成人の日

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天皇陛下万歳

 祝日「成人の日」である。自宅の軒先に国旗を掲げ拝礼する。

 生憎と新型コロナウイルス感染拡大中であり、緊急事態が宣言されている。各地では例年の要領での成人式は行われていないが、しかし、成人式を迎えた若い人には将来に希望を持ち、学業に仕事に、しっかり励んでほしいと思う。

 不安かもしれない。だがしかし、なぁに、何とかなるし、どうにかなるサ。

臭い臭い、外国人が臭い

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 私は自分の金融資産管理の範囲内で多少株式の売買もする。だが、社会勉強程度のもので、沢山(たくさん)の資金を()ぎ込んでいるわけではない。副業にはならない範囲で(つつ)ましく押し引きしている。

 さて、去る1月8日の金曜日、日経平均は30年ぶりの高値、2万8千139円をつけた。バブル崩壊直後、平成2年(1990)8月16日の寄り付き2万8千97円以来の値段である。その後、日経平均は絶えて久しく2万8千円の声を聞かなかった。それが30年経ってこの高騰だ。

 日本の株式市場は、新年の大発会直後は御祝儀相場などという日本らしい相場習慣が根強く残っているため、大概(たいがい)は上げ相場となるのであるが、それにしても異様な上げっぷりではある。

 そればかりか、昨年(令和2年(2020))の春から日経平均は実に堅調に推移している。昨年の春から今日までというと、まったくのところ、新型コロナウイルスの蔓延が世界を支配した時期である。この期間、日本人のセンチメントが日本株にじゃんじゃんお金を注ぎ込みましょう、なんていうような攻めの状況にあったとはとても思えない。

 ましてこの新年は、新型コロナウイルス感染症急拡大を受けての1都3県緊急事態宣言、加えて関西・中京地域もこれに(なら)わん(かな)の構えだ。新聞やテレビが(わめ)き立てる通りの状況だとするなら、新コロ休業を()いられている()(せい)は次々に倒産・廃業などし、とてものことに株に注ぎ込む余剰の資金など()()べくもない(はず)である。

 では、どこから資金が流入しているのか。

 古い言い方だが、株式市場に、外国人の体臭が芬々(プンプン)と充満しているように思う。というのも、日本人の目から日本だけを見れば確かに「買い」の状況ではない。がしかし、ではアメリカに投資するのか、あるいは欧州に投資するのかというと、日本の10倍とか100倍もの新コロ死者を出しているような()(わい)で無責任な国々や地域に、大事な自分の金を出す気はしない。欧米に比べれば、日本を含むアジア諸国は新コロに関しては多少マシとは言えるだろうが、しかし、投資先として選ぶには、中国は勿論のこと、多くの国々の先行きは不透明・不安定で、遠慮しておきたいというのが正直なところだ。インドあたりになると、新型コロナウイルス感染症の(しょう)(けつ)っぷりは欧州・アメリカとあまり変わらず、ここも手控えるに()かず、である。南米・アフリカなど推して知るべし、論ずるまでもなかろう。

 そうなってくると、単に「残った一番マシな市場」として、日本が浮上してくるわけである。そりゃあ、外国人臭い海外の資金も流入するだろう。

 上記に根拠はなく、私の妄想に過ぎない。しかし、さしずめこんなところでそう(ハズ)れでもあるまい。

 私の妄想通り、こんな理由での資金の集中であるなら、欧米が持ち直せば外国人はさっさとお金を引き上げてしまうだろう。

 山高ければ谷また深し、とはなかなか味わいのある警句である。多少余剰資金のある向きもあるだろうが、今から買いに出動するようでは、この資本主義社会、ひいては民主主義ってものを理解しているとは、言えんでしょうなァ。

ああ、生命保険が出ない、なんてことになったら

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 新型コロナウイルス感染症の拡大は、のっぴきならないところにまで来ている。

 もうこうなってくると、運を天に(まか)せ、覚悟を決め、腹を(くく)り、もはや感染して死ぬのも悪くはない……などと、ふと脳裏をかすめるものもあったりする。直後、否、否否、死んでたまるものかと頭を打ち振ってそんな妄念を払い落とす。

 だが、私がそんな無責任な落想を(もてあそ)んでいられるのは、運よく今の働き口で長いこと俸給を貰い、その俸給の一部を割いて、万が一の場合に備え、団体保険、生命保険、個人年金、火災保険、自動車保険は勿論、公的年金や健康保険などにも十分にお金をかけてきているからだ。とりわけ生命保険については、癌保険や入院給付などの医療保険、その他諸々、これまで自分が不安に感じてきた要素に沢山(たくさん)お金を払い込んできた。

 そういうわけであるから、もし私が今日の今日、しかもたった今急死したとしても、妻と2人の娘には、なんとか口を(のり)するだけのものは残る計算である。

 これまではそれでよかった。だが、今般の新型コロナウイルス感染症拡大の状況は、そんな小市民的な安寧(あんねい)(くつがえ)しかねない。

 一般に、保険と言うものは最も困っているときに何の役にも立たないものなのだ。すなわち、「戦争や天変地異など、保険会社が負い切れない急変があった場合は、保険金は支払いいたしかねる」と言う意味の条項が、薄~い紙で「無視していいですよ」とのアピール全開で作られているらしい約款の、しかも最も後ろの方のわかりづらいところに、誰も読まないであろう6ポイント以下の活字で、「読むな」とでも言わぬばかりに刷り込まれているものなのである。

 今般、新型コロナウイルス感染症の拡大により、二度目の緊急事態宣言が出された。

 緊急事態宣言というのは、いうならば、戒厳令みたいなものである。つまり戦争と同じだ。戒厳令と緊急事態宣言の違いは、大雑把に言うと、国家の主権を軍事力が代行するか、通常の政治のままにするか、その違いにすぎない。日本は憲法上、軍事力が国家の主権を代行するということは不可能になっているから、緊急事態宣言はもはやこれ以上の状況はありえないということを意味している。

 そうすると、極端な話、私が今新型コロナウイルス感染症で死ぬとする。で、妻子が私の死亡保険金を請求すると、「今回は未曽有の天変地異ですので、保険金はお支払いできません」という無情な返答が保険会社から返ってくる恐れがあるのだ。

 こんな心配を保険会社にまともに問い合わせたって、納得のいく返答は多分、ない。保険屋の窓口の営業担当なんてものは、保険料を取れば取るだけ、保険金を払わなければ払わないだけ、優秀な社員として()められるものと相場が決まっているからだ。

 つまり、「安心してコロナ自殺する」というわけにもいかないのである。

図録買っておかなかったのが悔やまれる

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 3年前、六本木の新国立美術館へ「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」というのを見に行ったのだが、その時、うっかりしていて、図録を買わなかった。

 図録というのは、後になって欲しいなと思っても、なかなか手には入らない。図録はISBNのついた出版物になっていたりいなかったり、まちまちであるから、あとで見つけたとしても手垢のついた古本だったりして面白くない。

 まさか去年今年になって、ゴッホベルナールの文章を読むことになるとは思っていなかったのだ。

 読書しつつ、ちょっと図録の印象派の作品をめくってみようか、などと自分の書架を探しかけてから、あ、そうだった、アレ、買ってなかったんだっけ……などと気づく始末である。

 展覧会へ行ったなら、有無を言わせず、間髪を入れず、是非もなく、絶対に、速やかに、図録を買わねばならぬ。今度からは必ずそうしよう、と、改めて心に決める私なのであった。

 できれば展覧会へ行く前に図録を買い、一通り見てから(おもむろ)に実物を見るべきだ。そうしたほうがより鑑賞が深くなる。

 だがしかし、そうは言うものの、新型コロナウイルス感染拡大の状況下、人の寄り集まる人気展覧会がじゃんじゃん開かれるとも思えないが……。

時事漫考

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いや、これは既に2千年もの昔に

 ああ、これ、ねえ。別に「最近」ってことはないんじゃないかな。「『産んでやった』『育ててやった』とか、恩を売るようなことを言うなら、なんで生んだんだ!お前らが勝手にしたことだろ!?」なんてことは、親に反抗する子の常套句で、取り立てて言うほどのことではない。

 それはさておき、出生の否定は人生の否定、ひいては世界の否定でもある。私はキリスト教の回し者ではないし、キリスト教なんか嫌いだが、このことに関する解決の無視すべからざる有力な一方策は、既に2千年の昔、ナザレの大工の息子、ガラリヤの説教師、イエスによって提示されている。

 そのいわく、「世界は悲痛や苦悩でできてはいない。喜びによって満たされている」すなわちこれである。ただ、その根拠について、キリスト教は強引なる(ちから)(わざ)()()せて有無(うむ)を言わせない。つまり「なんとなれば苦悩の根源たる人類のあらゆる罪はイエスが磔刑(たっけい)によって全部負ったから、あとは神の恵みによる歓喜のみが世界に満ち(あふ)れている」()って知るべし、知らば()(こん)より(のち)神の(おん)(ちょう)と光栄に包まれて(しろ)無垢(むく)の幸福そのものとなって()るべし、という破天荒かつ思考停止の論で片付けてしまっているのだ。

 実は仏教も似たり寄ったりのことを別の経路で発見・定義・教示しており、各宗派によってそれは様々なのであるが、悲しいことに我々日本人には中途半端なキリスト教気触(かぶ)れが多いから、当て(こす)ろうと思ってこういうふうに書いてみた。

 ところが、哲学者が(ヨダレ)()らして(くら)い付くこの問題の検討については、欧州では結局キリスト教が上のような一解決を提示して、それが大衆ウケしたものだから停止してしまい、プラトンだのアリストテレスだのの時代からプッツリ断絶、概ね1500年間がところ、ただの一歩も進歩しなかった。

 悪いことに、新教(プロテスタント)(かえ)って古いキリスト教の原理を再興してしまったから、ますますややこしいことになるのであるが、それはまた別の話である。

 結局、欧州で数百世紀にも及んだ図らざる集団的宗教実験はあまり成功していない、などとと吐き捨てるのは急ぎ過ぎだろうが、では他に納得のいく解決の選択肢が欧州の人々に与えられているかと言うとどうも怪しい。まして欧州以外においてをや。「選択肢が与えられているかというと」と書いたが、「与えられる」? 誰から? ……みたいな堂々巡りにもなるだろう。

 いずれにせよ、苦悩の解決に自ら到達する前に、圧倒的大多数の人間は長かろうと短かろうと命が尽きて死ぬわけだ。

 私ですか?

 私なんぞ、誰かに責任をおっかぶせて何かから逃れようなんてことは、とうに、してませんわ。いや、正確に言うなら、そんなことができる状況に、昔ッから、ない。だから幸福も歓喜もヘッタクレも、また苦悩も悲痛もクソも、そんなモン、アナタ(微苦笑)。そもそも誰かに責任をとらせよう、さて誰に責任を取らせよう、なんて選択肢の置かれた岐路自体が、私にはハナっから、ない。

 出生なんて所詮は親の恣意(しい)でどうにでもなる。ということは、この苦悩の始まりの出生や悲痛の連続の人生の責任者は誰だ! というふうに転嫁したい、責任者糾弾をしたい、例えばそれを親に向けたい。つまり人生の否定、出生の拒否なんてものは「ボクの、アタシの苦悩は親がスタートさせたんだ」と言うしょうもない屁理屈と同じこと。自分の悩みの責任を、パパ、ママ、あるいは坊主、和尚、神父、牧師、アッラー、エホバ、仏陀、阿弥陀、大日、観世音、ガースー内閣、アベ政治、麻原彰晃に幸福の科学、(イワシ)の頭、学校、教師、干しニンニクでも投げ上げ菖蒲(しょうぶ)でも心療内科クリニックでも精神病院でも市役所でも警察署でも、ドイツでもコイツでも何でもエエけど、とにかく手っ取り早く誰かにとってもらいたい、結局、ボクの、アタシの責任じゃないんだ! ……せいぜいその程度の、小学校の高学年あたりが顔を真っ赤にして言い立てそうなことだよ。

 餓鬼みたいなこと言ってンじゃねえよ。……あ、文字通りガキか。

 まあ、あくまで私にとっては、ではありますけどね。だからこんな暴論めいた自分流の解決を、自分の妻や子供も含め、誰かに押し付ける気もないですわ。「反出生主義」なるほど、ええ、ええ、結構なことじゃないですかね、おお、ヨシヨシ、オジサンが聴いてあげるよネンネちゃん、ってなモンですわ。

 あんまりにも無残で(すさ)んだ文章の成り行きになってきたから、皆さんがだ~い好きな、イエス・キリストの言と伝わる一句を書きつけて締めておきましょう。

マタイ傳福音書第6章第25節・第26節より引用。ルビは佐藤俊夫による。

 この(ゆえ)(われ)なんぢらに告ぐ、何を(くら)ひ、何を飮まんと生命(いのち)のことを(おも)(わずら)ひ、何を()んと(からだ)のことを思ひ煩ふな。生命は(かて)にまさり、體は(ころも)(まさ)るならずや。

 空の鳥を見よ、()かず、刈らず、(くら)(おさ)めず、(しか)るに(なんじ)らの天の父は、これを(やしな)ひたまふ。汝らは(これ)よりも(はるか)(すぐ)るる者ならずや。

新年御祝儀相場でこんなに下げなら……キッシッシ

 大発会でこれなら、明日以降なかなか期待が持てるな。

「『期待』だと?」

……ええ、そうです。ほぼ全力売り中ですゴメンナサイ。

こんだけデジタルがいろいろあっても

 まあ、そりゃ、そうなんだろうねえ……。

 理由もヘッタクレも、下世話で恐縮だが、若い人には性欲ってモンも、そりゃ、あるからねえ。会わなきゃそれこそ「始まらない……」わけではある。単純(シンプル)そのものの話ですわ。天下の大新聞がンなこと書けやしないだろうけれども。

三日

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新型コロナウイルス感染症のニュースを見つつ松の内を送る

酒につけ()(かん)()(えき)よ三日はや   佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha

mRNAワクチンの解説

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 SNSでこんな記事が推奨されてきて、思わず引き込まれて読んだ。面白かった。

 私には柞刈湯葉氏の日本語訳の方が親しみがあって読み易く感じられた。

時事漫撰

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おうおう、いよいよ差し迫ってきたなァこりゃ

 去る夏以前の日本は、諸外国、特にアメリカと比べて新型コロナウイルス感染症による死者の増加率が少なかったが、そう悠長な見方もできなくなってきた。

 死者は7日移動平均の前日差で49人、率では49(本日人)/3341(累計人)=1.5%増加している。米国ではこれが1805(本日人)/347542(累計人)=0.5%だ。無論、そもそも分母が違うから率での比較には意味があるとは言えず、そこからしても依然日本は「コロナ対策の優良国」であることに違いはないが、死者が激増しつつあることは確かだ。感染者数はもはや飽和状態と思われる検査可能数にも影響を受けるからそれで一喜一憂するのは愚にもつかないが、死者は医療のキャパシティに関わらず出るわけだから、死者数の推移は最も見るべき指標と言える。それがこの状況なのであるから、憂慮すべきだ。

水回り

 ああ、ウチのポストにも、よく「水道屋のマグネット広告」入ってるわ……。

 冷蔵庫なんかに貼っとけるマグネットシートの広告はなぜか水道屋のものばっかりだ。アレ、昔だったらフロッピーディスクとかMOを壊すから、嫌われたろうねえ。今は磁石で壊れるような露出した磁気媒体はほとんど見かけなくなったから、水道屋の広告で壊れるものもなかろうけれども。

 それにしてもしかし、やっぱり、詐欺紛いの悪徳業者には違いないというわけだ。そうだろうねえ。だいたい、人の弱みに付け込む商売って、儲かるんだよな。水道や下水に不具合があると、ほんっと、困るもんな。

 ……。あ、医者もか。病気になると困るからなあ。勤務医だって、いい給料貰ってるもンな。……ケッ。とは言うものの、まあ、今は時疫のために苦労していることは分かる。それをも()き下ろすつもりはない。

例のアイツも流れ弾にでも

 レバノンと言うとどうしても逃亡中のあ奴、カルロス・ゴーンのことが思い浮かぶ。わざわざこんな不安な国なんぞへ脱出するなんて、いろいろ満ち足りている分、()(ツム)の方にどこか足りてない部位でもあるのだろう。せいぜい祝砲の流れ弾にでも当たるがよい。大当たりの幸運を共に祝ってやるぜ、ふははは。

 うーむ、あれくらいの大金持ちとなると、呪っても良心の(とが)めを何も感じないな。自分と無関係の人物だしな。

いい加減「欧米白人主義」のことを民主主義と呼ぶのをやめろ

 民主主義と言う言葉の定義がまるっきり()(タラ)()だから(うべな)えない。

 だから試しに、記事の表題をこう読み替えてごらんなさい。「欧米白人主義の危機とはなにか?」って。ね?スッキリするでしょ、確かにのっぴきならない焦燥と危機を連中が感じているんだ、ってことが腑に落ちてさ。

 欧米白人キリスト教徒どもは、正直に「俺たちは政府から命令されてマスクなんか着けさせられているのが我慢ならないんだ、これは民主主義の危機だ!」とか、「黒ん坊やイスラム教、ジャップなんぞがよってたかって乗っ取って幅を利かせてる Twitter だの Facebook だの Instagram だのの投稿に右往左往させられるのは金輪際(こんりんざい)(イヤ)なんだよ俺らは。これは『民主主義』の危機だろ!?」って、しょうもない気分の問題をさも人類文明の終焉みたいに言い立てればいいわけだよ、馬鹿ッたらしい。

 日本?日本は違うよ、国から命令されてマスク着けてるわけじゃないもの。SNSだって、お前ら欧米白人が()ッち上げたものをこれ幸いと使ってるだけだもの。元々好きで着けてただけだし、あったから使ってるだけだ。何が悪いの。自由だろ? 悪いのはキサマらだ。

 ただ、上掲の文中には、

今回取り上げたほとんどの資料が民主主義の定義について言及していなかった。正確に言うと、EUの民主主義行動計画のみ具体的な記述があるだけだ。これは非常に奇妙で論理的に破綻している。なぜなら問題の認識と対策には「あるべき状態」あるいは「目標」が不可欠のはずで、それがなければ具体的になにがどう問題なのかわからないし、当然対策も立てられない。

……と冷静に述べられてもいて、それよ、定義によっては共産主義や社会主義だって理想的民主主義の一形態でしょうが、まずそこを定義しなくちゃ、とまあ、私なぞは思うのである。私ですか?私は私個人の利益がラクして最大になれば、ナニ主義でもカニ主義でも構いません、ええ、ええ。

訃報
これは知らなんだ

 亡くなったのは既に夏の頃、8月だという。

 「おたく」という言葉の出はじめに随分活躍した人物だった。祈冥福(めいふくをいのる)

年始慎々

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初詣

 例年のように皇居の一般参賀や明治神宮、名だたる大仏閣などへ出かけるのは新型コロナウイルスを貰いに行くようなものだから、()めるに不如(しかず)である。と言っても、もとより皇居の一般参賀は中止されている。

 元旦は住宅街の(あわい)にしんと鎮座()します近所の小さな稲荷宮を拝みに行った。「登戸稲荷神社」という小さな()(やしろ)で、400年ほど前に創建された鎮守である。

賀状

 最近は年賀状も積極的には出さなくなった。ただ、わざわざ年始から私(ごと)き者に()てて下さる懇篤(こんとく)な方には、返信賀状を出すようにしている。

 しかし、数年前から、年配の方から来る賀状には、チラホラ、「年始の御挨拶はこれで最後にさせていただきます」等の御挨拶が交じり、そうした方々からはプッツリ、もう来ない。大抵は定年後の仕事も更にリタイアし、年金暮らしになったと(おぼ)しい方々だ。

 年賀状については、「虚礼廃止」だとか「日本郵政の損得()く」だとか、はたまた「そもそも賀状のやり取りなんて戦後盛んになった新しい習慣で、昔の人はごく一部の能筆の人々しか手紙なんか出してなかった」などという批判もある。

 一方、年賀状はIT技術などで言う死活監視、つまり Heart beat watch みたいなものだし、人と人とが手を携え、つながるためにも大いに出すべきだ、という意見もある。

 そんなことにあれこれ考えを巡らせつつ、来簡賀状に返信を書く。慣れぬ下手糞な毛筆で、手本を一生懸命写して版下を作り、刷る。

呑んだくれる

 酒ばかり呑んで過ごす。私は()(せち)料理が大好きで、三が日と言うものこればかり食っていても全然食い飽きない。喰積(くいづみ)だけを肴に、元日にはほとんど一升空けてしまう。

 酒はこのところの気に入り、山梨の銘酒「七賢」純米吟醸である。近所の行きつけの蕎麦屋「SOBA 満月」で知った酒で、涼しい味と香りがする。甘からず辛からず、まことに旨い。

 肴にする「御重のもの」の中では、大海老とか出汁巻などのいわゆる「高いもの」よりも、安いもの、ごまめ、黒豆、数の子――数の子のどこが安いんだ、という話はもちろんあるが、ここでいう「安い」は、「かつて安価だった食品」ということで、その昔は数の子や鰊は肥料にまでしたほどであったのだ――といったものの方が酒に合い、食べ飽きず、旨い。ことにごまめや数の子は砂糖っ気がないのが良い。黒豆は甘いが、これもあまり砂糖の入っていないものの方が旨いと思う。しかし、砂糖をきかせないと日持ちが悪くなるので、「そこのところは加減が難しい」とは妻の弁である。

 酔っ払って啜る雑煮椀の、なんと旨いこと。針柚子と花鰹をたっぷりあしらって食べる。子供の頃は御雑煮というと4杯も5杯もお代わりをして食べたものだが、さすがに50台も後半に差し掛かろうとしてくると、もう、いけない。餅の三つ四つも食べると満腹である。

「いつもなら」と言っても詮なきこと

 例年だと正月二日には、近所に住む姑の家に、私の家族と義兄一家とで集まり、御馳走を食べ、それからカラオケに行ったりするのだが、新型コロナウイルスの感染拡大下、今年はさすがに総勢10人で狭いカラオケボックスに閉じこもるわけにもいかず、それぞれしんとして家に閉じこもっている。

 まあ、だから不安だ楽しくない恐ろしい、などというわけでもない。家にいるのも悪くない。もともと正月と言うのはそういうものではなかったか。

蠅叩きとCOVID-19

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 あ~あ~、また変な記事が出てる。

 私などが子供の頃、大阪の()(げん)では「金持ちと蠅叩きはたまればたまるほど(きたな)い」などと言ったもので、そんな(ぞく)(げん)に込められているであろう気持を推し量ればそうと判る通り、金持ちなんて言うのは(べっ)(しょう)に過ぎなかったものだ。

 そんな感覚を持ち合わせる私のような人種に言わせれば、「富裕層」なんて言い方・書き方も同断である。

 ……(キタナ)ぁ~ッ……

 変なワクチンで毒が脳に回って頭がおかしくなるか、発作でも起こして死ぬかするんじゃねェか?それはそれで、誠に結構なことである。