罪のロシアンルーレット

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 インフルエンザで出勤禁止、居間に出ようとすると家族への感染も心配だ。いきおい寝間から一歩も出ずに引きこもるが、寝間の無聊を慰めるものと言ってはタブレットぐらいである。

 いい時代で、こんな外出もできない折でも、Kindle/Amazon、とりわけ青空文庫の成果物はよりどりみどりの読み放題である。愛用のタブレットにKindleアプリをダウンロードしておけば、家から一歩も出ずに図書館にいるようなものだ。

 先ほどまで読んでいた坂口安吾の「白痴」は、4月の東京大空襲の2夜目が主たる舞台だ。作品は大空襲を絶好の環境として使った、「生きる」ということに対する内省と自問であり、おそらく坂口安吾にしてみれば、他に適切な舞台があれば別段東京大空襲でなくてもよかったのだろう。だから、この本を読んだからといって東京大空襲について筆のすさびを始めるのは当たってはいない。

 しかしそれはそうでも、読後の思いは乱れるのであった。

 ゲルニカや東京・大阪がもし欧米白人の手によってなされなかったとしたら、この「一般市民が現住する都市への無差別爆撃」という人類史上最も憎むべきことに位置づけられなければならないはずの大犯罪に最初に手を染めるのは、一体誰であったろうかと考えてしまう。

 もし我が国であったら、と想像すると暗鬱な気持ちになるが、明治維新から終戦までの帝国にはそれだけの力はなかった。大陸に対しては幾分その程度の軍事的実力はあったが、いわゆる渡洋爆撃など、その後米国によって我が国に向けられた蛮行に比べれば、まことにもって礼儀正しいものであった。

 だが、実行は別として、単にそれを選ぼうとするだけなら誰にでもどの国家にでもできる。帝国がそれを選ぼうとしたかどうかである。「最初に選んだ者負け」だ。そして、その永久の罪の汚名は、さながらロシアンルーレットのように、欧米白人が先に引き当てた。

 運悪く引き当ててしまったのか、彼らが自らの手で握りとったのか、それはわからない。強いて言えばおそらく両方だろう。歴史の流れは必然として彼らにその籤をあてさせたし、かれらは能動的にその籤を引き当ようとして引き当てた。

 そうしてでも、彼らは生存したかった。そういうことだろう。

 文字のない太古、アフリカあたりの熱帯で生まれた人類は、弱いものを辺境へ辺境へ差別・排除しつつ、繁栄を謳歌してきた。

 遠く北の寒冷飢餓の土地へ追いやられた生白い一団は、数千年にわたって臥薪嘗胆、牙を研ぎ、500年ほど前から断固復讐を開始した。ローマ法王からスペインとポルトガルに対して発せられた大デマルカシオンがそれである。

 いくつかの紆余曲折を経ながらも、1494年にポルトガルとスペインがトリデシリャス条約を結んだ後、かれらがアジアと米大陸を総なめにしたことは歴史上の事実だ。ことに南米においてスペインのしたことなど、悪鬼をしてその顔色をさえなからしむる、酸鼻の地獄絵、鬼畜の所業である。

 しかし、いかに鬼畜スペイン、ポルトガルといえども、当時は強大なイスラム圏の処理は簡単には済まなかった。欧米白人にとっての歴史的やり残し、それがイスラム圏の処理なのだ。

 近代に至って、その後英国、あるいは米国へとバトンタッチしながら、白人がその人類全体に対する復讐の魔手をついに悲願のイスラム圏へ向けているまさにその時が、今なのだと言える。

 500年もの期間を費やして太平洋を押し渡るために向けられた復讐の前縁が、東京や大阪や広島や長崎であったのだ。彼らが犯罪人の汚名を着ながらも決してやめようとはしない、今の中東への憎悪もそこにつながっている。やっと手に入れた日本を手放さない意義もそこにあるが、邪魔になれば見殺しにするだろう。

極端から極端へ走る

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 極端から極端へ走る思想は危険だ。ナチス・ドイツや、共産主義各国の粛清の嵐、文化大革命、カンボジアのキリング・フィールド、ルワンダ、現在のイスラムの連中、またアメリカ人も、どいつもこいつも極端なのである。

 「正義」や「平等」などの、いいようでいて悪いもの、ウィルスのように人をむしばむ毒がこれらを先導する。

 欧米白人の大好きな「革命」は、言葉はかっこいいが、その中身をつぶさに観察すれば、血みどろのホラー映画やスプラッタームービーも真っ青のエログロ滅茶苦茶、狂気と妄想の現実化である。その当事者たちは皆、「これが夢か、映画かなにかであってくれたら」と願いながら死んでしまったであろうし、また現在も死につづけている。

 そこには、「統一」「シンプル」と言った、耳への感触はよいけれど人間性に逆行する憎むべき何かが含まれている。

 こんなコミュニケーションがあった。ある人が、

「もう、和暦がピンと来ない。『平成ウン年』と言われても、計算しないとパッと出ない。もう、西暦で統一したらどうか」

 ……と書いた。得たりや応とばかり、私がふざけて混ぜっ返す。

「そんな、みなさんね、西暦なんてものは宗教上の聖人の生誕日を元にした宗教上の数値ですよ。今、喫緊の人命がかかっているのだって、元はといえばそれが原因ですよ。だから、いっそ、西暦も和暦も全部やめて、UNIX時間などの技術上の数値か、天文学上の、何か、キリのいい、例えば惑星が並んだとか、そこを0年0月0時0分0秒と定義するとか、そういうものに変えたらどうですか」

 多少ウケ狙いでした発言だから、もちろん真面目にこんなことは言っていない。このような極端なことは、恐れるべきことだからだ。

 この妄想を拡張してみようではないか。

「ことは暦年だけのことではない。通貨だって、なんで為替なんか気にしなくちゃならんのだ。もう、ユーロも元も円もドルも、全部廃止して、全部ドルに統一したらどうか」

「いや、それをやるとまた戦争になってしまう。いっそ、ビットコインとかに世界で一斉移行したらシンプルだ」

「世の中に男や女がいるから、男女格差などの問題が生じるのだ。もう、生物学の研究を推し進めて、遺伝子から男や女を取り去り、単為生殖可能な『中性』にでもしたらどうか」

「イスラム教やキリスト教や仏教があるから殺し合いになる。もう、いっそのこと、全部混和して、なに教とかいうのはやめて、単純に『教』ひとつだけにしたらどうか」

「言語がよくないよ、言語が。『英語で統一』は一見合理的だが、これはまた諍いのもとになる。そこで、情報技術を高度に推し進めてだな、プログラミングに使う『中間コード』のような『中間言語』に各言語を落とし込み、伝送路上はこの中間言語を流すのだ。コミュニケーションはそれを使うとか」

「もうね、多様性がよくない。人間は多数の細胞からなっているが、これが多様性を生んでしまう諸悪の根源である。細胞を全部バラバラにして混合し、個人の人格など全部一体化させて、そう、70億総員、『黴菌』にでも進化したらどうなのだ!」

 ……ダメだな。私は人よりお金を稼いでほくそえんだり、逆に損をして悔しがったり、恋をしたり、いろいろな肉や野菜などのうまいものを食って喜んだり、色々な国へ旅行して、その違いに感心したり、英語ができなくて悩んだりしたい。円高のときにアメリカ旅行をしてニヤニヤしたいし、逆の時には面白いアメリカ製品を買って喜びたい。神社仏閣に詣でる一方でキリスト教の寺院を訪れて感嘆したい。黴菌に進化するのは究極の合理性だが、黴菌になんかなるのはいやだ。人として悩み苦しみたい。死にたくはないが、もし死ぬべき時がきたら、その死の意義など問うまい、ギャーっ、痛いよう、たすけてー!と叫びながら苦痛のうちに死ぬだろう、だが、そうしたい。非合理だがそうしたい。西暦と和暦を計算して「ちっ。ああ、七面倒臭い!」と愚痴を言いたい。

 それが、薄汚れていて、あまり綺麗ではないにもせよ、人間の織りなす壮大な曼荼羅、ペルシャ絨毯の模様のような、楽しい生活というものなのだ。

バイキン良き(かな)

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 そういえば……。

 さっき、「人類の多様性は(いさか)いの元凶だから、多様性のもとになっている多細胞性を滅却し、全人類の細胞を混和して、いっしょくたにしたらどうか。全人類、あらたな生物ステージ、『黴菌(バイキン)』に進化するのだ!」みたいな妄想を書いた。付け加えて、「俺はだが、バイキンになんかなりたくない」みたいなことも結論として書き加えておいた。

 一方、まだ私の愚娘どもが小さい頃、夕食後の家庭の団欒かなにかで、こんなことを話したことがある。

長女 「ねえねぇ、おとうたん。おとうたんは生き物に生まれ変わるとしたら、なにになりたい?ユキはねえ、猫」

妻  「あらそう、ユキちゃん猫すきだもんねえ。じゃあ、お母さん、犬になろうかしら」

次女 「ちいちゃん、子豚ちゃんになるーw」

一同 「お父さんは!?」

私  「お、お父さんか。……お、お父さんは、お父さんはな……。お父さんは黴菌(バイキン)になりたい」(ヌドォーンw)

一同 「な、ななな、なによ、バイキンって!どういうこと!?」

私  「黴菌は命が尽きて死んでも、寸分違わぬ複製を永久に増やし続け、ほぼ永遠の命があると言って良い。人間の命を延命すれば、かえって悩みや苦しみも倍増するが、黴菌には悩みや苦しみもなかろうが。なにしろ、黴菌には悩みや苦しみのもととなる脳味噌がないからな。日々幸せに、自分の任務であるところの細胞分裂を繰り返して居ればよいのだ!すばらしい!すばらしいじゃないか、黴菌の人生!」

妻  「ちょっと、お父さん、私、お父さんが黴菌とか、イヤよ!?だいたい、除菌スプレーをピューってかけられたら、死んじゃうじゃない」

私  「ふふ、ジュンコよ、一箇所でワクチンや除菌スプレーによって死のうが、同じような寸分違わぬワシの複製がだな、別のところで永遠の命を保っておるのだよ。」

長女 「だめだよー、お父さん、黴菌なんかなったら」

私  「いや、ユキ、父がもし死ぬことがあったら、父は星や風になるなどと詩人ぶって気取ろうとは思わんぞ、『お父さんは黴菌になった』と思うが良いわ、ぐははは」

妻  「あー、漫画に描くとすると、お父さんが死んだあと、みんなで話してて、『お父さん、あの世でどうしてんのかな』って思ったら、部屋のあちこちに『父→』『↑父』って添え書きしてあるってのも、まあ、面白いかもね……黴菌になって部屋のあちこちに付着してンのよ」

私  「ジュンコよ!さすがは我が妻っ!わかってくれるのはお前だけだあああ!」

妻  「……わかれへんッっちゅーとんねんっ!!!」

北海道で飲み食いしたもの

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はじめに

 急に、北海道で飲み食いしたいろいろなものを思い出した。

 私は昭和60年(1985)から平成5年(1993)まで、北海道の旭川で暮らした。

旭川の立地と気候

 旭川というところは北海道第二の都市である。札幌に次ぐ規模の街だ。ところが、このことは意外に知られておらず、帯広が北海道で二番目の都市だと思っている人も多い。

 旭川は多くの人が “北海道で飲み食いしたもの” の続きを読む

好悪に理屈などない

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 「俺を好きになれ!」と、拳骨を振り回しながら言われても、好きになどなるわけないし、「俺を好きになれ」と、なにやら鼻息ムフムフ、腰をうごめかしながら言われても、好きになどなるわけない。無論、「俺を好きになれ年収は¥$₣元」あるいは「俺は××大学卒業だから好きになれ」など、金や学歴を好きのパラメータにするなど論外というべきである。どれもこれもダメだ。

 好きとか嫌いとかいうものは、魂が相容れるかどうかであって、暴力も性欲も金も学歴もイデオロギーも、好き嫌いには無力だ。

 ピーマンが嫌いな子供に、ピーマンのビタミン含有量と繊維質の健康に及ぼす影響を説いたところで所詮食わないし、納豆が嫌いな野郎に納豆の効用や微生物の及ぼす健康と長寿への影響、統計上の有意な回帰式や相関係数を説明したところで、相手はやっぱり納豆は嫌いなままであろうことは知れきったことだ。

 数値ほど好悪の感情に無力なものもあるまい。

 自分が相手に受け入れられないとき、それは受け入れられないということであって、なぜ受け入れられないのかなど問うても無駄だ。栄養豊富なセロリが嫌いなあなたは間違っています、などと説得しようがどうしようが、奴は依然セロリが嫌いなのである。

 受け手の度量は小説やマンガのように広くはない。そこでジタバタもがくことは、自分自身の修行にはなり、ためにはなるが、相手に芯から底から受け入れられると期待することは無駄である。

 そしてまた、相手に好かれようとジタバタもがいて見せることは相手にとって迷惑である。彼にとって嬉しいことではないのだ。嫌いな奴が好かれよう好かれようとしているんだから、納豆の効能をくだくだしく説かれるようなものだ。「私はこんなにもあなたに好かれるに足る人物なんですよ」と、聞きたくもないゴタクを聞かされて辟易するのは、好き嫌いの激しい子供が人参やピーマンを無理やり食わされるようなものだ。如何にそれが身のためになろうが嫌なものは嫌というのが人情である。

 なのに、人間というものは、なんら好きになどなる理由のないどうしようもないハイカロリー食品を貪り食って酒を飲みタバコを吸い、ダメ相手と同棲したり結婚したりセックスして子供を産んだりするもので、それはもう、どうしようもないのである。

 人間がそんなものであるから、そんな人間から成る社会や国家が、暴力やら性欲やらカネやらなにやらで迷走するのは、もう、仕方がない。

 イスラムの連中は、やっぱりイスラエルもアメリカも嫌いだし、アメリカはやっぱりアジアもイスラムもなにもかもが「嫌い」なのである。

無題雑想

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 なにをどう捻じ曲げたら、「天皇を崇拝する間違った洗脳教育によって戦闘ロボットとなった狂人兵士の集団がカミカゼなどと称して自爆テロを繰り返し、か弱い一般婦女子をレイプし、略奪・虐殺を繰り返し、全アジアを荒廃させたので、これをやめさせるため正義の使命を帯びた神の軍団・アメリカ人が原爆をもって停止させた」ということになるのか、理解に苦しむ私である。

 それをまた、「自省こそ正しい人間としての態度」とでも思うのか、当の日本人がうべなっているのだから、もう、ダメだ。これみよがしに反省して見せて、自分の改善点を教室で大声で発表するなど、それは小学校くらいでしか通用しない。むしろ自らを守る弾除けに、実は反省などしていないけれども反省しているふりを周囲に見せているのだとすると複雑だが、「イチビってる」うちにフリも本当になってしまうのが痛い。

 いっそのこと、もう少し朝鮮人でも見習ったらどうか。

 朝鮮人は日本人と一緒になって嬉々として戦争をしていたはずなのだが、日本が負けた途端戦勝国の名乗りを上げて賠償を請求し始めるというのもワケがわからないのを通り越して憫笑が漏れてしまう。

 いやむしろ、李承晩その他上海臨時政権の寝技の老練さ、土壇場での老獪っぷりに、日本の政治家ももうちょっとこれくらい卑怯になれよとあこがれを覚えるくらいだ。ただ、李承晩は晩節を汚して最後を不遇に過ごした人物でもあり、私は嫌いだ。

 それでも李承晩あたりは昔から日本なんか大嫌いだったわけだから、首尾一貫していたとは言える。その他の朝鮮人一般は、「日本が勝っていればおいしい思いにもありつけたハズだのに、こいつら、よりによって負けやがった。畜生!俺らの苦労はなんだったんだ!カネ返しやがれバカヤロー!」ぐらいの気持ちだろう。賠償の方は日韓基本条約でケリが付いているが、取り足りずに難癖をいつまでもつけているのは、みんなが知っていることだ。

 また、韓国の鉄面皮で恥知らずの傲慢には、朝鮮戦争停戦によって抱え込んだままになっている、70万将兵にも及ぶ強大な軍事力も背景にあると私は思う。いざ本当に日本が怒りだしたところで、自衛隊なにするものぞ、ナニヲコイツメ来るなら来やがれ鎧袖一触いざ相まみえん、というところかも知れない。実際には日韓戦争なんてできっこないし、自国の軍事力を当て込んではいないかもしれないにしても、外交態度などに、知らず知らず有形無形に軍事力の裏付けによる自信が影響を及ぼしていないとは言えないだろう。

 体力のある奴は根拠もなく偉そうになるもので、結局オトコノコは腕っぷしだというわけだ。日本人の体力は、言ってみれば「デブの体力」みたいなもので、喧嘩は強くない。このオタクのデブは、上等の切れ味鋭いナイフなどは、物品愛好癖にまかせていろいろと持っており、なかなか鮮やかな手さばきでクルクルと回したりなどしてみせるが、しかしそんなの、結局喧嘩になど使えないのである。

 「俺はダマスカスの本物のバタフライナイフ持ってんだぜ」「うちの父ちゃんはハンティングが趣味で、家には銃があるんだぜ」などと、小金持ちのデブの息子が中学校で吹聴して回っても、本当に喧嘩の強いヤンキー連中は馬鹿にして鼻でせせら笑うだろう。だって、それで人なんか刺せば本当の人殺しで、むしろ喧嘩の現場にそんなものをちらつかせれば、ルール違反で袋だたきだ。結局こいつはカツ揚げの格好の獲物か、何かあった時に返すつもりもなく申し込む借金の相手にしかならぬ。

 こういうキャラも学校には必要で、居場所もそれなりにあるというものだから、本人がそれでいいと思っていればそれでいいのだが、この位置づけでは級長やヤンキーの首領には永久になれっこない。それで、最近どうも本人は自分の立ち位置が情けなく思えてきて満足していないのだ。

 他方……。台湾の親日ぶりを思う。これを私は喜ばしく見ない。彼らの止むを得ない仕儀なのだと見る。その悲しい大人の選択に同情を覚える。元来蒋介石は大日本帝国の敵で、南京事件のデッチ上げの首謀人物だ。だが、冷徹な政治手腕の持ち主だったからこそ、戦後吉田首相とにこやかに会談する写真も残る。

口切と茶

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 漫然と歳時記を繰っていたら、「口切」という初冬の季語に行き当たった。茶道家の言葉で、昔は旧暦十月朔、今で言う11月下旬から12月上旬に新しい茶壺の封を切り、これを碾いて茶会に用いたものだそうである。

 そんなことを読み取りつつ、そういえば「お茶を碾く」というと、遊女の人気がもうひとつ出ない状態を言うのだったな、と連想する。遊女は暇になると茶臼を回して、客に出す上がりのために抹茶を碾いたものだそうだ。

 お茶ばかり碾いている遊女のことを「お茶っぴき」、これが訛って「お茶っぴい」という。どんな遊女が「お茶っぴい」になるかというと、よく喋る「口の減らない女」は昔は嫌われたので、どうもお茶ばかり碾くハメになる。それで、大人を言い負かすような小魔っしゃくれた娘を指して「あの娘はどうもお茶っぴいで困る」などと言うようになったそうである。

 これとは別に「お茶目」という言葉がある。「お茶っぴい」と同じような字が使われた似た言葉なので、つながりがあるのかな、となんとなく適当に思い込んでいた。

 ところが、違うそうである。

 「お茶目」のほうは、文楽だとか歌舞伎の方面の、劇の言葉だそうである。おもしろおかしい、少しスケベなような出し物のことを「チャリ」というそうで、「茶利」の字をあてる。これはいわゆる「けれん」とはまた違った感じのことだそうな。

 この「茶利」の味わいがきいているのを「なかなか『茶利め』にできているなあ」「茶目っけがきいている」などと言ったそうで、そこから「あの人はお茶目だ」というふうに使われるようになったという。

 この場合の「茶」は、飲料の茶とはまったく関係のない音字だそうで、「チャチャをいれる」とか「ムチャ」という言葉に「茶」の字を使うのも、飲料とは無関係で、面白おかしい様子を日本語の擬音で抽象的に「チャ」ということが多いからだそうだ。

頬杖

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 子供のころから頬杖をつく癖が抜けない。机と椅子があると、机に肘を置いて頬を支えないとどうも落ち着かない。今でもだ。自分の頬がこけているのは、ひょっとして頬杖でへこんだせいかも、などと思う。

 長じて、外見を相当に整えなければならない仕事をするようになり、ずいぶん鍛えられた。おかげで並んでいるときなどにグニャグニャするようなことはなくなった。しかし頬杖をつく癖はついに治らずじまいで今に至る。

 いつだったか、「アスペルガー症候群の人は、姿勢がよくない傾向にある」ということを何かで読んで、ギクリとしたことがある。私はアスペルガー症候群ではないが、どうもそういう傾きがあるような気がしたことが一再ならずあるからだ。

 心配になって、ネットで見つかるいろいろな問診などをしてみたことがある。その結果、特にアスペルガー症候群決定というようなことはないようだ。私については、「傾き、傾向」という表現が最も適している。10個の設問で二つか三つは当てはまるが、残りの設問は当てはまらないばかりか、真逆でもある。

 つまり、風邪で例えると、「なんとなく風邪気味なような気がするが、別に熱はないし、咳やくしゃみもない」というような、特に病的とは言えない人、ということだ。周囲の人から見れば、ずいぶん扱いにくい迷惑なオッサン、というところだろう。

 ただ、私が精神質な家系に生まれた精神質な人物であることは、どうも否めないようだ。母方の祖母は自殺しているし、私は子供のころチック症がひどく、今も多少その傾向が残る。二十歳前に事故で死んだ兄は中学生の頃一度自殺を図ったことがあり、これはシャレで済むような話ではなかった。姉は高校生の頃抜毛症に悩まされた。この抜毛症は今でこそれっきとしたメンタル症状の一種として知られているが、当時はそんな認識はなく、姉もかなり悩んだことと思う。

 しかし、私のような人物が働いて口を糊し、家族をもうけて暮らしていくことができるのだから、社会と言うのはまったくありがたいものだ。

 こんなことを、今も椅子にグニャグニャと歪んで腰掛け、頬杖をつきながら書いている。

平成26年正月から平成26年秋ごろまでの佐藤俊夫俳句

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晴れに過ぐ淑気の門や恐ろしく

正座して食ぶ七草の粥惜しく

けふ人の日と子に教ふ日は落ちぬ

をとなしき妻いたはりて薬喰

襟巻きのてんでに縊る駅舎込む

読初に離す書面やかくも老ゆ

冬北斗光る工場のスパナかな

餅の花死に人さへも無くもがな

柝の音の色かたちして寒の月

外濠や鴨点々と瑕の如

遠火事を聞きて見てまた眠りけり

耳鳴りもしんと言ひけり榾の宿

友垣の時差幾許ぞ日脚伸ぶ

笑ひあふ母子待春の日曜日

廃村や湯婆の残る捨布団

報せまで十日残るや春隣

春立つや烹炊の湯気ぬくぬくと

カフェ・オ・レの依りたき色や冴返る

新しきゐかきみづ菜を待ち設く

いま別る影はや遠し春の雪

料峭を真つ白に燃え尽きてゐる

凧見張る世はおそろしや逃げ逃げよ

はだれ雪澄まして詠むよ濡れ帰る

卒業の子と講堂を見つめけり

あのひとの封書あらたむ春夜かな

詠めば猶嘘のやうなる二月かな

恋猫の短調に鳴く底の街

春燈やけふ為すべきを止む瞳

終電のあと音もせず春の雨

むさし野の土黒く濡る鳥雲に

終電のあとのしゞまや春の雨

また会ふと言ふ煌々と春の月

あめつちも否未だ優し芽吹き初む

受験子の髪の乱れに触れにけり

わたつみもゐませ春濤返りけり

抜く足のあと水光る春の泥

春禽の羽の緑に悼みけり

うすみどり接穂挿す手は強からず

春天に歩みも永し成すべかる

燦光と霞のあひにをりにけり

春燈や正弁丹吾亭の路地

春分の指鍵盤を翔けあがる

むごきもの生らず生れけりさくら花

つばめ疾し信号青に変りけり

卒業の子と空見あぐ青かをる

息を吸ひていよゝいだすや花衣

小女子煮噛むや陽は落つ愛を泣く

拒む如糸遊たちぬ墓遠し

破れ柄杓遍路濡らして古社の杜

佐保姫の息芳しや日光路

春雨やブルースの声枯るゝ昼

世と良きの音似たりけり春の雨

虫出し来懊悩叩き出せよとや

花筏水都の夜をうづむらん

真つ白に消ゆ鳥風を浴びるべし

弥生てふ光なむ抱く重みかな

庭の妻急くわけもなし花苺

鳴る如くかつ朧夜は抱く如く

ノセントとぞ言ひて咲く小町の忌

一盞をいつくしみけり春は闌く

健児らに穀雨降るらむ背の高さ

春時雨押してアルミの私鉄かな

つつじみなアルトの声に歌ひ初む

はらからは遠し葱坊主と並ぶ

届かざる声喜怒あらず蜆取

ざらゝゝゝ蜆あれよと煮られけり

人あまた斯くまでをるや夏隣る

灯明も揺れず孤堂の暮春かな

飛行機も電車も五月直線に

雨すでに寂を押しけり今日立夏

雨粒を大きく見せて夏木立

柿若葉銀のごと輝る出勤路

柿の花うつくしき事ゴミに似る

祭髪結うて色々捨てる宵

雨止みてそろそろ高し祭笛

映す空飲み下してやソーダ水

軒深き家はしり茶をしんと置く

夏氷老若色もとりどりに

扇風機家族皆見る久しぶり

頑なに甘藍締まる陽の厨

公園の跣足みな笑む土曜かな

何をして生きる人かよ五月尽く

梅筵はや頬いたむ迂闊かな

蜈蚣唯をりて空き家の心かな

傘無理に舗道を歩む女梅雨

花皐月ひとを送らばしをれけり

雷をしほに説かばや時季の空

猫の影真つ黒にして夏の月

ナイターの右に皇居は鬱蒼と

ネクタイもせず桜桃忌明けはじむ

冷奴かどに矜持もありにけり

いずこかのベース嬰から夏至を暮る

縁遠き三人かしまし夏料理

遠雷を聴きて酔ひけり降る降らず

金魚玉二度揺れにけり三回忌

香水の箱しらじらと結納日

酒舗暮るや子燕の切る窓あをし

外濠に梅雨闌けたり褄重し

夏の音してあく雨戸朝六時

帰省子の嵩の高さよ声あふる

揚花火デジタル機器も一斉に

去るひとのジェット機凌げ雲の峰

夜低き街繰り返す残暑かな

夕凪や昔ながらの豆腐売

責任もなき青空よ原爆忌

薄化粧して盂蘭盆の閼伽を換ふ

一僧もゐぬ山門の文月かな

詩集はや閉ぢて男の秋暑かな

靖国や秋蝉千古降るが如

コーヒーの湯気まだ淡し秋の昼

シャガールも白し秋思の部屋にゐる

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha

軍事的プレゼンスと場違い老人のオナニー

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 日本のプレゼンスを高めるのに、以前はカネを払っておけばよかった。

 誰かが「カネ払いのコモディティ化」と言った。そんな言い方が正しいのかどうかは知らないが、日本がカネを出すのは当たり前になってしまった。その実、存外に我々国民は必死で払っていたりするのだが、諸外国はそんなことには目もくれず、人を出せ血を流せなぞと要求してくるようになってしまった。実際にはそんなことを言った国はほとんどないらしいが、我々がそう受け取ってしまったのは手痛い。

 カネは払わにゃならんわ、人は死なせなくちゃならんわ、踏んだり蹴ったりである。これは、友邦だけならまだしも、敵国までが逆説的にそれを要求しているのだから、もはやワケがわからない。

 平和協力・国際活動・国際貢献等と色々に言い換えているのだが、結局、「軍事力の行使」のことなんだから、あきれてしまう。「軍事」を「安全保障」と言い替えるのと同じいかがわしさである。

 むしろ、海外の事情をよく知る人のほうが、冷厳に「日本にもっと軍事的プレゼンスを発揮してほしい」などと思っていたりするから、かえって始末が悪い。

 世の中の国々にはさまざまな発展段階があって、10年遅れたり100年遅れたり、色々だ。日本のように空前絶後の、究極の、突拍子もない無茶な憲法を持つに至った国というのは世界史においてこれまでに皆無で、その点、日本はアメリカをすら差し置いて二、三百年ほどぶっちぎりの進歩を遂げていると言える。

 が、一人だけ進歩したって、通用しないのである。童貞の若者の集団に、しょぼくれてはいるがその実なかなか甲に苔むした百戦錬磨の老人が紛れ込んで、「僕はね、もう、セックスは卒業したんだ。あんなくだらないことはしなくても、なにも困らないよ。君たちもそうしたまえ」とすすめるようなもので、そりゃまあ、日本はこの新年で建国2675年を誇る古豪の爺い国ではあるが、回りは性欲全開まっさかりのお子様国ばかりなんだから、同じというわけにはいかんだろう。しかもその爺いは実のところ老いてなお枯れきってはおらず、日々隠れて自慰行為に励んでいるなどとあっては、なにをかいわんやである。

「いや、あの憲法は自分達で考えたことではないのだから、日本人の先進性を誇るのには使えないだろう」と言う人は言うだろうが、これをしも外側から来るイベントへの受動的な追従だと言うなら、ならば、いさぎよく滅却すべくあらく、だがそれをしないのはやはり「あの憲法は自分のものだ」と我々日本人のそれぞれが内心考えているからにほかならぬ。

 老人の自慰が恥ずかしいと思うなら、だったらとっととやめればよい。だが、自慰は恥ずかしいことだろうか。誰でもやっていることだ。表立って正々堂々と「僕はオナニーをしています」などと大声で言うようなことではないのは当然だが、特段恥じ入ることでもないのである。ならばそのまま、恥ずかしく情けなく、「私は枯れ切ってしまい、セックスは卒業しました」と表向きには言っておきながらそのまま自慰行為を続けるというあさましい余生を送ってはどうか。しかも、「あの爺ぃは毎日2度くらい自慰をしているらしいぜ」と近所じゅうにうすうす知れ渡っていて、しかもその知れ渡っていることを爺さんもそのまま都合よく利用し、他の恥を隠してしかもなお詮索から身を守る弾除けにしているわけである。

 ああ、これは私が、夢想すらした「世界初の老巧国家」ではないか!やった!すばらしい!