偶然Amazonのソースコードの中でアヒルがニャーと鳴いているのを見つけてしまったボクは pic.twitter.com/QeT6gTcheM
— カル太 (@IroKaru) April 8, 2017
Twitterでこんなことを書いている人がおり、ほう、……と思って確かめてみたら、本当で、笑った。
オッサンは生きている。
偶然Amazonのソースコードの中でアヒルがニャーと鳴いているのを見つけてしまったボクは pic.twitter.com/QeT6gTcheM
— カル太 (@IroKaru) April 8, 2017
Twitterでこんなことを書いている人がおり、ほう、……と思って確かめてみたら、本当で、笑った。
ホーキンスのトラベラー、一度買ったら具合が良く、こればかり履いている。2足目に穴が開いて駄目になったので、3足目を買う。Amazonで探したが、なぜかなく、ABCマートのネット通販でポチ。……たしか前回はAmazonで買ったような気もするのだが……。
1足につき2年半くらいは履いているから、都合5年ほどはこの靴ばかり履いていることになる。
今年の仕事納めは今日だったが、昨夜は徹夜だった。
朝には引けたが、疲れたので贅沢してやろうと思い、虎ノ門・大坂屋砂場で天婦羅蕎麦を手繰っていくことにした。
JRで新橋まで行けば虎ノ門まではすぐだ。ものの数分も歩けば着く。
注文に迷うが、お安いところで澤乃井のぬる燗、牛蒡の天せいろにする。
通しものの佃煮昆布と、しばらくして出てきた天婦羅を肴にゆっくり一本飲んで、蕎麦を手繰る。
実に旨かった。
混んでいて、出る時には店の外に沢山の人が並んでいた。
私が出ようとした時、出入り口の引き戸のすぐ前に初老の男が並んでいた。頭と同じように顔まで胡麻塩が汚いその男は、私と入れ違いに店に入るような感じで半身を入れてきたから、戸を閉めずに開けておいてやった。ところがそいつは店に入らず、やおら不機嫌そうに私が開けておいてやった引き戸をパチンと音を立てて閉め、低い声で「自分で閉めろよ」と吐き捨てた。
男が私に向かってそう言ったのは明らかだったので、腹が立った。
ナニヲ、お前が入ろうとしたから開けておいてやったんじゃないか、閉めるのが嫌ならそのまま開けときゃいいだろ白髪野郎、そうすりゃコッチだって気付いて戸ぐらい閉めてやったんだ、この
だが、もしつかみ合いにでもなったら、私とこんな
こういう所で、結果として、逆にトラブルを避けることができるというのも、体を鍛え、格闘の一つも学んでおくことの利益ではあるかもしれない。
そんな嫌なことがあったので、折角の旨い蕎麦の後味が幾分
自作「東京蕎麦名店マップ」に写真を足しておく。
午後は唐突に暇だったので、虎ノ門から日比谷公園の方へ歩いて行ってみた。
冬
意外にカメラマニアが沢山いて、バズーカ砲のような大きな望遠レンズで池や濠の鳥などを熱心に撮っている。
季節らしく、雪国ではないけれども、松には
東京駅まで歩いて、それからどうしようか、秋葉原に寄って帰ろうか、と思いつく。
秋葉原ヨドバシへ行った。
カメラ売り場へ行ってみたら、前々から欲しいと思い、買おうとしてはいたものの、その
買い。
ヨドバシポイントが1867ポイントあったから、それを使って13,033円で済んだ。今日Amazonプライムの方の値段を見てみたら15,717円で、数百円とは言え安かったので、得をした気分である。
ところで、買った時のこと。
IXY 190の注文カードを持って嬉々としてレジに行ったところ、店員さんから馴れた発音で「ヘロゥ」と言われた。店員さんがついこういう挨拶をしてしまうということは、よほど外国人の買い物客が多いものと見える。
……しかしそれにしても、そんなにワシは英語喋る人に見えたかっちゅーねん。ワシはどう見ても日本人やぞ。いや、ある意味、人民解放軍上尉・
子母澤寛の「ふところ手帖」を読みに国会図書館へ行った。
なんで今更、子母澤寛の「ふところ手帖」なのか。
実は30年くらい前から読みたい読みたいと思っていたのだが、いつか読もう、今度読もうと思っては忘れてしまう。忘れるたびに先延ばしになっているうち、30年も経ってしまったのだ。
そうこうするうち、Amazonなどが出来て、古い本でも気楽に手に入るようにはなったが、値段が高いのでどうしても買うのを躊躇する。そんなことで、読んでいなかった。それがずっと気になっていたのである。
この本を読みたかった理由は、勝新太郎の「座頭市シリーズ」が大好きだからだ。実は30年前の頃でも、座頭市は既に古い作品群であったが、私はこれをビデオレンタルで借りては見ていたのである。
で、その「座頭市」の原作が、子母澤寛の「ふところ手帖」なのである。
30年ほど前、既に旧作となっていた座頭市を勝新太郎が久しぶりにリメイクし、新作として撮ったら、撮影中に勝新太郎の息子の奥村
ところが、あれほど長大な映画シリーズになり、後年にはビートたけしも取り組み、また別作に綾瀬はるか主演の「ICHI」も制作されるなどするほどなのに、子母澤寛の原作は、この「ふところ手帖」の中に、「座頭市物語」という題で、たった6ページしかないのである。
そのことは以前から映画評論などで読んで知っていたが、実際に読んだことがなかったのだ。
それをはじめて、やっと読めたというわけである。
実に面白かった。
勝新太郎があのたった6ページの短編から、どうしてあれほど構想を膨らまたせかもよくわかった。ふところ手帖の「座頭市物語」では、居合抜きの名人、
ただ、原作では座頭市には女房がおり、その女房と出奔するのであるが、勝新太郎の座頭市シリーズには女房は出てこない。そのかわりに、行く先々で色々ロマンスめく、というふうになっている。
さておき。
子母澤寛は古い作家だから、青空文庫あたりで読めないかな、とも思った。しかし、確かめてみると亡くなったのは昭和43年(1968)だ。著作権切れまでにはまだあと2年ほどある。
もしそうでなければ、たった6ページほどの分量だから、図書館で本を見ながら全部入力して、ここに載せてしまうところだった。法律上そうはいかない。「引用」と明記して載せる手もあるが、それはやりすぎというものだろう。
国会図書館にいくと、帰りはやっぱり蕎麦を
一緒に天婦羅蕎麦を頼むと、店員さんがちゃーんと「ちょっと間をあけて……」奥へ注文を通してくれる。
海老や貝柱がたくさん入ったかき揚げで、実にうまい。これに葱と山葵を少しづつ乗せながら啜る。
少し手繰っては、
ああ、やめられない。
私はキリスト教徒ではないから、クリスマスの本義とするところには無関係である。いや、もっとはっきり言えば、キリスト教なんか嫌いだ。
だが、そうはいうものの、
それにしてもしかし、日本社会一般のクリスマスの扱い方は、イエス・キリストの生誕をコケにしているとしか思えない。
もし、こうした日本でのクリスマスの実情を、ありのままにわかりやすくヨーロッパやアメリカのキリスト教徒に説明すれば、彼らは多分、自分たちが大切にしているものを汚されたと思って、「黄禍を今こそ絶ってくれよう」なぞと、例のヴィルヘルム2世の漫画を押し立てて、核戦争の火蓋を切るかも知れない。ああ、おそろしや。
そういうことがないようにするには、「理解をすること」、それができなければ「理解をしようと努力すること」、これだろうと思う。
クリスマスには、私の家もこれまでは子供たちが小さかったこともこれあり、楽しませてやろうとて、飾りをしたり、私が腕をふるって洋菓子を拵えたり、キリスト教の話をしてやったりもしてきたのであるが、最近は子供たちも大きくなってきたから、もっぱら私自身が「キリスト教を理解する努力をする日」ということに、自分ではしている。
今日も、愛蔵の古びた聖書を出してくる。私の持っているのは文語訳のこの一冊だけだ。
イエス・キリスト生誕の節は、一説だけではなく、「マタイ
これらはとうに著作権も消滅していることだから、以下に書き写しておこうと思う。
イエス・キリストの誕生は
左 のごとし。その母マリヤ、ヨセフと許嫁 したるのみにて、未だ偕 にならざりしに、聖靈によりて孕 り、その孕りたること顯 れたり。夫ヨセフは正しき人にして、之を公然にするを好まず、私 に離縁せんと思ふ。かくて、これらの事を思ひ囘 らしをるとき、視 よ、主の使、夢に現れて言ふ『ダビデの子ヨセフよ、妻マリヤを納 るる事を恐るな。その胎 に宿る者は聖靈によるなり。かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし。己 が民をその罪より救ひ給ふ故なり』すべて此の事の起りしは、預言者によりて主の云ひ給ひし言の成就せん爲なり。 曰く、『視よ、處女 みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと稱 へられん』之を釋 けば、神われらと偕に在 すといふ意なり。ヨセフ寐 より起き、主の使の命ぜし如くして妻を納れたり。されど子の生るるまでは、相知る事なかりき。 かくてその子をイエスと名づけたり。イエスはヘロデ王の時、ユダヤのベツレヘムに生れ給ひしが、視よ、東の博士たちエルサレムに來りて言ふ、『ユダヤ人の王とて生れ給へる者は、
何處 に在すか。 我ら東にてその星を見たれば、拜せんために來 れり』ヘロデ王これを聞きて惱みまどふ、エルサレムも皆然り。王、民の祭司長・學者らを皆あつめて、キリストの何處に生るべきを問ひ質 す。かれら言ふ『ユダヤのベツレヘムなり。それは預言者によりて、「ユダの地ベツレヘムよ、汝はユダの長たちの中にて最 小 き者にあらず、汝の中より一人の君いでて、わが民イスラエルを牧 せん」と録 されたるなり』ここにヘロデ
密 に博士たちを招きて、星の現れし時を詳細にし、彼らをベツレヘムに遣さんとして言ふ『往きて幼兒 のことを細にたづね、之にあはば我に告げよ。 我も往きて拜せん』彼ら王の言をききて往きしに、視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る。かれら星を見て、歡喜に溢れつつ、家に入りて、幼兒のその母マリヤと偕に在すを見、平伏して拜し、かつ寶 の匣 をあけて、黄金・乳香・沒藥など禮物 を献げたり。かくて夢にてヘロデの許に返るなとの御告 を蒙 り、ほかの路より己が國に去りゆきぬ。その去り往きしのち、視よ、主の使、夢にてヨセフに現れていふ『起きて、幼兒とその母とを携へ、エジプトに逃れ、わが告ぐるまで
彼處 に留 れ。 ヘロデ幼兒を索 めて亡 さんとするなり』ヨセフ起きて、夜の間に幼兒とその母とを携へて、エジプトに去りゆき、ヘロデの死ぬるまで彼處に留りぬ。 これ主が預言者によりて『我エジプトより我が子を呼び出せり』と云ひ給ひし言の成就せん爲なり。ここにヘロデ、博士たちに
賺 されたりと悟りて、甚だしく憤 ほり、人を遣し、博士たちに由りて詳細 にせし時を計り、ベツレヘム及び凡 てその邊 の地方なる、二歳以下の男の兒をことごとく殺せり。ここに預言者エレミヤによりて云はれたる言は成就したり。 曰く、『聲 ラマにありて聞 ゆ、慟哭なり、いとどしき悲哀なり。ラケル己が子らを歎 き、子等のなき故に慰めらるるを厭 ふ』ヘロデ死にてのち、視よ、主の使、夢にてエジプトなるヨセフに現れて言ふ、『起きて、幼兒とその母とを携へ、イスラエルの地にゆけ。 幼兒の生命を索めし者どもは死にたり』ヨセフ起きて、幼兒とその母とを携へ、イスラエルの地に到りしに、アケラオその父ヘロデに代りてユダヤを
治 むと聞き、彼處に往くことを恐る。 また夢にて御告を蒙り、ガリラヤの地方に退 き、ナザレといふ町に到りて住みたり。 これは預言者たちに由りて、『彼はナザレ人と呼ばれん』と云はれたる言の成就せん爲なり。
その六月めに、
御使 ガブリエル、ナザレといふガリラヤの町にをる處女 のもとに、神より遣 さる。この處女はダビデの家のヨセフといふ人と許嫁 せし者にて、其の名をマリヤと云ふ。御使、處女の許 にきたりて言ふ『めでたし、惠 まるる者よ、主なんぢと偕 に在 せり』マリヤこの言によりて心いたく騷ぎ、斯 る挨拶は如何なる事ぞと思ひ廻 らしたるに、御使いふ『マリヤよ、懼 るな、汝は神の御前 に惠を得たり。視 よ、なんぢ孕 りて男子を生まん、其の名をイエスと名づくべし。彼は大ならん、至高者の子と稱 へられん。また主たる神、これに其の父ダビデの座位をあたへ給へば、ヤコブの家を永遠に治めん。その國は終ることなかるべし』マリヤ御使に言ふ『われ未だ人を知らぬに、如何にして此の事のあるべき』御使こたへて言ふ『聖靈なんぢに臨み、至高者 の能力 なんぢを被 はん。此 の故 に汝 が生むところの聖なる者は、神の子と稱へらるべし。視よ、なんぢの親族エリサベツも、年老いたれど、男子を孕めり。石女 といはれたる者なるに、今は孕りてはや六月になりぬ。それ神の言には能 はぬ所なし』マリヤ言ふ『視よ、われは主の婢女 なり。汝の言 のごとく、我に成れかし』つひに御使はなれ去りぬ。
その頃、天下の人を戸籍に
著 かすべき詔令 、カイザル・アウグストより出づ。この戸籍登録は、クレニオ、シリヤの總督たりし時に行はれし初 のものなり。さて人みな戸籍に著かんとて、各自その故郷に歸 る。ヨセフもダビデの家系また血統なれば、既に孕める許嫁の妻マリヤとともに、戸籍に著かんとて、ガリラヤの町ナザレを出 でてユダヤに上り、ダビデの町ベツレヘムといふ處 に到りぬ。此處に居るほどに、マリヤ月滿ちて、初子 をうみ、之を布に包みて馬槽 に臥 させたり。旅舍 にをる處なかりし故なり。この地に野宿して夜、群を守りをる
牧者 ありしが、主の使その傍らに立ち、主の榮光その周圍を照したれば、甚 く懼 る。御使かれらに言ふ『懼るな、視よ、この民一般に及ぶべき、大なる歡喜 の音信 を我なんぢらに告ぐ。今日ダビデの町にて汝らの爲に救主 うまれ給へり、これ主キリストなり。なんぢら布にて包まれ、馬槽に臥しをる嬰兒 を見ん、是 その徴 なり』忽 ちあまたの天の軍勢、御使に加はり、神を讃美して言ふ、『いと高き處には榮光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ人にあれ』御使等 さりて天に往きしとき、牧者たがひに語る『いざ、ベツレヘムにいたり、主の示し給ひし起れる事を見ん』乃 ち急ぎ往きて、マリヤとヨセフと、馬槽に臥したる嬰兒とに尋ねあふ。既に見て、この子につき御使の語りしことを告げたれば、聞く者はみな牧者の語りしことを怪しみたり。而 してマリヤは凡 て此等のことを心に留めて思ひ囘 せり。牧者は御使の語りしごとく凡ての事を見聞 せしによりて、神を崇めかつ讃美しつつ歸 れり。八日みちて
幼兒 に割禮 を施すべき日となりたれば、未だ胎内に宿らぬ先に御使の名づけし如く、その名をイエスと名づけたり。モーセの
律法 に定めたる潔 の日滿 ちたれば、彼ら幼兒を携へてエルサレムに上る。これは主の律法に『すべて初子に生るる男子は、主につける聖なる者と稱 へらるべし』と録 されたる如く、幼兒を主に献げ、また主の律法に『山鳩一對 あるひは家鴿 の雛二羽』と云ひたるに遵 ひて、犧牲 を供 へん爲なり。視 よ、エルサレムにシメオンといふ人あり。この人は義 かつ敬虔にして、イスラエルの慰められんことを待ち望む。聖靈その上に在 す。また聖靈に、主のキリストを見ぬうちは死を見ずと示されたれしが、此 のとき御靈 に感じて宮に入る。兩親その子イエスを携へ、この子のために律法の慣例に遵ひて行はんとて來りたれば、シメオン、イエスを取りいだき、神を讃 めて言ふ、『主よ、今こそ御言 に循 ひて、僕 を安らかに逝 かしめ給ふなれ。わが目は、はや主の救を見たり。是もろもろの民の前に備へ給ひし者、異邦人をてらす光、御民 イスラエルの榮光なり』かく幼兒に就きて語ることを、其の父母あやしみ居たれば、シメオン彼らを祝して母マリヤに言ふ『視よ、この幼兒は、イスラエルの多くの人の或 は倒れ、或は起たん爲に、また言ひ逆 ひを受くる徴 のために置かる。――劍 なんぢの心をも刺し貫 くべし――これは多くの人の心の念の顯 れん爲なり』ここにアセルの
族 パヌエルの娘に、アンナといふ預言者あり、年いたく老ゆ。處女 のとき、夫に適 きて七年ともに居り、八十四年寡婦 たり。宮を離れず、夜も晝 も斷食と祈祷とを爲して神に事 ふ。この時すすみ寄りて神に感謝し、また凡 てエルサレムの拯贖 を待ちのぞむ人に、幼兒のことを語れり。さて主の
律法 に遵 ひて、凡ての事を果したれば、ガリラヤに歸り、己が町ナザレに到れり。幼兒は
漸 に成長して健かになり、智慧 みち、かつ神の惠 その上にありき。
いつもこのように聖書を書き写すなどしていて思うのだが、言ってみればおとぎ話みたいな荒唐無稽な話、例えばマリアが処女にもかかわらず神の威力で妊娠する、といった話の合間合間に、突然、夫のヨセフが「世間体から言って具合がわるいので、離婚しようと思った」とか、原文のままに書けば「ヨセフ
そんなことを小難しく考え込んだり書いたりしつつ、しかし夜に鶏肉を食ったりワインを飲んだりケーキを食ったりする。
キリスト教嫌いだとか言っておいて支離滅裂やなアンタ、と言われそうだが、そんなこと別にどうだっていいのである。
妻と話していて、どうしてだったか、ふとトルーマン・カポーティのことが話題にのぼる。それで、「おお、そういえば……」と、カポーティの「クリスマスの思い出」という作品の事を思い出す。
私の家にある本はわりと新しいめの本で、友達に薦められて買った村上春樹の訳のものだ。「クリスマスの思い出」は、「ティファニーで朝食を」の文庫に一緒に収められているのだ。
で、読んだ当時、「ティファニーで朝食を」よりも、この「クリスマスの思い出」のほうが深く心に染み入り、気に入ったものだ。カポーティが子供の頃に一緒に暮らした、スックという年の離れたいとこの女性の思い出だ。
妻はこれを読んだことがないという。そこで、二人でテーブルに並んで座り、一緒にページを繰った。何度読んでもいい話である。村上春樹の翻訳がいいというのも、効果があるのだろう。
この作品は、アメリカでは教科書に取り上げられたり、クリスマス時期にテレビやラジオで朗読されたり、あるいは朗読会が開かれたりする定番であるそうな。そういう理由もあってか、英文だと、アメリカのサイトなどにけっこう沢山貼り付けられたりしている。
ただ、米国法では著作権保護没後70年だったはずで、カポーティが亡くなったのは昭和59年(1984)だからまだ30年余りしか経っておらず、それをこんなにばんばん貼り付けるのは、多分、無断でやってるっぽい。
このスックという女性の写真は、「capote sook」あたりでググると、彼らが並んで写ったものを簡単に見つけることができる。ネットで多くヒットするこの写真こそ、実は作品の中に取り上げられている、通りすがりの若夫婦が撮ってくれたというカポーティとスックの唯一の写真である。
国会図書館へ調べものに来た。
そのついでに、旧陸軍・二式複戦「屠龍」のパイロットであった樫出勇大尉の書いたものがないか探した。
「陸軍戦闘機隊―私は愛機と共に青春を賭して戦った!」というのが見つかった。多くのパイロットの戦記集成だ。その中に樫出大尉の文章が収載されていたのでそれを読む。
読んだのは6年ほど前のことだ。当時、Amazonのレビューに読後感を書いたが、今日はそのことを思い出し、他に樫出大尉の文章があればと思って探してみたのだ。
内容は光人社文庫とだいたい同じで、どちらかをもとに推敲して使ったものと思われる。
今日も蕎麦を手繰る。砂場蕎麦の名店「室町砂場 赤坂店」は国会図書館から歩いて行ける。
14時過ぎあたり、そろそろ空いたかなという頃合いを見計らって行ったのだが、
とりあえず菊正宗を一合。通しものは浅蜊の時雨煮だ。薄味の出汁で煮てあり、旨い。
いつもは肴に焼海苔をとるが、今日は「梅くらげ」を頼んでみた。以前、室町砂場の日本橋本店で通しものに出され、旨いなあ、と思っていたからだ。菊正宗によく合う。
いつものとおり、まだ盃に一杯ほど酒が残っている頃おいに「もり」を一枚頼む。
旨い。やめられない。
梅くらげ | 350円 |
菊正宗 | 750円 |
もり | 600円 |
合計 | 1,700円 |
しかも、「砂場蕎麦」は、虎ノ門にしても室町にしても、結構安いのである。
砂場蕎麦を出てうろつくうち、赤坂
その脇に由来書きなどの案内看板がいくつかある。読むと、そのうちの一つに、「ここがかの大力士、雷電為右衛門の墓所だ」と言う意味のものがあった。
これが墓石なのかどうかはわからないが、手形を刻んだ自然石がある。
雷電為右衛門と言うと、「小田原遺恨相撲の一席」などという題で、講談や浪曲、また河内音頭などにもなっているくらいで、伝説は数多い。
生涯326試合中254勝、預かりや引き分けを除くと黒星はわずか10敗という驚愕の戦歴を誇る。勝率にすると96%だ。因みにレジェンド・千代の富士の勝率が71%、白鳳でも89%だから、これと比べても雷電がどれほど異様な強さを誇っていたかがわかる。格闘家中の格闘家だ。
また、文武両道で頭もよく、多くの文章を書き残しており、その日記(『諸国相撲控帳』(俗に『雷電日記』)、『
今日は旧九月の十五夜で、天文学上の望ではないがすばらしく大きな月が出た。
今年はたまたま、先月と今月の日付が旧暦も新暦も同じなので、わかりやすい。旧九月十五日は新10月15日である。
「後の月」は旧九月十三夜なので、一昨夜にあたる。昔の人は仲秋の名月(旧暦八月十五夜、先月)だけ月見をして、この「後の月」を見ないことを「片月見」と言い、縁起が悪いとして嫌った。今年は、先月(旧八月、新9月)の間、次々と台風が襲来したこともあって天気が悪く、無月であった。どうしたって片月見である。
仲秋の名月の事を「
妻が出かけているので、娘二人連れて近所の焼肉屋で晩飯にする。
多少食い足りない程度で焼き肉を切り上げ、近くのラーメン屋に連れて行ってやると、娘二人大喜び。旨い旨い言って食っている。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、本当だ。まるでスイッチで切り替えたかのように涼しくなった。虫の声も大きい。
ただ、今年の秋雨の強さには閉口する。
そんな土曜の朝だ。曇り空が重い。だが、垂れ込めていても仕方がない。どうにかして元気を出そうとする。
先週土曜日にTwitterの「さえずり派」俳句つながりの@donsigeさんから今週のお題当番が回ってきていたので、朝はそれを出題した。
選んだのは「真夜中の月」で、なんとこれでも立派な見出し季語である。小さい歳時記には載っていないが、5巻本の「角川大歳時記 秋」には載っている。
先週のうちにブログの予約投稿でお題を作っておき、自吟も詠んでおいた。プラグイン「Jetpack」のパブリサイズ共有でツイートされる仕掛けだ。ところが、なぜか自吟だけ日にちのセットを間違えてしまったらしく、昨日ポストされてしまった。
なんともしまらぬことだったが、まあ、しょうがない。
それから外へ出た。
「太平記」を読もうと思い、最近刊行だからひょっとしてあるかな、と、近所にある越谷市立図書館の南部分室へ行ってみたのだが、検索用のキオスク端末で調べると、所蔵は市立本館で、南部分室には不在架だった。
バスに乗って市立本館に行くと、バス代が400円や500円はかかってしまう。それならいっそ、と、結局永田町の国会図書館まで出てきた。市ヶ谷までは通勤定期で出られるので、永田町まで行っても残り2駅ほどしか払わなくてよく、往復でも300円ちょいで済んでしまうからだ。
時間が11時前で少し遅くなっていたので、岩波の「太平記」第1巻の解説と、原書の最初の一巻をだいたい読んだくらい。
その際に知ったことがある。Amazon・Kindle本で昔の写本の太平記が読めるが、これは1巻108円する。全40巻だと4,320円で、Kindle本としては馬鹿にならない。
ところが、このKindle本の案内文を読むと、
「本電子書籍は、国立国会図書館が所蔵し、インターネット上に公開している資料で、著作権保護期間が満了したタイトルの画像データを、Kindle本として最適化し制作したものです。」
とあって、国会図書館所蔵の古文書であることがわかるのだ。
しかも、国会図書館で閲覧できるだけでなく、ネットで無料で読めることも判明したのであった。
そのURLはこれだ。
しかし、まあ、タダって言えばタダなんだけど、この「変体仮名」のオンパレードが読みこなせる人なんて、国立大学の国文科で研究してた人とか、書道家くらいなもんだろう。
とはいうものの、岩波文庫をテキストがわりにして、ゆっくり
それから韓非子の調べ残しを少し読む。「
午後遅く国会図書館から出てみたら、外は土砂降りの雨で、参ってしまう。朝家を出る時になんとか曇りのまま
仕方がない。ともかく、濡れながら歩いて駅に行く。
今日はひとつ、「砂場」の名店、「巴町 砂場」へ行って見ようかと思ったのだが、ウェブで確かめてみると、土・日・祝は休みらしい。残念。
それなら、永田町から麻布十番までは3駅ほどだから、そっちのほうへ行って見ようと思い直した。
麻布十番には他に有名な2店、「麻布永坂 更科本店」と「永坂更科 布屋太兵衛 麻布総本店」がある。今日は一つ、「麻布永坂 更科本店」のほうへ行ってみよう。
「麻布永坂 更科本店」は地下鉄「麻布十番」駅の「5a」出口から出ると、道路を挟んで正面すぐ、首都高に近い角の所にある。立派な店構えだから、すぐにそれとわかるだろう。
高級なそうな店構えだが、蕎麦の値段なんて多寡が知れているから、
同源の他の2店と同様、寛延年間(1748~51)頃創業の老舗だが、建物は昔のものではない。だがその分、清潔で新しい。客室のデザインはかっこよく、手馴れた和装の女の人たちがこまめに世話をしてくれる。
1階はテーブル席が十幾つか。奥と2階に宴席があるようで、今日は何か、どこかの会社の接待の席らしく、賑やかな
早速一杯頼む。京都の清新、「澤屋まつもと」。甘からず辛からず、真っ直ぐの純米酒である。
通しものには一昨日行った「更科堀井」と同じ、名代の更科蕎麦を軽く揚げて塩味を付けたものが出た。
他店より大きな
ただ、海苔の味は、
そうは言うものの、炭櫃の蓋を閉めておけば、焼海苔は雨にもかかわらずよく乾き、歯応えも香りもどんどん良くなっていく。旨い
一杯ほど酒の残った頃おいに、「もり」を一枚頼む。
「更科堀井」ほど白くはないが、間違いなく「更科」独特の、肌の白い、しなやかな蕎麦である。蕎麦
蕎麦をすっかり手繰り終わって、あとは蕎麦湯をゆっくり飲む。よく蕎麦粉の溶けた、
わかりやすい場所にあり、店は清潔である。肴や酒の種類も多く、堪能できる店だ。
また、最近の東京の有名店の例に漏れず、白人が「ソバ・ランチ」を試みていたりするのも、まあ、珍しく面白いと思えば、逆に楽しい。
焼き海苔 | 400円 |
澤屋まつもと純米(京都)1合 | 720円 |
もり | 880円 |
合計 | 2,000円 |
他に、通しもの、揚げ蕎麦 |
合計2000円、多少高いが、払って惜しい値段ではなく、道楽にちょうど良かった。
天気の
昨日、たまたま成り行きでだが、東京・三ノ輪にある蕎麦店「砂場総本家」へ行った。
街の蕎麦屋さんの雰囲気で、静かに蕎麦を楽しむことができ、満足した。
店内は面白おかしく雑然としていた。私は入って右奥の椅子卓席に座を占め、蕎麦味噌で剣菱を飲み、「もり」を一枚
席の表通り側の窓下にはガラスケースがあり、その中に古物が並べられ、上は本棚になっていた。蕎麦屋らしく、蕎麦に関する本が多く並んでいる。
その中に、カバーがセロテープで修繕され、背綴じがバラバラに外れかかった新書版の本が一冊あった。題に「新撰 蕎麦事典 新島繁 編」とある。付箋が打たれて、書き込みや傍線が引いてあった。
手に取って付箋のあるページをめくってみると、それは「さ」行の「す」項、「砂場蕎麦」の項目であった。大坂屋砂場の来歴由来が記されており、「糀町七丁目砂場藤吉」の記述のところに傍線が引いてあって、「当店です」と鉛筆の書き込みがある。
こういう本は一度見失うと再び出会えないので、ISBNを控えた。「4879931011」である。
ところが、帰宅してAmazonあたりにこのISBNを入力しても出てこない。昭和40年代頃の、ISBN普及期の本の中にはこういうことがよくある。
著者の新島繁と言う人は、ふた昔ほど前の蕎麦マニア筆頭の人であるらしい。往時は非常に読まれたようで、「蕎麦Web」というサイトに、著書やその業績が紹介されている。平成13年に逝去されたそうである。蕎麦の知見に関する集成・整理は、この人なくしては語れないものであるようだ。
上記サイトの情報から推測するに、どうやら、この本の新装改訂は左掲の本であるらしい。
この本、ちょっと入手したい感じだが、うーん、どうしようかねえ……。
ヴィレヴァン、「越谷レイクタウン」にもたくさん出店してて、チチカカもレイクタウンにある。いつ行ってもたくさんの客で賑わっているので、そんなにも大赤字だとは知らなんだ。
この店、オモロイから好きなんだよな。しかし、そう言われてみると、最近この店でモノ買ってないな、俺も。普通の書店においてないオモロイ本があるから、以前はよく本も買ってたんだけど、最近は「変な本」もAmazonですぐ見つかるからなんだよね。
でもまあ、多分すぐに息を吹き返すんでしょうね。
昨日、国立近代美術館工芸館のミュージアムショップでヒョイと買った図録が、思いもよらぬ絶妙な日本近代工芸鑑賞入門編になっていることがわかり、これで1200円は安い。
昨日は実物の作家の名前もよく知らず、「はぁ~」「ほぉ~」と、ただただびっくりし、かつ考え込みながら鑑賞したのだが、それもそのはずで、昨日の特別展「ナニデデキテイルノ?」は親子向けの展示とは名ばかり、この図録によると国所蔵のものを中心に、近代工芸の「超」のつく名品ばかりで構成されたモノスゲェ展示であったことを後で知り、さこそ、さこそと納得がいった次第。
いつもならAmazonのウィジェットを貼るのだが、この図録、政府刊行物だけに市場には出ておらず、ISBNはついてはいるが、どうもミュージアムショップでしか手に入らないようだ。
先々週、トイレの電気が切れてしまった。電球タイプの丸い蛍光灯だったのだ。自分の書斎のLEDを応急にトイレに付け替えたが、書斎が電気スタンドだけになってしまった。
今日まで何となく放置してしまっていたので、近所のホームセンター「ケーヨーデーツー」へ買いに行き、すぐそのそばにあるヤマダ電機を覗きに行く。
物の値段に、そろそろデフレ脱却感もある。ラミネーターの安いのがあったら買おうかな、と思っていたが、安いのでもどれも1万円近くするからやめる。
S字フックをいくつか買う。それと、コンセントをオフセットさせる奴を買う。これは、壁のコンセントに直差しするような機器をとりつけると、口が全部埋まってしまうのをうまくずらすものだ。