軍事的プレゼンスと場違い老人のオナニー

投稿日:

 日本のプレゼンスを高めるのに、以前はカネを払っておけばよかった。

 誰かが「カネ払いのコモディティ化」と言った。そんな言い方が正しいのかどうかは知らないが、日本がカネを出すのは当たり前になってしまった。その実、存外に我々国民は必死で払っていたりするのだが、諸外国はそんなことには目もくれず、人を出せ血を流せなぞと要求してくるようになってしまった。実際にはそんなことを言った国はほとんどないらしいが、我々がそう受け取ってしまったのは手痛い。

 カネは払わにゃならんわ、人は死なせなくちゃならんわ、踏んだり蹴ったりである。これは、友邦だけならまだしも、敵国までが逆説的にそれを要求しているのだから、もはやワケがわからない。

 平和協力・国際活動・国際貢献等と色々に言い換えているのだが、結局、「軍事力の行使」のことなんだから、あきれてしまう。「軍事」を「安全保障」と言い替えるのと同じいかがわしさである。

 むしろ、海外の事情をよく知る人のほうが、冷厳に「日本にもっと軍事的プレゼンスを発揮してほしい」などと思っていたりするから、かえって始末が悪い。

 世の中の国々にはさまざまな発展段階があって、10年遅れたり100年遅れたり、色々だ。日本のように空前絶後の、究極の、突拍子もない無茶な憲法を持つに至った国というのは世界史においてこれまでに皆無で、その点、日本はアメリカをすら差し置いて二、三百年ほどぶっちぎりの進歩を遂げていると言える。

 が、一人だけ進歩したって、通用しないのである。童貞の若者の集団に、しょぼくれてはいるがその実なかなか甲に苔むした百戦錬磨の老人が紛れ込んで、「僕はね、もう、セックスは卒業したんだ。あんなくだらないことはしなくても、なにも困らないよ。君たちもそうしたまえ」とすすめるようなもので、そりゃまあ、日本はこの新年で建国2675年を誇る古豪の爺い国ではあるが、回りは性欲全開まっさかりのお子様国ばかりなんだから、同じというわけにはいかんだろう。しかもその爺いは実のところ老いてなお枯れきってはおらず、日々隠れて自慰行為に励んでいるなどとあっては、なにをかいわんやである。

「いや、あの憲法は自分達で考えたことではないのだから、日本人の先進性を誇るのには使えないだろう」と言う人は言うだろうが、これをしも外側から来るイベントへの受動的な追従だと言うなら、ならば、いさぎよく滅却すべくあらく、だがそれをしないのはやはり「あの憲法は自分のものだ」と我々日本人のそれぞれが内心考えているからにほかならぬ。

 老人の自慰が恥ずかしいと思うなら、だったらとっととやめればよい。だが、自慰は恥ずかしいことだろうか。誰でもやっていることだ。表立って正々堂々と「僕はオナニーをしています」などと大声で言うようなことではないのは当然だが、特段恥じ入ることでもないのである。ならばそのまま、恥ずかしく情けなく、「私は枯れ切ってしまい、セックスは卒業しました」と表向きには言っておきながらそのまま自慰行為を続けるというあさましい余生を送ってはどうか。しかも、「あの爺ぃは毎日2度くらい自慰をしているらしいぜ」と近所じゅうにうすうす知れ渡っていて、しかもその知れ渡っていることを爺さんもそのまま都合よく利用し、他の恥を隠してしかもなお詮索から身を守る弾除けにしているわけである。

 ああ、これは私が、夢想すらした「世界初の老巧国家」ではないか!やった!すばらしい!

テレビを見る

投稿日:

 ほとんどテレビを見ない。ニュースが嫌いだからだ。ニュースが嫌いというより、思想的なニュースキャスターが嫌いなのだ。まあ、ご本人たちも結局のところ有名人で、キャスターなぞといいつつ、実質はタレント、芸人の類いである。自分の考えなんかどうだってよく、視聴者の情緒よりする上からの命令に合わせて色々と喋りまくらなくてはならず、それで私のような安物の偏屈おやじの憎悪をよぶのだから、よくよく考えてみると金持ちとはいえお気の毒というより他ない。

 テレビを見ないから、ドラマもあまり見ない。「あまり」というのは、たまには見る、ということだ。

 このところの朝のドラマ、「マッサン」は面白いから見ている。ただ、普段は見る暇がないので、家のレコーダーに一週間ぶん録り貯めたやつを日曜日に見ている。

 これだって、最初は見る気なんかなかった。ふとしたはずみで、途中からなんとなく見はじめたので、最初のほうを見ていない。

 それで、最初の方の見てなかったやつをこの正月休暇に見てしまうことにした。幸い、今のテレビにはネット機能があり、各種のビデオ配信サービスが使える。ドラマのバックナンバーが見られるNHKのオンデマンドサービスを向こう1ヶ月ぶん買った。いながらにして昔の番組をいろいろと見られるのだから、これは便利だ。月980円である。ずっと見るわけではないから、来月はやめてしまえばよろしい。

 マッサンの見ていない回は十数回までだ。オンデマンドサービスで見ていないところを順に見て、筋書きのわからなかったところを確かめるなどし、十分楽しむことができた。単品で買うと1回108円なので、十数回で980円払ったのはまず妥当な割引だ。

 しかし、1ヶ月間見放題なのをそれで終わらせるのはもったいない。どうせ1ヶ月間同じ値段で他の番組も見放題なので、何か他に見るものはないかな、と思ってメニューをあさると、一昨年ごろのドラマの「夫婦善哉」を見つけた。当時放映されていたのは知っていたし、もとより織田作之助を愛読している私である。放映当時、見てもいいかな、と思っていたが、そういうドラマが放映されていると知ったときには第2回くらいまで放映されてしまった後だったので、もうええわ、と見なかったのである。

 それを、先程からまとめて全部見た。

 今日になってから見て、良かった。もし放映当時見ていたら、私は怒り出しかねなかったろう。なぜかというと、ドラマは、平成19年に発見された未発表の遺稿、「続 夫婦善哉」の筋書きをも存分にアレンジしてあったからだ。「正」のほうは私が若い頃からの愛読書でもあり、各節をそらんずることすらできるほど何度も読んでいるが、反面、「続」を読んだのは恥ずかしながら去年のことで、ドラマ放映当時は遺稿が発見されていたことも、それが出版されていたことも知らなかった。去年岩波の正・続他12編の合本を書店で見つけて買うまでは、新潮文庫の古いほうを一冊愛読しているきりであったのだ。

 だから、もしドラマを先に見ていたら、「な、ななな、なんちゅう改変を加えよんねん、これでは原作をレイプするようなものではないか!」と、脚本家を批判しただろう。

 だが、そうではなかった。遺稿・続編を読んだ後で見て、本当に良かった。

 ドラマそのものは、原作の忠実な映像化ではなく、「夫婦善哉イメージビデオ」の趣である。台詞の登場箇所など自由に変えてあるが不快な感じではなく、かえって面白かった。

貧困など増えていない

投稿日:

 先日のことだ。見るともなし、つけっぱなしになっていたテレビから、NHKの人気番組の惹き文句が耳に入ってきた。

 「子供の6人に1人は貧困である」という。

 私の知人にはデータに取り組んでいる人も多く、統計に詳しい人もたくさんいる。この人たちは、おそらくであるが、この番組の惹き文句を聞いて、私と同じように「やれやれ…」と思っているに違いない。

 所得の分布が正規分布に従うとしよう。

 もう、こう書いた時点で、私の友人知己のみなさんは、「ああ、わかったわかった、言わずもがなのわかりきったことを言うなよ佐藤よ。ばかばかしいじゃないか」と言うだろう。だが、痛々しく、かつくだくだしく、書かずにはおれない。

 仮に、「国の貧困基準」なるものを、平均から1σ下げたところに決めるとしよう。残差自乗平均だの分散だのということは今さら解説すまい。計算するまでもなく、1σより下が貧乏人だというなら、ざっと17、8パーセントは常に貧困だ。そりゃ、6人に1人は、貧乏に決まっている。

 施策を打とうがなにしようが、貧困というのが他者との比較に基づく相対的なものである以上、そうなる。

 テレビって、なんでこういうものの言い方をするんだろう。

浮動首都

投稿日:

 浮動首都、というようなことを妄想した。自分が書いた砲兵のことと、石原莞爾の「最終戦争論」を読んでのことだ。

 石原莞爾によれば、戦術は点から線、線から面、面から体へと発展し、航空技術の究極に達したところで最終戦争となるという。

 その論の多くは外れてしまい、最終戦争は起こらず、米国の言う核抑止ドクトリンを経てアメリカ一強によるイスラムいじめの様相を呈していることは、歴史の事実である。

 だが、石原莞爾の論説は、東京・大阪の大空襲、広島・長崎の惨劇を経る前に書かれたものだ。それをわきまえたうえで読めばなかなかに興味深い。

 石原莞爾は「近未来には、戦闘員・非戦闘員の区別はなくなる。3次元化した戦闘は都市の無差別爆撃の形をとり、女子供までもが殺される役割として、戦闘に参加することとなる」と喝破している。石原莞爾が言い当ててからたった数年後にそれは東京・大阪、また広島・長崎の形で精密に現実化した。

 アメリカの戦略ドクトリンは変遷したとはいえ、各国のミリタリーはまだ太平洋戦争の呪縛から脱しえない。米国軍隊は縦横に飛び回り、かつ世界のどこへも決定的リーサル・ウェポンを叩き込む自由を得たが、それを生身に浴びる弱い者たちは、2~3百年前からほとんど変わらず、町や村に固定されて生きている。

 リーサル・ウェポンから逃れるためには、首都が浮遊せねばならぬ。情報技術等によって、殺害の主対象である何億もの弱者が、さながら雲のように形を変えてあちこちを浮動し、物理的決定点を持たぬようになることだ。一発の致死兵器が決定点に炸裂しても、そこに人口が蝟集していなければ、その兵器は恫喝の意味を持たなくなる。

受け入れがたいことを受け入れ、そこに意味を見出す

投稿日:

 ウソ論文を書いて証明してみろやと追い込まれる科学者もおれば、ウソ記事を書いて大学の先生になりおおせたような不審人物が守られる大学もある。

 似たようなことをしでかしていても、これだけ社会の扱いは違う。いや、もしかすると迷惑をかけた人数で言えば、ウソ論文のネェチャンより、ウソ記事の大先生のほうがよっぽど悪いかもしれない。

 しかし、そうした社会の反応の良し悪しは言うまい。

 人間の作る社会は、物理的な適否や論理的な正邪など超越した、感情的な好悪で動いている。そういうものなのである。

 われわれ無力な、世界になにもなすところのない人物は、到底受け入れがたいことでも、学長閣下その他、ボスのいうことであれば受け入れ、受け入れたことに意味を見いだしていくより他はない。

心霊ソースコード

投稿日:

 デジタルと霊魂とのシームレスな融合、ということを考えてみた。

 かつて写真は、画期的な技術的ブレイクスルー、人類の文明を劇的に前進させるハイパーメディアであったはずである。

 しかし、当時の科学技術の粋を集めた写真技術にすら、いにしえの神秘主義は待て(しば)しというものがなく、「心霊写真」という一大ジャンルがいまだ絶えることなく人々を惑わせている。

 写真に霊魂が写るのならば、デジタルデータにも霊魂の作用があってしかるべきである。

 すなわち、「心霊mp3」「心霊csv」「心霊プレゼン」「心霊ソースコード」「心霊web」「心霊html」「心霊パケット」「心霊名前解決」などがそれである。

 写真に霊が写るというのならば、通るはずのないコンパイルに心霊の作用したソースコードが通るとか、解決されるはずのないfqdnがなぜかIPアドレスになる、などということもあってよい。

擎天(けいてん)

投稿日:

 私は共産主義や社会主義なんか大嫌いだが、共産主義者や社会主義者の中には好きな人物もある。ホーチミンや、ボー・グエン・ザップ、カストロ、ゲバラなどは好きだ。これらは男の中の男である。

 共産主義者ではないが、韓国の元大統領、朴正熙もそんなに嫌いではない。彼には毅然とした、立派なところがあった。

 そんな中で、金擎天という活動家も少し好きだ。心をひかれる。きん・けいてん、キム・ギョンチョンと読む。

 金擎天は知る人ぞ知る、「金日成の本物のほう」である。今の糞デブ、金正恩のジイサンである金日成は、実は偽物なのだ。このニセ金日成がソ連人であったことはよく知られている。明治時代から大日本帝国に抵抗してきた不屈の霊将という触れ込みで政治集会に華々しく登壇した金日成であったが、それならば当時、(よわい)70から80にはなっていなければならない筈なのに、現れたのは30そこそこのニイチャンであった。我々が知っている方の金日成である。

 この偽物がかっぱらった伝説の抗日英雄、本物のほうの不屈の男の本名を金擎天というのである。金擎天になりすました金日成は、実際には戦闘なんか大してしておらず、ソ連語しか喋れないエリートぼんぼんなのであった。

魂で選ぶ

投稿日:

 変化、変容、変身、メタモルフォーゼズ、レボリューションやイノベーション、なんでもいいが、つまり、「良い激動」と、その真反対の、「ボス、あるいはアホなオッサンのキチガイみたいな気まぐれ妄言」とは、どうやって区別したらいいんだろう。

 「ボス、あるいはアホなおっさんのキチガイみたいな気まぐれ妄言」が、妄言であるかそうでないかは、その妄言に従ってやってみなくちゃわからないんだから始末が悪い。で、やってみている間に、食いっぱぐれたり死んだりした日にゃあ、まったく我と我が身とわが魂が浮かばれない。

 「データの投入量が多ければ多いほど、それは妄言ではないかもしれない」という仮定もある。しかしそれは、かつて人口に膾炙した「ストレンジラブ博士…」とか、核戦争後のアメリカを真剣に研究した「RAND」報告のような帰結になりはすまいか。つまり、「データにしたがって結論を出せば、会長一家が今日の12時ちょうどにガス自殺してくれることが経営上最も合理的である」とかいうような数学的結論が出てしまう。そして、私たちは往々にしてそういう結論が出てしまうことを本能的に知っている。

 思うに、これはもう、「魂」で弁別するしかないのである。

 魂ほど正確な、そして、「知能の低い者にも等分に分け与えられているセンサー」は、ない。

 ただ、魂も、時として頓狂だ。

 アホなオッサンのキチガイみたいな気まぐれ妄言……大西瀧次(以下略

 以下略、で、そんで、次々と突っ込む若者。

 こうなってくると、センサーであるところの「魂」が不滅で、ずっと何かを見ている、それは後世にわたって審判をする、とでもいうような、宗教じみた何かを信じない限りはどうしようもない。

水の秋の片聞

投稿日:

PHM08_0362 戦前の日本は航空大国であった。「えっ、そんなバカな?」と思う向きもあるかもしれないが、本当だ。

 わかりやすいところで、子供さんのおられる方や、あるいは自分がお好きな向きは、街の模型屋さんやホビーショップをあらたまった目線で覗いてみるといい。置かれている模型の、半分は戦前の日本の飛行機ではなかろうかと思うくらいである。戦前から戦中、日本がこんなにも多くの種類の飛行機を製造していたのかと目を見張ることだろう。まあ、現代の模型ファンの嗜好にあわせてそうなっているという点も無視はできないが、それでもその数は異様なくらい多い。

 アジアで航空機の自力製造ができた国は、当然と言えば当然だが、戦前には日本だけであった。中国は眠れる獅子というよりもずーっと寝てばかりの雄ライオンみたいなものだったし、いわんや朝鮮半島、東南アジア、南洋、インド、どこの国だって工業なんてものはないも同然だったのである。飛行機を設計し、つくり、飛ばすという、そこまで行き着くことすらできなかったアジアの貧しい状況の中で、大日本帝国だけが異様であった。

 今も、アジアは貧しい。涼しい顔をしているのは中国、韓国、日本くらいなもので、躍進中の中国にしたって、地方の農村戸籍の人たちなど、哀れをはるかに通り越した貧しさだと聞く。ましてや東南アジア、南洋方面など推して知るべしだ。

 そんなアジアの中で、明治以来の日本人の、飛行機を作れるようになるまでの努力というか頑張りというか、その急激な躍進ぶりは、もう、痛々しいくらいである。頬かむりをして田んぼを耕し、米を作って泥鰌をすくっていた人たち、あるいはショーグンの命令一下、カタナでハラキリをしていたような人たちが、黒船の号砲一発でびっくりするや、(くわ)や日本刀を放り出して、あれよあれよと近代工業技術の粋といえる航空技術をわがものにし、またたくまに飛行機を量産するようになったのだから、如何に倨傲(きょごう)の欧米白人といえども当惑せざるを得ない。彼らが、

「これは何かの間違いじゃないだろうか。というか、コピー、そう、コピーだろう!!猿に飛行機なんか作れるわけがないんだから、ジャップの飛行機は全部コピーだ!HaHaHa!」

……と思い込もうとしたのも無理はあるまい。しかもなお、その猿の数多の飛行機が太平洋を横切ってきて、一発パール・ハーバーをやらかして見せたのだから、我を忘れて激怒もしようというものだ。「猿のくせに、ナニヲ!」というわけである。仕返しの原爆はいくらなんでもやりすぎだったが……。

 さて、そんな戦前の日本の飛行機だが、昭和期も十年代に入ってからの陸軍、次いで海軍の飛行機の命名が、漢籍風・国風で、なんともいえない味わいのあるネーミングなのだ。昭和15年(1940)頃までは、ご存知の「零式艦上戦闘機」だの「97式戦闘機」だのと、味も素っ気もないナンバリング命名だったのだが、この頃以降になると制度が変わり、渋い名前を付けるようになった。

 私が覚えている限りでも、隼・鍾馗・飛燕・疾風・屠龍・呑龍・飛龍、雷電・紫電・紫電改・強風・烈風・銀河・流星・彗星・彩雲・紫雲・櫻花・梅花・橘花・秋水…等々、すばらしいネーミングの数々なのである。

 今、上にずらりと挙げた中で、最後に「秋水」というのがある。

 このロケット局地戦闘機そのもののことは、別のサイトでマニアの方々が深く語り尽くしているので、あらためてここでは触れまい。私としてはちょっと変わって、「秋水」という言葉そのものについて触れたい。

 私がいつもリツイート・シェア等している「今日の季語」というのがある。これはツイッターで林さんという方が、かれこれ1500日以上も休まず折々の俳句の季語を紹介しておられるものだ。林さんは大学の教員を定年でお辞めになった方だそうである。その今日の季語が、この「秋水」なのである。

 今日の季語のほうは上記URLでご覧いただくとして、あらためて手元の歳時記(角川のもの)を繰ると、次のように書いてある。

【以下引用】

秋の水  秋水 水の秋

 秋の水は透明で美しい。その曇りのないさまは、研ぎ澄ました刀の譬えにも使われる。「水の秋」は水の美しい秋を讃えていう。

(例句は抜粋)

秋水の(ひかげ)ることのまたはやし  倉田紘文

秋水がゆくかなしみのやうにゆく  石田郷子

【以上引用】

 「研ぎ澄ました刀の譬え」「曇りのないさま」といった季語の本意が、今は悲しく心に響かないだろうか。

 旧海軍が終戦間際に作ったロケット戦闘機の命名を「秋水」とした本意がどこにあったかは、今となっては不明ではある。

 あげて徹底抗戦を唱え、数千人という乗組員もろとも戦艦大和を特攻に差し向けて死なせるという暴挙に出た海軍といえども、やはり内心、軍人ひとりひとりの心の中に、もうこの戦は長くはない、という意識は、やはりあったものと思う。

 そうした意識が、知らず知らず、崩壊してゆく航空大国・大日本帝国への名残惜しさとなって、詩情横溢するこの季語を、その終末期にあたって出てきた特殊な戦闘機に付けさせたのではあるまいか。

 このように思ってから、まさか作者は戦闘機のことを詠んだのではあるまいけれども、例句の二つ、

秋水の(ひかげ)ることのまたはやし  倉田紘文

秋水がゆくかなしみのやうにゆく  石田郷子

……これを鑑賞すると、なんとも言えぬ懐古の情、秋の詩情があふれる気がする。

投稿日:

 来週の「さえずり季題」当番が回ってきた。

 秋は季節感が豊かで、俳句の季語もさぞかし多くあるような感じがするが、歳時記を繰ってみると、実はそれほど多くはない。むしろ少ない方である。

 だが、私は秋生まれで、夜の虫がちろちろと鳴く秋が好きだ。暑から涼へ劇的に傾いていく、草木が落ち着いた色に変わっていく、なにか気取って溜息などつく人も増える、意外に仕事も忙しい、しかし、おいしい食べ物がたくさん店に並ぶ、空の様子が変わって月がまぶしかったり空が青かったり雨が意外に降りつのったりする…。

 記紀に「秋津洲」という。米が主産品であった日本では、その収穫時期である秋は、特別の季節であったことがその字面からも腑に落ちる。

 ああ、秋であるな。まったくのところ。