「日本が推薦した候補で過去に登録勧告が覆された例もないが、今回は委員国の韓国が「朝鮮半島出身者を強制労働させた施設があり、世界遺産の基本精神に合わない」と強く反対しており、審議が紛糾する恐れもある。」
……って(笑)。
私は中国人・韓国人と共に手を携え、白人文化に目にもの見せてやりたいと内心考えているような変な男なので、もう韓国人を蔑視するようなことは書きたくもないのだが、向こうのほうでこれじゃあ、なあ、ハァ(ため息)。
オッサンは生きている。
「日本が推薦した候補で過去に登録勧告が覆された例もないが、今回は委員国の韓国が「朝鮮半島出身者を強制労働させた施設があり、世界遺産の基本精神に合わない」と強く反対しており、審議が紛糾する恐れもある。」
……って(笑)。
私は中国人・韓国人と共に手を携え、白人文化に目にもの見せてやりたいと内心考えているような変な男なので、もう韓国人を蔑視するようなことは書きたくもないのだが、向こうのほうでこれじゃあ、なあ、ハァ(ため息)。
「エイプリル・フールズ」、MOVIX三郷で見た。
WordPressの情報サイトにある「はじめてのWordPress」、更にその中の「計画を立ててみよう」という項目は、非常に良い。けだし名文である。
「なぜこのサイトを始めたのか?」という質問を思い出してほしい。というのも、君が共有するに値する有益でタイムリーな情報をもっているからであり、君が自分に興味のある主題について語りたがっているからであり、もしかしたら、ただ語ると面白いと思っているからだ。なぜ? みんなそうしているじゃないか!
いいね。ぐっとくる。
ネット上には、よく、「腹の立つ出来事」とか「感動した出来事」などの、「なんぼなんでもこれはウソやろ」という、コラム風で一見感動実話ふうな、よく見るとおかしいだろコレ、という変な話がある。Facebookでもよくこのテの話がシェアされている。
大抵はよく読むと極めていびつで、出所もよくわからず、信用するに足りないヨタ話の類なのだが、そこにはよく女子高生が出てくる。
こういう文章に出てくる女子高生は、たいてい、知能が低く、行儀も礼儀も知らないという意味での記号として取り扱われている。それは「こんな立派な女子高生がいた」という話であっても逆説的に同じことで、「女子高生はバカ」という伏せられた前提があってはじめて成り立つのである。
男女同権の観点から、こういう記号の使用はやめるべきだ。
高校生というなら、男子高校生のほうがよっぽど知能が低く、エロで、バカである。男子高校生と言ってよくなければ、男と女と言い換えてみよう。警察庁のサイトに犯罪人の発生率がある。数字の見方にもよるが、男は女の5倍とか10倍の犯罪を起こす。ウソだと思ったら調べてみたまえ。
そんな現状にあって、バカで無知の記号にされる女子高生の方ではたまったものではあるまい。
逆に言うと、女子高生をバカで無知の記号として使用している文章は、だいたい疑ってかかったほうが良い。よく読むとツッコミどころ満載で、たいていウソがバレる。
この文字列は、Facebookのウォールに書いたものの転載です。
「ダイエットなんつう贅沢なことで悩むような人は、いっそ相互理解のため回教徒の断食のマネでもしたらどうか」などと暴言というか、雑想を書きつけてから、追っとり刀で回教徒の断食のことをWikipediaで読んでみた。
回教の断食月とは彼ら独特の陰暦の9月のことを言い、この月に1ヶ月間行われる断食のことを「サウム」という。
まさかに、1ヶ月も断食を継続するわけではない。日の出ている間飲食をしないという戒律であって、逆に日中の戒律を守るためには、日没後は大いに飲み食いすることが推奨されるのだという。このため、断食の時にはかえって食料品の消費が上がり、肥満する者が増えるのだそうである。
肥満する者が増える、と言うのは、それはそうだろうなあ、という気がする。つまり、相撲取りが稽古のあとでチャンコを食って昼寝をし、それによって成長ホルモンの分泌を促してあの巨体を手に入れるのと似た理屈だ。喰い溜め・寝溜めは成長期には身長を伸ばすが、成長期以外は「横幅を伸ばす」のである。
そうすると、回教徒のマネをしてダイエットしようなどというのは、まったくの逆効果であるばかりか、幾分、回教徒に対して失礼というか、不謹慎な気もしてきた。
まあ、異教に対して失礼だということを言うなら、その昔のキリストの誕生に思いを致す気なんかさらにないくせに、クリスマスツリーなど飾ってプレゼント交換するくらいならまだしも、若者はクリスマスと言うと彼女とホテルに籠って性交三昧に励むことだとでも勘違いしている、なんてことのほうが、よっぽどキリスト教徒に対して失礼なのではあるが……。日本を取り巻くキリスト教圏白人国家は、よくこんなキリスト教をバカにしているとしか思えない日本人を許しておくものだと思う。
回教の見解では、「回教徒が断食によって受けられるご利益は、異教徒が仮に断食しても、ない」のだそうで、するだけ無駄とのことである。
この断食の起こりは、次のようなものであるそうな。
その昔、回教が呱々の声を上げたばかりで、マホメットも教団の隆昌のために粉骨砕身努力していた頃、武勇を尊ぶ彼らは強盗をやって暮らしていた。おいおい(笑)という感じもするが、誤解のないように言っておけば、強盗をしていたからといって、時代とその地域、またかの地の文化ということを幅広く考え合わせれば、必ずしも責められることではないのである。
で、メッカから富裕な隊商がやって来るという情報に接した彼らは、教団全勢力を挙げてこれに襲いかかったのであるが、食うや食わず、腹が減っていることもあって、また、思いもかけず敵の予備兵にしてやられ、全滅寸前のところでアラー神の加護あらたか、回教の消滅を免れたものだそうな。こうした苦難の教団揺籃期を忘れぬため、いまでも断食をして、その頃に思いを致すことになっているのだ。
他に、面白いことが書かれていた。回教圏では今も陰暦を使うが、かつてのアジア圏のように「閏月」を置かないので、どんどん暦がずれていき、1月2月といった月の名前は、季節を表してはいないそうだ。このずれは約33年間で一巡し、もとの季節に戻るそうである。断食月の9月が浮動するわけで、だから、断食は夏であったり冬であったり、季節は一定しないのだそうである。
このエントリは、Facebookのウォールに書いたものの転載です。
ダイエットで悩む人が多い。
私のようなバカの貧乏人は、何がダイエットだ、と鼻じらむ。食うや食わずで働けば、脂身なんぞあっという間に落ちてしまう。飯なんか食わずにガレー船の漕ぎ手や奴隷のように、粉骨砕身して働けばよろしい。
そこで、ふと思いついたのである。
私たちはその昔、欽明天皇の頃に「百済仏」を輸入してこのかた、宗教的な文物の輸入には無頓着であった。
近代に至って、クリスマスはもちろん、最近はハロウィーンなどが、大手商業の商戦だけではなく、俳句の季語にまでなるほどである。日本独自の詩歌に使われるとなるとこれはただ事ではない。
で、考えた。昨今、イスラム教徒とうまく行っていない。そこで、少しでも彼らに近づき、たとえ外側だけでも相互理解を進めるため、イスラム教の断食を取り入れ、禁酒し、彼らの習慣をまねてみてはどうか。
クリスマスやハロウィーンの精神はないがしろに、その外形を取り入れることには日本人は一流だ。面白いと思えば十字を切ってプレゼントをわたし、数日を分かたずして神社に賽銭を投げ初詣をする私たちにとっては、イスラム教をまねることは大して敷居は高くない。
イスラム教徒のようにひれ伏して断食したまえ。
ただ、条件がある。クリスマスやハロウィーンは「面白そう」なのである。そこで、断食のインセンティブ、面白さを考えると、「痩せる」、これだろう。また、家庭の台所をあずかる女性男性にとっては、煮炊きをしなくてよいというネガティブな楽しみもあろう。
……回教断食をやるんだ。痩せるぞ。魅力的だろう。フォトショップの出力みたいになれるはずだ。
そして、イスラム圏の人々は、「日本人と言う連中は、ここまでして俺らを理解しようとしている」と思うかもしれない。
断食だ!嫌いなものを食べ残して、無駄なゴミを量産するような不届きなことはよして、断食だ、断食。無駄なオーダーして食べ残すくらいなら、二三日断食した方がよっぽどいいぞ!
このエントリは、Facebookのウォールに書いた文章の転載です。
戦前の日本は航空大国であった。「えっ、そんなバカな?」と思う向きもあるかもしれないが、本当だ。
わかりやすいところで、子供さんのおられる方や、あるいは自分がお好きな向きは、街の模型屋さんやホビーショップをあらたまった目線で覗いてみるといい。置かれている模型の、半分は戦前の日本の飛行機ではなかろうかと思うくらいである。戦前から戦中、日本がこんなにも多くの種類の飛行機を製造していたのかと目を見張ることだろう。まあ、現代の模型ファンの嗜好にあわせてそうなっているという点も無視はできないが、それでもその数は異様なくらい多い。
アジアで航空機の自力製造ができた国は、当然と言えば当然だが、戦前には日本だけであった。中国は眠れる獅子というよりもずーっと寝てばかりの雄ライオンみたいなものだったし、いわんや朝鮮半島、東南アジア、南洋、インド、どこの国だって工業なんてものはないも同然だったのである。飛行機を設計し、つくり、飛ばすという、そこまで行き着くことすらできなかったアジアの貧しい状況の中で、大日本帝国だけが異様であった。
今も、アジアは貧しい。涼しい顔をしているのは中国、韓国、日本くらいなもので、躍進中の中国にしたって、地方の農村戸籍の人たちなど、哀れをはるかに通り越した貧しさだと聞く。ましてや東南アジア、南洋方面など推して知るべしだ。
そんなアジアの中で、明治以来の日本人の、飛行機を作れるようになるまでの努力というか頑張りというか、その急激な躍進ぶりは、もう、痛々しいくらいである。頬かむりをして田んぼを耕し、米を作って泥鰌をすくっていた人たち、あるいはショーグンの命令一下、カタナでハラキリをしていたような人たちが、黒船の号砲一発でびっくりするや、
「これは何かの間違いじゃないだろうか。というか、コピー、そう、コピーだろう!!猿に飛行機なんか作れるわけがないんだから、ジャップの飛行機は全部コピーだ!HaHaHa!」
……と思い込もうとしたのも無理はあるまい。しかもなお、その猿の数多の飛行機が太平洋を横切ってきて、一発パール・ハーバーをやらかして見せたのだから、我を忘れて激怒もしようというものだ。「猿のくせに、ナニヲ!」というわけである。仕返しの原爆はいくらなんでもやりすぎだったが……。
さて、そんな戦前の日本の飛行機だが、昭和期も十年代に入ってからの陸軍、次いで海軍の飛行機の命名が、漢籍風・国風で、なんともいえない味わいのあるネーミングなのだ。昭和15年(1940)頃までは、ご存知の「零式艦上戦闘機」だの「97式戦闘機」だのと、味も素っ気もないナンバリング命名だったのだが、この頃以降になると制度が変わり、渋い名前を付けるようになった。
私が覚えている限りでも、隼・鍾馗・飛燕・疾風・屠龍・呑龍・飛龍、雷電・紫電・紫電改・強風・烈風・銀河・流星・彗星・彩雲・紫雲・櫻花・梅花・橘花・秋水…等々、すばらしいネーミングの数々なのである。
今、上にずらりと挙げた中で、最後に「秋水」というのがある。
このロケット局地戦闘機そのもののことは、別のサイトでマニアの方々が深く語り尽くしているので、あらためてここでは触れまい。私としてはちょっと変わって、「秋水」という言葉そのものについて触れたい。
【今日の季語1755】秋の水(あきのみず):「秋水(しゅうすい)」の漢語傍題でも。「清水」に代表されるように水に関する季語は夏に多いが、秋の水は清澄さと静けさを本意とする。◆二またに細るあはれや秋の水(蕪村) #jhaiku #kigo
— HAYASHI Yoshio (@twryossy) October 17, 2014
私がいつもリツイート・シェア等している「今日の季語」というのがある。これはツイッターで林さんという方が、かれこれ1500日以上も休まず折々の俳句の季語を紹介しておられるものだ。林さんは大学の教員を定年でお辞めになった方だそうである。その今日の季語が、この「秋水」なのである。
今日の季語のほうは上記URLでご覧いただくとして、あらためて手元の歳時記(角川のもの)を繰ると、次のように書いてある。
秋の水 秋水 水の秋
秋の水は透明で美しい。その曇りのないさまは、研ぎ澄ました刀の譬えにも使われる。「水の秋」は水の美しい秋を讃えていう。
(例句は抜粋)
秋水の
昃 ることのまたはやし 倉田紘文秋水がゆくかなしみのやうにゆく 石田郷子
「研ぎ澄ました刀の譬え」「曇りのないさま」といった季語の本意が、今は悲しく心に響かないだろうか。
旧海軍が終戦間際に作ったロケット戦闘機の命名を「秋水」とした本意がどこにあったかは、今となっては不明ではある。
あげて徹底抗戦を唱え、数千人という乗組員もろとも戦艦大和を特攻に差し向けて死なせるという暴挙に出た海軍といえども、やはり内心、軍人ひとりひとりの心の中に、もうこの戦は長くはない、という意識は、やはりあったものと思う。
そうした意識が、知らず知らず、崩壊してゆく航空大国・大日本帝国への名残惜しさとなって、詩情横溢するこの季語を、その終末期にあたって出てきた特殊な戦闘機に付けさせたのではあるまいか。
このように思ってから、まさか作者は戦闘機のことを詠んだのではあるまいけれども、例句の二つ、
秋水がゆくかなしみのやうにゆく 石田郷子
……これを鑑賞すると、なんとも言えぬ懐古の情、秋の詩情があふれる気がする。
来週の「さえずり季題」当番が回ってきた。
秋は季節感が豊かで、俳句の季語もさぞかし多くあるような感じがするが、歳時記を繰ってみると、実はそれほど多くはない。むしろ少ない方である。
だが、私は秋生まれで、夜の虫がちろちろと鳴く秋が好きだ。暑から涼へ劇的に傾いていく、草木が落ち着いた色に変わっていく、なにか気取って溜息などつく人も増える、意外に仕事も忙しい、しかし、おいしい食べ物がたくさん店に並ぶ、空の様子が変わって月がまぶしかったり空が青かったり雨が意外に降りつのったりする…。
記紀に「秋津洲」という。米が主産品であった日本では、その収穫時期である秋は、特別の季節であったことがその字面からも腑に落ちる。
ああ、秋であるな。まったくのところ。
青雲の志に燃える若い人の純真に水を差したいわけではないが、だが言わずにはおれない。
戦争や軍事や軍隊や軍服や銃や戦闘機や軍艦が、美しくかっこいいものだなんて思うのは、馬鹿のすることだ。
どれもこれも、しんどく、悲しく、重く、深刻で、複雑で、汚れ、厳しく、ややこしく、嫌になるようなものばかりである。
最近、防衛問題に関心を持つ若い人が増えているのは結構なことだが、どうも、単純に考えすぎているのではないだろうか。
テレビに映る美しさ、新聞に書かれるかっこよさなんてものは、大げさに言えば全部嘘である。人間とは悲しいもので、嘘は美しくかっこいいから、金を払って買ってしまうのだ。だがそれを間違っているとは言うまい。逆に考えると、真実の残酷さ、リアルな汚さ、そんなものに金を払うのは酔狂には違いない。スカトロ狂が普通人の目にどのように映るかを考えれば、人々が嘘に金を払うのはやむを得ないことだと解る。
そんなわけで、メディアには真実は載らない。
そういったことをわきまえたうえで、「ドブネズミのように美しくなりたい」のなら、止めはしない、己の信ずるところに従うがいい。しかし、実相を知ってから「騙された」だの「やりかたが間違っている」だのとゴタクをほざくのは、馬鹿より更に愚者のすることであると知るべきである。
文房具店できれいな便箋をみつけた。それを買って、あの人に手紙を書いた。空と海のことと、恋のことを書いた。
ところが、つかつかと寄ってきた知り合いが、
「便箋で手紙っ!?紙は貴重な森林資源なんだぞ(中略)二酸化炭素(中略)地球温暖化(中略)電力(中略)原子力発電反対ーーー!」
と、横あいからマシンガンのようにまくし立て、あまつさえ便箋を取り上げてビリビリに破いて捨てた。
私がやめてよというと、はぁお前デジタル使えよツイッターとかフェイスブックとか知らねーのかよバカじゃねーのタブレットだったら森林齧らねえだろ、と言い返された。
私は、大切なあの人に、心を込めた文字で気持ちを伝えたかっただけだ。二酸化炭素も原子力も私にはわからない。タブレットやツイッターを使えば原子力がいらなくなるという理屈もわからない。私はばかなのだろう。
手紙を書いたら、そのせいで即座に有害な放射線が私たちに襲いかかってくるという理屈なら、たしかに、悪いやつをやっつけたら、すぐさま核戦争になるから悪いやつをやっつけること自体最初からダメ、ということになるのだろう。それが、賢い人の、賢い論法だ。
賢い人はなんでもかんでも一足飛びですごいなと思うが、だから賢い人は嫌いだ。計算が早いから嫌いだ、文字をいっぱい知っているから嫌いだ、私をやりこめて黙らせてしまうから大嫌いだ。
今の私は、きれいな便箋に、空と海と恋のことを記してあの人に送りたいだけだ。
(※ この文章は、妄想を散文化しただけですので、実際の出来事・人物とは何の関係もありません。)
(当時、Facebookに書いたものです。)