題作は、いつもかなり時間が経ってから読む。意識してそうしてきたわけではない。ただ、本屋に入って、自分の読みたいもの、興味のあるものを思ったとおりに選んでいたら、自然そうなってしまうだけだ。そして村上春樹の作品は、発表される端からすべてが話題作である。こうしたわけで、自然、手に取らないことになった。

 ただ、村上春樹が超有名であることは言うまでもない。文章が平明で正確な作家であり、読みやすいということも聞いて知っていた。もちろんノーベル賞の候補に推されるほどだから、読んでハズレがないことも最初からわかってはいた。

 最近になって、村上春樹が翻訳した海外作品をいくつか読んだ。レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーティ。村上春樹はアメリカ文学の翻訳家として沢山の本を訳している。それらの感想を友達に話すうち、「『1Q84』は読みましたか」という話にもなった。何か気になってきて、遅ればせながら「1Q84」を手に取った次第である。

 連合赤軍、ヤマギシ、エホバの証人、モロにオウム真理教や創価学会のようなカルト、バブル、東電OLを思わせる事件、虐待される子供、池波正太郎「仕掛人梅安」のモチーフ、かつてのNHKの集金人の印象、乱倫セックス、不倫、SF、独裁者よりも恐ろしい集合無意識やネットワークのようなもの…等々、実に多くのものがテンコ盛りに盛り込まれている。

 物語がそれらのパーツを強引に巻き込んでいく様子は、さながら大きな神社の極太の注連縄が、その尖った先端に向かって人工的にかつ強引に縒り合されていくかのようだ。男女の愛が結実するまで、注連縄は力技でギリギリと締め上げられていく。途中で多少夾雑物がこぼれ落ちようがお構いなしだ。

 都会の街の底の歳時記の趣もある。扱われる居心地の悪いパーツが時として嘔吐感をもよおす程に薄汚れているにもかかわらず、まるでそれを忘れさせるように四季の変化が美しく描き込まれ、春夏秋冬の空気が薫るようである。作者はその落差を意識でもしたのだろうか。

 この本に描かれているのは「物語」であり、主張などではないと見た。そこには問題提起も指摘も論理も、何もない。そんなものは物語に必要ではないからだ。

 本が楽しく面白く悲しく深刻に、そして美しく書かれ、楽しく面白く悲しく深刻に、そして美しく読まれる。それでよいではないか。

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☆ ツッコミのいくつか

  •  BOOK2からBOOK3(文庫4巻~5巻目)への切り替えが雑。4巻目の「青豆入り空気さなぎ」はどこへ行ったンじゃーーーッ!?ひょっとして書くのがめんどくさくなったのか~>作者
  •  最終シーンにヤナーチェクのシンフォニエッタを持ってきて、調和的に盛り上げてほしかった。また、最後に、はじめのトヨタ・ロイヤルサルーンの、オーディオ完備タクシーが登場すれば結びとして時代劇のような構図が完成したろう。だが、そうすれば、文学としては陳腐化し、二流大衆小説になったかもしれない。
  •  終章に近づくにつれて、魅力的で重要な登場人物たち(ふかえり、戎野先生、緒方夫人…)が、どうでもよくなって投げ出されていくような印象。うーん、捨てられる登場人物がかわいそうだぞ。
  •  ボーイ・ミーツ・ガールに着地させるのは、どうなのか。ちと安っぽくないか?
  •  牛河。この魅力のある登場人物。未読であるが、スターシステムじみて、「ねじまき鳥…」にも登場する人物だそうな?。しかし、雑に扱われすぎだ。4巻(BOOK2後編)まで、青豆・天吾・青豆・天吾…と美しく繰り返されてきた章立てに、突然この醜い男は一章、見事な舞台を与えられて闖入してきたにもかかわらず、なんだか、作者が最後のほうでめんどくさくなってきて扱い方に困り、エエイ殺してしまえ!と殺したような感じである。最後の登場の仕方なんか、死体である(笑)。
  •  池波正太郎の「仕掛人・藤枝梅安シリーズ」が最もヒットしていたのは昭和59年(1984年)前後であるから、この物語の素材としてそれが応用されるのは、実に面白いことだ。

ポンチ軒・ぽん多・ぼんち

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 中学校の同級生から聞いた話を、書き留めておきたい。

 大阪にかつてあったとんかつ屋の「ぼんち」は、通常のとんかつとは違う、実に老舗の風格と味を持った名店であったのだそうだ。惜しいかな、近年店じまいしてしまって、その味はもう楽しめないのだという。

 「ぼんち」の店主は、東京・上野御徒町(おかちまち)の「ぽん()」でとんかつの修行をしたらしい、と同級生は言っていた。

 一方、私は本で、「明治維新後、西洋流のポークカツレツを和風にアレンジし『とんかつ』として完成させた店は、東京の『煉瓦亭』と『ポンチ軒』を嚆矢(こうし)とする」ということを読んで知っていた。「明治洋食事始め――とんかつの誕生」という本がそれだ。

 同級生に聞いた話から、どうも、「ぽん多」という店名と「ポンチ軒」という店名が似ているようだと思って、ネットに両者を入れて検索してみた。

 すると、「ぽん多」の創業者は、島田信二郎と言う人であることがわかった。島田信二郎氏と言えば、日本の「とんかつ元祖」の泰斗、「ポンチ軒」の料理人としてとんかつを完成させた人である。ポンチ軒をひいてから、「ぽん多」を創業したものらしい。

 島田氏は、もとは宮内庁の「大膳部(だいぜんぶ)」(『かしこきあたり』の膳部(ぜんぶ)をとりしきる部署)に勤め、その後、「ポンチ軒」に入って、ユニークな「洋食」、とんかつを完成させたのだと言う。

 そうして話をつなげてみると、「ポンチ軒」・「ぽん多」・「ぼんち」、どの店の名前も、少しづつ似ている。

 一日、明治の味を今に伝えると言うその「ぽん多」へ出かけてみた。店は、(なか)()(かち)(まち)のごく目立たぬ通りに品よくおさまっている。店内は静かで、キレイである。創業は明治38年(1905)というから、平成24年(2012)の今日現在で創業107年、東京の店としては老舗中の老舗と言える。

 メニューは決して多くはないものの、いろいろなものがある。が、迷わず代表メニューの「カツレツ」を選び、味噌汁と飯、漬物も注文する。

 値段は安くはないが、気持ちよく払える値段の範囲と言っていいだろう。概ね3000円からの値段で飲み食いできる。

 とんかつ専門店として近頃売り出している多くの店は、わりあいに「豪快な食べ応え」を目指していて、衣のパン粉などもザックリとし、肉も歯ごたえのあるものを選ぶ傾向にあるようだが、「ぽん多」のものは、その反対である。

 パン粉はあくまできめ細かで、油は軽く、だがしかし、しっかりと肉になじみ、上品である。軽く揚げてあって色もほんわりとしているが、中まで火が通り、肉は柔らかく、軽い食べ応えである。付け合せに芋フライと、糸のように細く刻んだキャベツがつく。

 無論、旨い。味噌汁と飯ととんかつ、あっというまに腹に収まってしまう。

 入り口のそばに佐藤春夫の色紙がかかっている。「これはいくさに負けなかった國の味である 佐藤春夫」としたためてある。実際には変体仮名で書かれているから、若い人には多少読みにくいだろう。

 とんかつは、明治期の肉食解禁から60年ほどかかって日本の食に溶け込んでいき、ついに「和食」として完成されたものだ。もともと西洋料理の「コートレット」「カツレツ」は、炒め物よりかは少し多いめの油で、煎り付けるようにして調理するものであった。これが、江戸時代に伝来して既に普及していた「てんぷら」の調理法、すなわち、素材が全部没するくらいの深い量の油で「ディープ・フライ」にする方法と組み合わされた。箸・飯・味噌汁とセットになり、もともとの西洋料理にも見られない、ほとんどオリジナルと言ってもよいほどの和食に変身したのである。

 近年、日本の工業製品などは、「ガラパゴス化」と言われて、独自発展しすぎる嫌いを揶揄される。しかし日本が、1億人、世界で9番目と言う人口を擁する、比較的大きな国であることは、これも事実だ。さまざまな独自文化を持っている日本国内で、ものごとがそうした発展の仕方をすることは、仕方がないと言うより、むしろ当然で、好ましいことであるように思う。

 ぽん多のとんかつに、そうした、「好ましいガラパゴス」を見た。

堕落論

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 坂口安吾の「堕落論」は、とうに著作権が消滅していることを知る。掲げてみる。


堕落論

坂口安吾

 半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

 昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼等が生きながらえて生き恥をさらし折角の名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ。十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終らせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。

 この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。

 いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、之は皮相の見解で、彼等の案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。

 武士は仇討のために草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼等の知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照らし、忽ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。日本戦史は武士道の戦史よりも権謀術数の戦史であり、歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。今日の軍人政治家が未亡人の恋愛に就いて執筆を禁じた如く、古の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。

 小林秀雄は政治家のタイプを、独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き者の意志を示している。政治の場合に於て、歴史は個をつなぎ合せたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦巨大な独創を行っているのである。この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿に於て独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。何人が武士道を案出したか。之も亦歴史の独創、又は嗅覚であったであろう。歴史は常に人間を嗅ぎだしている。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点に於ては全く人間的なものである。

 私は天皇制に就ても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に担ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代り得るものならば、孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである。

 すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。

 我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲るたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就てはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。宮本武蔵は一乗寺下り松の果し場へ急ぐ途中、八幡様の前を通りかかって思わず拝みかけて思いとどまったというが、吾神仏をたのまずという彼の教訓は、この自らの性癖に発し、又向けられた悔恨深い言葉であり、我々は自発的にはずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。道学先生は教壇で先ず書物をおしいただくが、彼はそのことに自分の威厳と自分自身の存在すらも感じているのであろう。そして我々も何かにつけて似たことをやっている。

 日本人の如く権謀術数を事とする国民には権謀術数のためにも大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚に於て彼等はその必要を感じるよりも自らの居る現実を疑ることがなかったのだ。秀吉は聚楽に行幸を仰いで自ら盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。これは秀吉の場合であって、他の政治家の場合ではないが、権謀術数がたとえば悪魔の手段にしても、悪魔が幼児の如くに神を拝むことも必ずしも不思議ではない。どのような矛盾も有り得るのである。

 要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変り易いから「節婦は二夫に見えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。

 まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕ちて暗黒の曠野をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘らず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。

 死んでしまえば身も蓋もないというが、果してどういうものであろうか。敗戦して、結局気の毒なのは戦歿した英霊達だ、という考え方も私は素直に肯定することができない。けれども、六十すぎた将軍達が尚生に恋々として法廷にひかれることを思うと、何が人生の魅力であるか、私には皆目分らず、然し恐らく私自身も、もしも私が六十の将軍であったなら矢張り生に恋々として法廷にひかれるであろうと想像せざるを得ないので、私は生という奇怪な力にただ茫然たるばかりである。私は二十の美女を好むが、老将軍も亦二十の美女を好んでいるのか。そして戦歿の英霊が気の毒なのも二十の美女を好む意味に於てであるか。そのように姿の明確なものなら、私は安心することもできるし、そこから一途に二十の美女を追っかける信念すらも持ちうるのだが、生きることは、もっとわけの分らぬものだ。

 私は血を見ることが非常に嫌いで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしていた。けれども、私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に戦きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。

 私は疎開をすすめ又すすんで田舎の住宅を提供しようと申出てくれた数人の親切をしりぞけて東京にふみとどまっていた。大井広介の焼跡の防空壕を、最後の拠点にするつもりで、そして九州へ疎開する大井広介と別れたときは東京からあらゆる友達を失った時でもあったが、やがて米軍が上陸し四辺に重砲弾の炸裂するさなかにその防空壕に息をひそめている私自身を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持になっていたのである。私は死ぬかも知れぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。然し廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。その好奇心は私の一生の最も新鮮なものであり、その奇怪な鮮度に対する代償としても東京にとどまることを賭ける必要があるという奇妙な呪文に憑かれていたというだけであった。そのくせ私は臆病で、昭和二十年の四月四日という日、私は始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのとき丁度上京していた次兄が防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。又、当時日本映画社の嘱託だった私は銀座が爆撃された直後、編隊の来襲を銀座の日映の屋上で迎えたが、五階の建物の上に塔があり、この上に三台のカメラが据えてある。空襲警報になると路上、窓、屋上、銀座からあらゆる人の姿が消え、屋上の高射砲陣地すらも掩壕に隠れて人影はなく、ただ天地に露出する人の姿は日映屋上の十名程の一団のみであった。先ず石川島に焼夷弾の雨がふり、次の編隊が真上へくる。私は足の力が抜け去ることを意識した。煙草をくわえてカメラを編隊に向けている憎々しいほど落着いたカメラマンの姿に驚嘆したのであった。

 けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。麹町のあらゆる大邸宅が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に坐っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変るところがない。ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、罹災者達の蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交い、路上の鮮血にも気づく者すら居らず、たまさか気づく者があっても、捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さない。米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。

 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。

 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。

 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。

 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。

 私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

「武器輸出三原則」と「武器輸出三原則等」

投稿日:
防衛破綻―「ガラパゴス化」する自衛隊装備 (中公新書ラクレ) 防衛破綻―「ガラパゴス化」する自衛隊装備 (中公新書ラクレ)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2010-01-10

 以下、上記書籍198ページ~200ページまでを引用


「武器輸出三原則」と「武器輸出三原則等」

 一方で兵器の輸出にはメリットがあることも事実である。

 輸出によって市場経済にさらされれば、製品の質は向上する。特に実戦で兵器が使用されればフィードバックがあるので、技術面の向上には大変有用だ。これは否定できない事実である。

 わが国では新聞やテレビなどのマスメディア、政治家でも誤解していることが多いが、「武器輸出三原則」は、武器、即ち兵器の輸出を禁じてはいない。「武器輸出三原則」とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。

(1) 共産圏諸国向けの場合

(2) 国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合

(3) 国際紛争の当事国またはそのおそれのある国向けの場合

 これは佐藤栄作総理大臣(当時)が一九六七年四月二十一日の衆議院決算委員会で答弁したものである。これに該当しない国々には原則輸出が可能なのである。

 一九七六年二月二十七日、三木武夫総理大臣(当時)が衆議院予算委員会における答弁で、「武器輸出に関する政府統一見解」を表明した。これは、「『武器』の輸出については、平和国家としての我が国の立場からそれによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない」というものだ。そして、

(1) 三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。

(2) 三原則対象地域以外の地域については、憲法および外国為替および外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」輸出を慎むものとする。

(3) 武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。

 としている。わが国の武器輸出政策として引用する場合、通常、「武器輸出三原則」(佐藤首相の答弁)と「武器輸出に関する政府統一見解」(三木首相の答弁)を総称して「武器輸出三原則等」と呼ばれる。

 つまり武器の禁輸は「武器輸出三原則」ではなく、「武器輸出三原則等」によって規定されているのである。「等」がつくかつかないかで、大きな違いがある。ただ、これも「三原則対象地域以外の地域について『武器』の輸出を慎むものとする」としているので、まったく禁止しているわけではないとの解釈もできる。

黒部峡谷に行ってきた。

投稿日:

 家族で「黒部峡谷」を旅した。

 黒部峡谷は飛騨山脈、通称「北アルプス」よりも更に北、「立山連峰」と「後立山連峰」を真っ二つに割って流れる峻険な峡谷であり、ほぼ富山と長野の県境付近にあると思えばいいだろう。

 この峡谷を旅行するにあたっての醍醐味は、なんといっても、「黒部ダム」を中心とする発電所建設の苦闘の歴史を辿ることにある。

 峡谷周辺の観光には、黒部ダムはもちろん、立山や黒部峡谷下流の探勝などがある。立山の高山地帯はロープウェイなどで気軽に楽しめる。峡谷の下流の探勝は「黒部峡谷鉄道」が有名だ。これは通称「トロッコ電車」と呼ばれているもので、もともとは水力発電所の工事のために敷設されていた専用の小鉄道だ。これが観光用に開放され、誰でもが楽しめるようになっている。小さなトロッコ客車がゴトゴトと峻険な谷を縫って走り、なんとも言えぬ興趣がある。

 黒部ダムには、自家用車で行くことはできない。近くまで自家用車で行き、トロリーバスやロープウェイ、ケーブルカーなどの観光用の乗り物を乗り継いでいくことになる。

 富山側からの場合は「立山アルペンルート」という経路を用いる。毎年春ごろ、雪の壁のそそり立つ廊下のような所を観光客が歩いているシーンがニュースなどで放映されるが、あれがそうだ。このルートの場合、自家用車の乗り入れは「立山駅」というところまでである。

 長野側からの場合は「扇沢」というところまで自家用車で行ける。ここからトロリーバスに乗ることになる。

 往復、途中までの往復、あるいは「通り抜け」など、さまざまな計画が考えられる。「通り抜け」をする場合、マイカーの始末に困るが、3万円ほどで「回送サービス」を行っている業者があり、富山・長野の間のかなりの長距離、車を運んでおいてくれるので、旅行する人は検討してみてもいいだろう。

【メモ】 ダム探勝にあたり、4人家族大人2人子供2人で長野側(扇沢)から富山側(立山)まで行くには現地のロープウェイやケーブルカーを乗り継がねばならず、

     大人 (1500+840+1260+2100+1660+700) × 2人 = 16120円

     子供 (1500+840+1260+2100+1660+700) ÷ 2 × 2人 = 8060円

     合計24180円

     …という結構な額がかかる。まともに往復すれば48360円というびっくりするような値段となる。我が家の場合、長女は中学生だから、これがもうちょっと高くつき、56420円という値段になる。

     一方、「ファミリー割引」というのがあり、これを使えば扇沢から富山側の「室堂」までの往復で、大2小2の合計4人で2万100円と、相当安くなる。途中下車が出来なくなるが、途中で引き返す人などほとんどいないだろう。往復コースを取るなら、ぜひこれを使うべきだ。

     もし扇沢から立山までのマイカーの回送を業者に頼んで「通り抜けコース」をとると、26000円ほどかかるので、乗り物代と合わせて、一日で5万オーバーほど必要となる。旅行する人はあらかじめこれを理解しておかなければ、びっくりしてしまうことになる。

 私は扇沢から黒部ダムに行き、反対の立山の中腹の「大観峰」というところまで行って引き返すことにした。

 自宅からのドライブは、東京外環・関越・上信越・長野各道を経由して黒部ダムを見、次に日本海側に出て北陸道を走り、富山から「黒部峡谷鉄道」の観光基地「宇奈月温泉」に至る。帰路は北陸・上信越・関越・東京外環の順に走る。往復800キロほどのドライブである。埼玉・東京・群馬・長野・富山・新潟の6都県をまたぐ、なかなか楽しい高速ドライブだ。

 黒部峡谷を訪ねるには、少々「予習」をしておいたほうが楽しめる。「予習」には、次のような各種の映像・書籍が使える。

  •  「プロジェクトX」

 これのDVDは既に絶版となっており、レンタルビデオ屋には置いていない。黒部ダムに関係するところは、前・後編の2編である。後編はダウンロード販売があり、3日間視聴可能で210円だが、前後編併せて見るにはDVDを購入するよりほかなく、これは約3800円と、少々値段が高い。だが、ぜひとも見ておきたい。

プロジェクトX 挑戦者たち Vol.7厳冬 黒四ダムに挑む ― 断崖絶壁の輸送作戦 [DVD] プロジェクトX 挑戦者たち Vol.7厳冬 黒四ダムに挑む ― 断崖絶壁の輸送作戦 [DVD]
価格:¥ 3,800(税込)
発売日:2001-11-22

 絶版とは言うものの、Amazonなどにはまだある。見ておけば感動が倍加すること間違いなしである。私は残念ながら、ダウンロード販売の後編のみを見ていった。

  •  「高熱隧道」(小説、吉村昭)

 私はこの小説家の「破獄」や「冬の鷹」などが好きだ。

高熱隧道 (新潮文庫) 高熱隧道 (新潮文庫)
価格:¥ 460(税込)
発売日:1975-10

 この「高熱隧道」は、有名な黒部ダムに先立つ戦前の話で、300人もの死者を出しながら貫徹した黒部第3発電所の工事の物語である。

  •  「黒部の太陽」(小説・映画)
黒部の太陽 黒部の太陽
価格:¥ 840(税込)
発売日:1998-06

 映画は昔の石原裕次郎主演のものと、最近香取信吾が主演したものの二つがある。私はこっちのほうは、残念ながら、小説も映画も見ていない。有名な黒部ダムの話である。

 因みにこれらのメディアは、すべて黒部ダムの売店で買うことができる。だが、やっぱり行く前に見ていったほうが楽しい。

 さて初日。朝は2時半に起き、家族を叩き起こして3時に出発だ。もちろん、前夜20時には就寝している。家族は車の中で眠ってしまうから、車に放り込んでしまいさえすれば、あとは私がひたすらドライブすればよい。休暇シーズンはこういう行動をするに限る。昼間は道路が滅茶苦茶に混むからだ。

Img_1864 早発ちの効果で、約300キロのドライブは順調・快適に進む。8時前には難なく扇沢に着き、トロリーバスに乗ることができた。乗っている間に、どんどん気温が下がっていく。 下界は気温37度だというのに、終点黒部湖駅についてみたら、気温はなんと15度の冷涼である。

Img_1793_2 地下の階段を通ってダムの展望台に出る。息を呑むような大きなダムだ。 観光のために放水しており、朝日を浴びて何重にも虹を生じている。

 堰堤の中ほどに出て覗き込むと、目がくらむような高さ、深い谷である。160名に及ぶ死者を出したというのもさもあろうと思う。この谷の峻険さのゆえであろう。

 遊覧船に乗って黒部湖内を一周する。両側に山肌が迫り、面白い。

 ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで、立山の取り付きの「大観峰」というところまで行った。だが、朝のうちは非常に良い天気だったのだが、にわかに曇り、雨が混じるようになって、残念ながら立山からの絶景はものにできなかった。それでも、眼下はるかに黒部ダムを望むことができ、満足である。

 こうして過ごすうち、またたくまに昼を過ぎる。

 早い目に名物「トロッコ電車」の観光基地「宇奈月温泉」に向かう。扇沢から宇奈月までは百数十キロ以上離れているから、結構時間がかかる。実はトロッコ電車の終点地の「欅平」と「黒部ダム」は、直線距離だと十数キロしか離れていないのだが、あまりの峻険な地形と大山岳に阻まれて、このように大迂回をしなければならないのである。

 宿は宇奈月温泉の「宇奈月ニューオータニ」というところにとった。

 実にいい宿で、出迎えなど実に丁重である。部屋も料理もよい。バイキングの夕食はビフテキや刺身がたっぷり出る。風呂も黒部川に面していて、景色がいい。

 二日目は「トロッコ電車」を使い、黒部峡谷の観光を楽しむ。

 宿で「トロッコ電車に乗る」とフロントに言うと、ちゃんと車を一日、あずかっておいてくれ、駅までマイクロで送ってくれた。駅前の駐車場に車を停めると900円取られるから、得をした。

 トロッコ電車は多くの橋やトンネルをくぐって、Img_1873 がたごととゆっくり黒部峡谷を進む。涼味満点で、実に楽しい。

【メモ】 トロッコ電車はインターネットで予約ができる。私は9時の予約をした。座席は予約ではないが、車両は予約であり、100%座れるから心配はない。とはいうものの、窓際のいい席は早い者勝ちだから、早めに並ぶといいだろう。

【メモ】 黒部峡谷のトロッコ電車は、途中の駅で上下車すると、かえって空いている車両に乗れるようだ。「1号車」という一番後ろの車両は途中で上下車する人のために席が取り置かれているらしく、途中で下車する個人客はこの車両に案内される。ところが、観光客の多くは始点から終点まで乗ってしまうので、この車両に乗る人はそんなにおらず、どうもそのために空くらしい。ただ、途中上下車の場合、切符の予約ができない。途中駅で購入しなければならないのだ。そのため、モタモタしていると満席になって帰れなくなるおそれもあるので、そこらへんを考える必要がある。

【メモ】 黒部峡谷のトロッコ電車は、往路は右側の端の席に座ったほうが断然景色がよい。できれば車両の一番前の、なおかつ右がよい。写真を撮るのに便利だ。だが、「鐘釣駅」から終点「欅平駅」までは、左側がよい。

 午前中いっぱい、終点「欅平」付近を散策する。小さな温泉が点在し、宿泊などもできる。景勝「猿飛峡」などが見られる。

 昼から「鐘釣」という駅に引き返す。ここは、駅から河原に降りていくことができる。黒部川の流れに手足を浸すこともできるし、河原を掘ると、温泉が湧くという面白いところである。子供たちと汗を流しながら手で河原を掘り、温泉を溜めて座席用の石を並べ、「我が家専用足湯」を作って足を浸して遊んだ。

【メモ】 峡谷ではぜひとも清冽な黒部川の奔流に手を浸したくなるが、安全のためもあってか、河原に降りられるようなところはほとんどない。だが、「鐘釣」では、河原に降りて水に触れることができる。また、鐘釣駅に水道があるが、これは黒部の新鮮な水である。私もそこにぶら下げてある金属のコップで一口飲んだが、なかなか旨かった。水筒に水を満たしている人も沢山いた。

 こうして峡谷内で遊んでいると、あっという間に午後も遅くなる。宇奈月温泉に引き返し、土産物屋なぞ冷やかして、自宅に車を向ける。

 帰りは約400キロのドライブ。18時に宇奈月温泉を出発。高速道路はガラ空きで、23時頃には自宅へ帰り着くことができた。

 実にいい旅だった。

「大空のサムライ」の内容を、なぜ本当だと思うか

投稿日:
大空のサムライ―かえらざる零戦隊 (光人社NF文庫) 大空のサムライ―かえらざる零戦隊 (光人社NF文庫)
価格:¥ 1,000(税込)
発売日:2003-04

 このブログの右ペインの「最近読んだ本」に出している本である。

 この本やその世界観に批判的な人の言に、「本当に戦時中、こういう軍人がいたというなら、日本は戦争に負けなかったはずだ」というのがある。つまり、手っ取り早く言うなら、この本に書かれていることは、ウソか、贔屓目に見ても大袈裟だ、というのである。

 だが、私はこの本に書いてあることは、多分本当だろうと思う。

 著者の坂井氏は、まちがいなく実在の人物だ。そうして、坂井氏を知る戦友は、戦後も沢山生きている。その戦友や関係者を、坂井氏は実名で、本の中に沢山挙げている。

 ウソを書けば、坂井氏は生き残りの戦友や戦死者の遺族に指弾されてしまうだろう。

 そのこと一事をもってみても、坂井氏はウソを書くことが出来なかったであろうと推定できる。

「ロング・グッドバイ」、ところで

投稿日:

 昨日の帰りの電車の中で読了した「ロング・グッドバイ」、村上春樹訳の「長いお別れ」だ。

ロング・グッドバイ ロング・グッドバイ
価格:¥ 2,000(税込)
発売日:2007-03-08

 19歳か20歳代ぐらいにかけて、ハヤカワミステリの清水俊二訳でこの本を読んだものだ。当時は当時で夢中になったものだが、今の私は43歳。改めて読むと、また違う印象だ。

 ところで、20年以上前に読んだ頃は気にならなかったのだろうか、覚えていなかったのだが、今回村上春樹訳を読んで改めて印象に残ったことがある。この本を書いた頃、筆が闊達であったらしいチャンドラーは、筆に勢いでもあって滑るのか、登場人物にしょっちゅうこんなことを言わせるのだ。

「我々はデモクラシーと呼ばれる政体の中に生きている。国民の多数意見によって社会は運営されている。そのとおりに動けば理想的なシステムだ。ただし投票をするのは国民だが、候補者を選ぶのは政党組織であり、政党組織が力を発揮するためには、多額の金を使わなくてはならない。誰かが彼らに軍資金を与える必要がある。そしてその誰かは――個人かもしれないし、金融グループかもしれないし、労働組合かもしれないし、なんだっていいのだが――見返りに気遣いを求める。私のような人間が求めるのは、プライバシーだ。人に邪魔されずに静謐のうちに暮らすことだ。私は新聞社をいくつか持っているが、個人的には新聞など好きではない。新聞がやっているのは、人がやっとこ手にしているプライバシーに絶え間なく脅威を与えることだ。連中は何かといえば報道の自由を標傍するが、その自由とはごく少数の高尚な例外をべつにすれば、醜聞や犯罪やセックスや、薄っぺらな扇情記事や憎悪やあてこすりや、あるいは政治や経済がらみのプロパガンダを世間にばらまくための自由に過ぎない。新聞というのは、広告収入を得るためのただの入れ物商売なのだ。広告収入は部数によって決定されるし、部数が何によって決まるかは知っての通りだ。」

大金持ちの有力者、ハーラン・ポッター

「まとまった額になると、金は一人歩きを始める。自らの良心さえ持つようになる。金の力を制御するのは大変にむずかしくなる。人は昔からいつも金で動かされる動物だった。人口の増加や、巨額の戦費や、日増しに重く厳しくなっていく徴税――そういうもののおかげで人はますます金で左右されるようになっていった。世間の平均的な人間は疲弊し、怯えている。そして疲弊し怯えた人間には、理想を抱く余裕などない。家族のために食糧を手に入れることで手一杯だ。この時代になって、社会のモラルも個人のモラルも恐ろしいばかりに地に落ちてしまった。内容のない生活を送る人間たちに、内容を求めるのは無理な相談だ。大衆向けに生産されるものには高い品質など見あたらない。誰が長持ちするものを欲しがるだろう?人はただスタイルを交換していくだけだ。ものはどんどん流行遅れになっていくと人為的に思いこませ、新しい製品を買わせるインチキ商売が横行している。大量生産の製品についていえば、今年買ったものが古くさく感じられなかったら、来年には商品がさっばり売れなくなってしまうのだ。我々は世界中でもっとも美しいキッチンを手にしているし、もっとも輝かしいバスルームを手にしている。しかしそのような見事に光り輝くキッチンで、平均的なアメリカの主婦は、まともな料理ひとつ作れやせんのだ。見事に光り輝くバスルームは腋臭止めや、下剤や、睡眠薬や、詐欺師まがいの連中が作り出す化粧品という名のまがいものの置き場に成り果てている。我々は最高級の容器を作り上げたんだよ、ミスタ・マーロウ。しかしその中身はほとんどががらくただ」

同じく、ハーラン・ポッター

「きれい事だけで一億ドルが作れるもんか」とオールズは言った。「一番てっぺんにいる人間は、自分の手は汚れてないと思っているかもしれん。しかし途中のどこかでいろんな人間が踏みつけにされてきたんだ。小さな商売をしている連中は足下の梯子をはずされて、二束三文で店を手放さなくちゃならない。真面目に働いている人々が職を奪われる。株価は操作され、代理委任状が宝玉品みたいに金でやりとりされる。多くの人々にとって必要だが、金持ちにとっては都合の悪い法律の成立を妨げるために利権屋や弁護士が雇われ、十万ドルの報酬を受け取る。そんな法案が通ったら金持ちの取り分が減っちまうからさ。でかい金はすなわちでかい権力であり、でかい権力は必ず濫用される。それがシステムというものだ。そのシステムは今ある選択肢の中では、いちばんましなものなのかもしれない。しかしそれでも石鹸の広告のようにしみひとつないとはいかない」
「アカみたいな話し方をするじゃないか」と私は言った。ただからかっただけだ。
「言ってろよ」と彼は鼻で笑った。「今のところまだ思想調査にかけられちゃいないぜ。」

老練な正義漢の刑事、バーニー・オールズ

「おれは博突打ちが嫌いだ」と彼は荒っぼい声で言った。「麻薬の密売人に負けず劣らず、あいつらのことが嫌いだ。あいつらは麻薬と同じで、人間の病癖につけこんで商売をしているんだ。リノやヴェガスにあるカジノが罪のないお遊びのために作られていると思うか?冗談じゃない。そういう場所は小口の金を使う庶民を食い物にしているんだ。濡れ手に粟を夢見るカモ、給料袋をポケットに入れてやってきて、一週間ぶんの生活費をすってしまう若者。そんな連中をな。金持ちの賭博客は四万ドルをすってもへらへら笑っていられるし、もっと金をつかいに戻ってくる。しかし金持ちの賭博客だけで商売が成り立っているわけじゃないんだ。やくざの稼ぎの大半は十セント硬貨や、二十五セント硬貨や、五十セント硬貨で成り立っている。一ドル札や、ときには5ドル札がたまに混じるかもしれんがな。あいつらの稼ぎは、まるで洗面所の蛇口から水が出てくるみたいに、休むことなく流れ込み、いつまでも止まることはないんだ。博突を商売にしている連中を、誰かが叩きのめそうとしているとき、おれはいつだってそっちの味方につくね。喜んで。そして州政府が博突打ちからあがりの一部を取って、それを税金と称するとき、連中は結局のところやくざたちが商売を続ける手助けをしているんだよ。床屋や美容院の女の子たちが二ドルをふんだくられる。その金がシンジケートに流れる。そいつがやつらの実質的な儲けになるんだ。人々は正直な警察を求めている。そうだろう? しかし何のために? 特権階級のお偉いさんを保護するためにか? この州には認可を受けた競馬場があって、年中競馬が開催されている。それは公正に運営されていて、州はそのあがりをとっている。しかし競馬場で動く金の五十倍の金が、もぐりの馬券屋を通して動いているんだ。 一日に八つか九つのレースがあるが、その半分くらいは誰も目にとめないような小さなレースで、誰かがひとこと声をかければ簡単に八百長が組める。騎手がレースに勝とうとすれば方法はたったひとつしかないが、勝つまいと思えば方法は二十くらいある。レース・トラックでは八本めのポールごとに監視員が立って目をこらしている。しかし心得のある騎手にかかったら、監視員なんて手も足も出ないさ。なんのことはない、そういうのが公認ギャンブルなんだよ。公明正大に運営されて州の承認を受けている。名目的には文句のつけようがない。しかしおれには納得しかねるね。どこが公明正大だ? どんなに体裁を繕ったって所詮は賭博だし、賭博はやくざを肥え太らせるんだ。害毒を流さない博突なんぞどこの世界にもない」
「気持ちはおさまったか?」と私は傷口にヨードチンキを塗りながら尋ねた。
「おれは年をくってくたびれた、ぼんこつの警官なんだ。気持ちなんておさまるもんか」

同じく、バーニー・オールズ

 チャンドラーは小説の中に突然こんな不満と言うか、愚痴みたいなことをもぐりこませて、いったい何に怒っていたんだろう。言うまでもなく「ロング・グッドバイ」はハードボイルド小説だから、社会への批判やメッセージなどとは無縁のものだ。だが、チャンドラーはこういった文章を挟み込まずにはいられなかったのだろう。

 この本は1953年というから、日本で言えば昭和28年、戦後間もない頃の小説だ。今の日本の社会への批判としてそのまま読んでもおかしくないくらいで、さすが先進国アメリカだな、と思うと同時に、作家チャンドラーの鬱屈が登場人物を借りてほとばしり出ている感じで、なかなか読ませる。

 チナミに、この引用箇所は小説の筋書きにはほとんど何の関係もない。喋っている登場人物を主人公が憎めなく思っているという設定を際立たせる効果はある。

突然気付いた点

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 先だって「あの頃はフリードリヒがいた」という、岩波少年文庫から出ている子供向けの本を読み、いたく感じ入った。

あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520)) あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))
価格:¥ 714(税込)
発売日:2000-06

 あまりにも抑制気味の筆致が、大人には余計に考え込ませて悲惨の気持ちを増幅する。いい本だと思い、長女(小6)にやった。

 このブログの「最近読んだ本」というサイドバー項目にも出してある。それを見て誰か読む人でもあればという心持ちである。

 そのサイドバー項目を眺めていて、突然気付いたことがある。

 ドイツは戦争に敗れた。だから、悲しみをもって、罪のない者を痛めつけたことを反省できる。アンネをかくまい、フリードリヒをかくまった者を温かい目で見、それら善意の人々を逮捕した秘密警察を憎むことができる。ユダヤ人をいじめ殺したアウシュビッツやベルゲンベルゼンの跡地をむしろ逆に保護保存し、反省することができるのだ。

 だが、アメリカで、たとえば強制収容所に連行されようとする日系人をかくまった善意の人がいたとして──いや、広い国土だ、そういう者だってかならずいたであろう──そういう善意の人は、温かい目でなど永久に見られることはないだろう。日系人と言ってピンと来なければ、9.11直後のアルカーイダ兵の家族でもなんでもいい。アメリカ人は、彼らをいたわる者があれば、逮捕し訴追し、刑務所にブチ込んで殴るだろうし、アルカーイダの下っ端兵士をなぶり殺しにした三下将校を英雄だと言って勲章の一つもやるだろう。

 アメリカ人は永久に弱いものをいたわる気持ちなど持つことはできないに違いない。あいつらなど、黒人の大量強制連行や原子爆弾による文明と人道への嘲笑ですら反省していないではないか。

 彼らは正しいのではない。彼らはよこしまに強いだけだ。強いものが正しいと言うのは誤りだ。弱いものでも正しいものは正しいし、強いものでも邪なものは邪なのだ。

 いっそ、ワシントンとニューヨークあたりで水爆でも炸裂して、2億人ほど死ねば彼らも反省と言う気持ちを知るに違いないのだが、そのようなことなど永久になさそうなのが口惜しい。アメリカ自身の退廃ぶりの見返りの疫病、たとえばエイズなどで死に絶えてくれないかと思ったが、逆にエイズで滅びそうなのはアフリカ諸国であったりする。

 専制国家中国に頭を押さえつけられるくらいならアメリカにナメられたほうがまだマシではあるが・・・。

「バイエル」

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 いつも近所の島村楽器で買い物をする。ふた月ほど前、メトロノームを買った折、書籍コーナーを見ていると、子供向けの音楽家伝記シリーズの漫画があり、ベートーベンやモーツァルトに混じって「バイエル」という題のものを見つけた。

 先週、それを買ってみた。 

バイエル―マンガ音楽家ストーリー〈8〉 (マンガ音楽家ストーリー (8)) バイエル―マンガ音楽家ストーリー〈8〉 (マンガ音楽家ストーリー (8))
価格:¥ 945(税込)
発売日:2004-02-04

 それなりに面白いものの、残念ながら、ほかの音楽家と違ってバイエルのことはほとんどわかっていないらしく、このマンガはオールフィクションである。

 だが、今日これを取り上げたのはほかでもない。あとがきに非常にいい調子で「バイエル肯定論」が書かれてあったからである。

 巷間、「バイエル否定論」を探すことはたやすい。「バイエル ピアノ」でググれば、子供の頃ピアノがものにならず、挫折した人のルサンチマンやら恨み節をこめて、「バイエルなんてクソだ!!やめちまえ!!」というようなページが目立つ。

 だがこの本のあとがきは、そうした「バイエル否定論」に、真っ向から、ひとつづつ反論している。かいつまんで記せば、

  •  よく知られた子供向きの曲がない。 ← よく知られた子供向きの曲が豊富な「メトード・ローズ」は、ピアノ初心者には読譜も演奏もむずかしい。
  •  ポリフォニーがない。 ← ある。よく見てないだけ。
  •  曲がきれいでない。 ← 初心者用の教則本なので、初心者の演奏ばかり聞くことになり、そんなふうに感じる。ピアニストが弾いたバイエルの録音を聞くと、びっくりするくらい美しい。
  •  バイエルは古臭い。 ← なら、モーツァルトやバッハは?
  •  両手ト音記号ではじめるのはおかしい。 ← 別段おかしくない。
  •  ヨーロッパで使われていない。 ← ヨーロッパのピアノ教師は、そもそも練習曲に重きを置いておらず、バイエルが使われていないんじゃなくてツェルニーやクレメンティも使われていない。ところが、「バイエルはヨーロッパでは使われていない」という人に限って「ツェルニーは大事」などという。

 ・・・等々である。

 なんにせよ、私は、オッサン面下げてバイエルを一生懸命練習しているので、「その練習にはとても大事な意味がある」というふうに書いてあることはとてもうれしい。