わがことをまたぼんやりと木の芽和へ

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 職場の建物の周りの植栽に、早春から今時分にかけて黄色い小さな花を咲かせる木本性のものがあり、なんという花か判らずにうちすぎていた。

 昨日、意を決して写真を撮り、図鑑などを繰ってみた。

 その結果、どうやら、「支那連翹(シナレンギョウ)」という花らしいとわかった。

 リアル、ネットを問わず、私を知る人は、私が日頃俳句をよく詠むものだから、私のことを季節や花に詳しい人だと思っているふしがある。だが、実際の私は逆で、植物や鳥に(くら)い。俳句も、天象や人事(行事や生活のこと)、時候、地理などはよく詠むが、植物は苦手で、あまり詠めない。せいぜい、春に桜や梅を詠むくらいだ。だから、この「支那連翹」も、私にはわかるはずもないのであった。

 私が育ったのは、大都会とまでは言えないものの、ある程度の街なかだ。つまり、そんなには自然に親しむ暮らしでもなかったのである。

 先日も、目白と鶯を間違え、「街路樹の梢に鶯を見た」などと言って憫笑をかった。鶯のような臆病な鳥が街路樹を飛び回るはずはない。少し自然の暮らしが身についている人なら知っているようなこんなことが、私にはわからなかったのである。

 昨日、帰宅すると、山椒のいい香りがする。キッチンのカウンターにゴマメを煎り付けた御菜の鉢があって、そこからの香りだ。これはどうしたの、と妻に聞くと、姑から「木の芽」が届いたのだと言う。見ると青い木の芽と一緒にからりと煎り付けてある。一つつまんで見ると、口じゅうに春の香りが広がった。

 姑は私の家から歩いて30分ほど離れたところに住んでいる。姑の住まいの庭に、去年なぜか山椒が小さな芽を出した。住宅密集地の小さな庭に、どうして山椒が生えたのかはまったく不明だ。ともかく、その山椒が一年たって少し育ったらしく、芽を採って分けてくれたのだ。

 この採りたての「木の芽」を煎り付けて御菜にしたのだから、美味くないはずがない。

 年寄りと言うのは、そういうところが素晴らしい。私なら、それが山椒とはわからず、雑草と一緒に引き抜いてしまったことだろう。姑は小さな芽であるにもかかわらず、香りと葉の形で「あら、こんなところに山椒が」と、むやみに引き抜くことなく、その芽を取り分けたのである。

 私は日常、日本人ぶったり、愛国者ぶっている。そのくせ、茶道も華道も知らないし、和服も着たことがない。と言って、今更あわててそれらの知識を渉猟したところで付けやいばに過ぎないから、すぐに馬脚が出てしまうだろう。

 日頃「ぶって…」いても、実は私は日本の四季と自然が身についていない、似非日本人なのかも知れない。

 だが、私のような人は、実は、多いのではなかろうか。

 私の姑のような、街中に暮らしてはいても、小さな山椒の芽に目をとめることのできる、四季と自然が気張らずに身についている、そういう人からよくものを学ばねばならない。年寄りは、失礼だがうかうかすると寿命が来てしまう。そうなる前に、なんとかその精神を引き継ぐことはできないものか。

 そうしていくうちに、身の回りの草花も、たとえば「支那連翹」と、覚えることができるのではあるまいか。

ピアノとハゲとデブとダイエットと目標とEVMと血

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 ピアノの腕前の上達は、今の歳の、しかも40過ぎてからはじめた私のような者にとっては、まことに遅々として(はかど)らぬものだ。

 ものごと、何につけても目標を持ってやるように子供たちを指導していきましょう、とは、昨日長女の高校の入学式で、校長先生も担任の先生も言われていたことだ。これはこれで立派なことであり、若者をそのように指導することは、有益なことである。

 だが、私は、ことピアノに関する限り、目標を持たないことにしてきた。「今の『練習』を楽しむ」ようにしている。

 そうしないと、目標と自分の腕前の懸隔に絶望し、続けることができなくなる。幼稚園の頃からほんの数年レッスンしただけの、自分の次女のような小娘にすらかなわないということが情けなくなり、稽古がバカバカしくなってしまうのだ。

 つまり、突然山の麓に立たされて、山頂を見上げてウンザリする感じ、だろうか。

 地面と、ごく周囲の景色だけを見ながら漫歩していて、ふっ、と顔を上げたら、相当高いところまで登ってしまっていた。……そんな行路だって、あっていい。

 だから、私のピアノの稽古は、まことに進歩が遅く、薄紙を一枚一枚、貼り重ねていくような緩慢さである。

 このようなやり方で物事に処していくには、ただひとつ、「時間」を味方にすることだ、と今のところ思っている。

 これは、ダイエットなどにも言えると思う。逆に、肥満の状態も、「時間」が敵だったはずだ。

 どういうことか。

 ダイエットに悩む人は、何も最初から、醜い姿だったわけでも、醜い姿になりたかったわけでも、ないはずだ。

 一日に、ほんのごくわずか、薄紙を貼り重ねるように肥満していったのである。また、一日に、ほんのごくわずか、薄紙を貼り重ねるように「余分なひとくち……」を食っていったのである。

 これは、「ハゲ隠しに珍妙な髪形をしている人」も同じだ。亡くなった軍事評論家のエバケンこと、江畑謙介氏の極端な例を見てみたい。

 何も、エバケンさんだって、若い頃、最初っからこんな珍妙な髪型を目標にしていたわけでは決してあるまい。今日少しハゲたぶんを、ごくわずか櫛で隠しただけであったはずだ。その次の日もそのあくる日も、少し櫛を使っただけだ。そして、1ヶ月、1年、10年。こういう時間の経過が、あのエバケンスタイルを作り上げていったのである。

 思うに、ダイエットも「無闇ヤタラな目標」など、持たないようにしては如何か。今日、ちょっぴり「食わない」。その効果なんか、はっきり言って1日やそこらでは出るはずなんかない。

 私はこの30年ほど、毎日、少しづつ肉体の練成に励んでいる。しかし、スポーツ選手のように強靭ではないし、ボディービルダーのようなマッチョでもない。今日腕立て伏せをしたからといって、明日マッチョになるわけではないのだ。才能や体質もある。

 そこに見出したいのは、エバケンさんの「逆」だ。

 ピアノの稽古にしても、私は、エバケンさんの「逆」をつかみたいのだ。

 社会で仕事をしていると、日々、EVMだの指標だの株価だのケイツネだの本日FP実績だの、そんなものに溺れそうに(まみ)れて生きることに慣れてしまい、また、上下左右の周囲からも必ずどれだけできたかを問われる。だから社会人は、ついついそんな論理を家庭生活などにも持ち込みがちだ。しかし、そんなことは仕事だけにしておくのがいいと思う。

 去年、職場の健康管理指導がずいぶんとうるさいものだから、

「じゃあ、普段実績だの効果だのなんだのガタガタ言ってるんだから、毎日、減量のEVMでもやったらどうですか(笑)」

……みたいなちょっとした皮肉もこめてプログラムを書いた。それは「ダイエットのEVM」をやる「鬼痩~Devil Diet~」という、フザケたアプリだ。

 これを盆休暇にPHPで書き、職場に持ち込んでやった。中身は、国立健康・栄養研究所の「EX~METs」の指標を使い、日々のダイエットをEVMにしてくれるというものだ。エクセルでもできるが、ふざけてPHPで書いたのだ。毎日、「今日は駆け足なら何キロ、歩くんなら何時間、水泳なら何キロやれ。そうすりゃ何グラム痩せる。目標の何月何日までに何キロの体重に痩せたけりゃ、今日絶対に何キロ走れ」という計画表が出てくる理屈である。それがEVMグラフとなって出る。PVのガイドには、リニアと対数、それから自然な計画ができるように、レイリー分布を積分した、S字計画などを選べるようにした。

 自分でこれを検証した。

 国立健康・栄養研究所の理論はまことによくできていて、その表の通りに痩せる。もっとも、私はあまり「切りしろ」のない体をしているので、自分でこれを試すのは非常に苦痛であった。

 だが、EVMで痩せることはできる。

 公表したところ、私の皮肉もあって、「こ、これは本当に、『鬼』じゃあ!!」という評判になった。

 実際のところ、人間は金属とか棒、石などではないのだ。「今日何カロリー摂って、何キロ走り、何グラム痩せろ」なんてことを、レイリー分布に沿って言われたって、そんなことができる位なら、肥満なんかしないのだ。私の作ったアプリのEVMのとおりに運動して痩せようとすると、人によっては、「3ヶ月後まで、毎日休まず、一日4時間全力で走れ」などというムチャクチャな命令が出力されるのである。普段数字にうるさい人ほど、無茶な計画を浴びせられるような塩梅(あんばい)式になった。

 本当に、人間は木とか石ではない。切れば赤い血の流れる、矛盾と怠惰と勤勉と精神とウンコを一緒くたに内包した血袋なのだ。

 だから、そんなガンガンガンガン、目標だ実績だと言われたって、そこまでできるもんか。

 毎日「なんのために」という目標もなくピアノの稽古をしたって、いいじゃないですか、楽しいんだから。

 だから、毎日「誰のために」という目標もなく、ダイエットしたっていいと思う、痩身が美しいと思うのなら。

 目標なんかない、勉強が好きだから勉強している、という勉強も、場合によってはいいんじゃないですかね。

 ENIACを建造したエッカートとモークリが、何も、今の高度情報化社会を目標にして毎日図面を引いたわけじゃなかったとも思いますしね。

 ただ、そうはいうものの、間違いのないように、ひとつ申し添えたい。「目標なんかいらん」とまで、私は言ってない。それは、目的と場合によるのだ、ということが言いたいのだ。

「CTB-701」、うーむ、ワカラン(笑)

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 このブログのアクセスは、最近、愛用の安物タブレット「CTB-701」のフルマーケット化に関して書いたこの記事に関するものばかりになっている。

 多くの方が「画面が反転して困っている」とのコメントを書かれている。

 私のタブレットではそんな現象は起きないので、確認もできないし、なによりメーカーのサポートデスクとは違うから、情報もなく、何の力にもなれないのはまことに残念だ。「純正ファームに書き戻すか、メーカーに相談してください」としか、言いようがない。

 しかし、何か力にでもなれないものか、とも思うので、自分のタブレットを「フルマーケット化していない」オリジナルファームに切り戻しをした。

 …ところが。

 純正ファームに切り戻したのに、私のタブレットはフルマーケットのままである。しかも、調子までよくなってしまった。

 一体どないなっとんねん(笑)。

「キッチンおり江」について

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 旧国道4号線、越谷市の日光街道沿いにその店「キッチンおり江」はある。いや、あった、と言うべきか。

 知る人ぞ知る名店であり、テレビで大きく取り上げられたこともある洋食店だ。

 去年頃から店を開けていないことが多くなり、このところはまったく開いていず、電気もついていないことがほとんどだった。店主はもうかなり高齢なので、ひょっとして何か病気にでも?と思っていたら、数ヶ月前の朝、店の前を掃除する店主を見かけた。近所の人が「あら、もうお体はいいんですか?」というようなことを話しかけていたので、なにか体調を崩しておられたのだろう。

 だがしかし、それからも店が開くことはなかった。

 先週、店が建築足場でおおわれた。と見る間に、一昨日、重機が入って、店が壊され始め、あっと言う間に瓦礫の山となった。

 昨日の夜、仕事からの帰り、すっかり暗くなった店の前に、見覚えのあるおかみさんが佇んで、感慨深げに瓦礫と跡地を眺めておられるのを見かけ、思わず声をおかけした。

「あのう、もう、店はお閉めになるんですか?」

おかみさんはニコニコして、

「ええ、もう閉めることにしました。…ここで、53年、やりました。もう83歳になりましたのでねえ」

 そうですか、それはお疲れ様でした、どうかごゆっくりなさってください、と、挨拶して別れた。

 実は、私はこの店に入ったことはない。店主の顔はテレビで見て知っていただけだし、おかみさんの顔は、毎日の通勤経路にこの店があるので、店の外から見て知っていただけだ。

 このお店が、元気でやっておられる間に、一度、味わってみたかったな、と、とても惜しく思う。

猫のハートの纏聞(てんぶん)

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 朝、仕事に出る前、玄関のドアを開けると、半野良猫のハートがスルリとドアの隙間から家に入ってきて、ニャーオ、と餌をねだる。この数年、毎朝のことだ。冷えた体と首回りをさすってやると、尻尾をゆらゆら揺らせながら、体をすりつけてきてニコニコ笑う。猫は笑うのだ。妻がフレーク状の餌を飼ってやると、おとなしく食べる。

 ハートは、5年位前だったか、どこからか私の住む街の一画にやって来た。やってきたばかりの頃、水色のハートの飾りのついた首輪をしていたので、皆からハートと呼ばれるようになった。茶色の縞の、なかなか美しい雌猫だ。

 当時まだ小さかった私の娘たちや、近所の子供たちの話を総合すると、ハートは三、四百メートルほど離れた、築四十年にもなろうかと言う、いわゆる「六坪借家」の群がるあたりで飼われていたらしい。小さい子供は動物と口が利ける。だから、子供たちがハートから聞き出したというその話は、多分本当だろう。

 ハートが私の家の近所に来てしばらくした頃、その「六坪借家群」のあたりは取り壊されて更地になり、土地が売りに出されたりしていたから、概ね子供たちの話と符合する。ここからは完全に想像だが、ハートは多分、年寄りに飼われていたのだと思う。その年寄りは、ほとんどが空き家と化していた「六坪借家群」の、おそらくは最後の住人だったのではあるまいか。

 更地になった「六坪借家群」は私の通勤経路にある。ハートは朝五時三十分頃に家を出ていた私を見つけると、数百メートル離れたその「六坪借家群」のあたりまで、足もとをまとわりつきながらしょっちゅう付いてきていたので、私の想像は多分当たっているだろう。その年寄りは、病気にでもなってどこかへ移ったか、ことによると変事があったのかもしれない。ハートの、どうもおっとりとした、争いの苦手そうな、愛嬌のある物腰も、その想像を裏付けているように思う。

 私の住む街には、少子高齢化とはいったいどこの国の出来事かと思うくらい、高校生から幼稚園児まで、沢山の子供たちが暮らしている。ハートには、「子供たちをお守りしてやっている」という自意識があるようだった。ハートが悠揚せまらざる物腰で子供たちと遊ぶようになると、半分野良猫とは言え、大人たちも無残な扱いはできなくなった。時折、残飯などやったり、たまにはキャットフードの缶詰などを奢ってやるようにもなる。

 ハートはそのようにして私の家の近所に住み着き、今日はお隣、その次は向かい、ある日は私の家、というようにあちこちの軒先で眠り、餌を貰い歩くようになった。

 そんなある年の春頃、ハートはプイと姿を消してしまった。

 しばらく経ったその年の夏前のある日、ハートは妙にほっそりした姿で、何かを(くわ)えて、蹌踉(そうろう)と私の家の前に現れた。それを見つけた家内は、これがうわさに聞く、殺した鼠を御礼に持って来るというアレか、すわ!と身構えた。

 しかし、ハートが口に咥えてきたのは、鼠ほどの大きさもない、ふにゃふにゃの子猫だった。近所の子供たちと家内が、唖然と、しかしともかく、ハートが咥えてきた子猫にかまっているうち、ハートはまたスイと姿を消し、また、別の子猫を咥えてきた。

 そうやって、ハートは半日ほどもかけて、どこか遠くから、自分の子猫を一匹づつ、私の家の前に運んできた。子猫は全部で六匹いた。ハートは、一匹につき三、四十分はかけて子猫を運んだ。

 母猫は雄猫から子猫を守るため、隠れたところで子猫を産むという。時間のかけ方から推し量ると、ハートはずいぶん遠くで子猫を産んだものらしかった。

 ハートは、自分と子猫の食い扶持をどうすればよいか、本能で探り当てたのだと思う。無論、子供たちがかわるがわるハート親子を可愛がったのはいうまでもない。まあ、猫の餌ぐらい、どうにでもなる。

 世の中に野良猫を迷惑がる向きも多い。庭に糞をされるのも迷惑だし、野良猫に餌付けをするなどもってのほかだという。実は私もそうした気持ちの持ち主の一人だった。だが、猫の二、三匹が生きていかれる程度の冗長性が町内になくては、人間様も万物の霊長たるの鷹揚悠然に()くるの(そし)りを(まぬが)れまい。

 アラビアの詩人、オマル・ハイヤームの詠むところに、

 この壷もまた人恋ひし嘆きの姿
 黒髪に身をとらわれの我の如
 見よ壷に手もありこれぞいつの日か
 佳き人の肩にかかりし腕ならめ

というのがある。人は死んで土になる。何千年もたってその土は焼き物になって、壷に拵えられているかもしれない、壷と化した美女を無残に扱うな、と言うのだ。してみれば、庭を荒らす野良猫と言えども、前世は人であったかもしれない。命のあるものだ、大切にするにしくはない。

 子猫は子供たちにずいぶんかわいがられ、大切にされた。ハートは子猫と人間の子供たちを等分に眺めて、眼を細めていた。暑い夜などは袋小路になった私の家のある一画の舗装路にねそべって、子猫に乳を与えていた。

 ある日、ハートたちは近所の愛猫家の目にとまってしまった。

 その愛猫家の中年夫人は、「このままに推移すれば、結局は保健衛生上の決まりもこれあり、可哀想なことになってしまう。そうなる前になんとかしてあげることがこの道の慈悲と言うもの」というのだった。まず、もっともなことである。少し無残なようには感じられるかもしれないが、ハートには不妊手術を施し、予防接種もしてやり、子猫たちにはしかるべく飼い主を探してやるのが結局は一番猫の幸せだ云々。

 このように近所の愛猫家に見つけられてしまってはハートもひとたまりもない。

 それで、気楽な半野良猫のハートはついにとっつかまり、私の家を含む向こう三軒両隣、すなわちハートを可愛がっていた子供たちのいる親たちみんなが金を出し合い、近所の動物病院へ連れて行かれて不妊手術をされてしまったのであった。

 痛い目にあったハートが、しばらく近所の人間どもに寄り付かなくなっていたのは当然のことである。

 ハートの子猫たちは、その愛猫家と近所の子供たちが、新越谷駅前で声を張り上げて貰い手を捜し、6匹全部、無事に猫好きの人たちに貰われていった。

 黒白縞の子猫を貰ってくれたある年配夫婦の家へは、次女が時々、子猫の様子を見に行っていた。年配夫婦はいつも次女を歓迎してくださっていたようだが、最近はちょっと次女も足が遠のいているようだ。

 ハートは相変わらず私の家の前でにゃあと鳴いては、とことこと走り寄ってくる。幸せそうに乳を与えていた自分の子猫の顔を、覚えているのだかどうだか。子猫六匹が周りにいた頃のハートは、本当に貫禄のある、母猫らしい笑顔をしていた。そう、笑顔だ。三日月のように目を細めた笑顔をしていた。

東海道歩き旅行

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 定年で辞めたら、東海道を江戸から大坂まで、歩いて旅してみたい、と急に思いついた。別にハングリーを鍛えようなんてことではない。途中酒の一杯も飲み、ダラダラ歩き旅をするのだ。

 19歳の頃、伊豆半島を歩いて旅したことがある。休暇はそんなになかったから、4日で2百数十キロ歩いた。一日50キロ強というところだった。さすがにその頃の体力をもってしても、多少身にこたえた記憶がある。

 今の脚力だと、そんなにがつがつは歩けまい。まして定年の頃には、今以上にあちこちガタが来ているだろうから、1日せいぜい30キロ歩けば沢山だろう。

「システム監査技術者」試験の勉強が難しい

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 先日、なんとか合格することができた「ITストラテジスト」試験である。日本ITストラテジスト協会にも入れてもらうことができた。なんとかこれで、仕事の幅を少しづつでもひろげていきたいと思う。

 今の高度情報処理技術者の試験には、以前と違って、こうやってどれかに合格すると「免除制度」というのが適用される。中小企業診断士の科目も免除になるし、同じ情報処理技術者試験の、午前試験の前半は2年間免除だ。

 そこで、次は「システム監査技術者」に挑戦してみることにした。

 だが、簡単ではない。

 私は、情報処理技術者試験では、いわゆる「高度区分」とされる資格を二つ持っている。「テクニカルエンジニア(システム管理)」と「ITストラテジスト」の二つだ。

 システム管理は、長年の業務経験があったし、ITストラテジストも、長年企画などの業務に携わってきたから、試験合格にはそれがプラスに作用した面がある。

 しかし、「監査」という仕事は、したことがないのだ。

 今、「午後Ⅰ」(午後の前半)の記述式の勉強をしているが、その業務経験がないということが祟ってか、私にとっては大変難しく感じられる。

 平成19年の過去問で、こんなのがある。

 この中の、問2。

設問番号
私の答案
試験センターの解答
設問1 D社の中小規模の顧客に対応した適時適量の納品を行うためのリアルタイム処理をC社側システムで確保できるか否か、最優先課題である顧客への影響の最小化を根拠に確認する。 バッチ処理が所定時間内に終了しない障害が起こっているので、D社システムの処理量が追加された場合に、C社システムの処理能力が十分かどうかの確認が必要である。
設問2 最終的な監査報告を作業進捗ミーティングで行う事で経営トップのガバナンスが作用しなくなり、監査結果が全社的な取り組みにつながらないリスクを内包する。 監査報告が、監査依頼者である統合委員会に対して直接行われないので、統合委員会が、プロジェクト内の重要な問題を把握できず、適切に対応できない。
設問3 該当「(4)」、移行に必要なノウハウを持つ社員の慰留及び確保の処置と、代替処置、新規採用、外注等の対策の実施。 該当「(4)」、リソースの減少によるプロジェクト進捗への影響を把握し、スケジュールの調整または見直しを行う。
設問4 WGリーダへの直接のシステム仕様の変更指示は、本来経営トップを通じて行うべきことである。 C社システム上で実現できる範囲に機能を限定するようにシステム仕様の変更を指示していること。

 もう、なんか、全部の答案が、全部、的をはずしている感じである。

名代・あんこう料理専門店「いせ源」・甘味処「竹むら」

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 このブログに、このような記事を書くことは非常に珍しいが、ちょっと楽しい飲み食いをしたので書きとめておきたい。

 秋葉原の駅を出て「中央通り」を南にゆくと、靖国通りに向かう途中に「万世橋」がある。ここから眺めると左手に萬世の通称「肉ビル」、右手に旧中央線の古色蒼然とした煉瓦造りの高架がある。

 「以前交通博物館のあったところの裏の一画」と言えば、ピンとくる方も多いと思う。

 秋葉原のカラフルなイルミネーションはすぐそこなのに、この万世橋の右手の、煉瓦造りの高架の一画だけ突然時代が遡ったように見えるのはなぜか。それは、あの一画だけ戦時中の空襲の被害をどうしたわけか免れ、戦前のままに街が残されたからである。しかし、米軍側の資料でも、どうしてあの一画を標的にしなかったのかはよくわからないという。

 さて、そんな万世橋と靖国通りに挟まれた秋葉原南西の一画、正確には神田・須田町と、同じく淡路町にまたがるところだが、「大人の人たち」は戦前への愛惜を込めてそのあたりを「連雀町」と呼ぶ。江戸時代、背負子を背負うための肩掛けに使う「連尺」を作る職人がここに住み着いていたので連雀町というようになったのだそうな。

 このあたりには、空襲の被害を免れたため、戦前の建物がゴロゴロと残っている。有名な蕎麦店の「神田・藪」や「まつや」も、この一画にある。

 その「神田・藪」にほど近く、あんこう料理の専門店があり、なんと創業180年(!)と言う老舗ぶりを誇っている。それが名代の「あんこう料理・いせ源」だ。この店は「知る人ぞ知る」名店で、他の料理もあるにはあるが、冬の「旬」になると「『あんこう料理』一本!」で勝負している。店舗は昭和5年築で、戦災を免れたため、東京都の「歴史的建造物」に指定され、保護・保存されている。

 一夕、この「いせ源」に行ってみた。

 あんこうは「七つ道具」と言って、身のあらゆるところがおいしく食べられることもよく知られる。グロテスクな姿態にもかかわらず、食味は繊細・淡白で、食べ飽きることがない。「肝」も俗に「アンキモ」と言われて、フォアグラに匹敵する珍味と言う人もいるほどだ。

 いせ源のあんこう鍋は、このあんこうの「いろいろなところ」を、秘伝の濃いめの割下で炊き上げて食する。仲居さんが何人もいてこまめに面倒を見てくれるから、私のような素人でも心配なかった。

 あんこうの「いろいろなところ」には、コリコリしたところやヌルヌルしたところ、ホクホクしたところや、プルプルしたところ、甘いところなどいろいろな身があり、とりわけ「アンキモ」のうまさと言ったら…!。菊正宗・上撰の熱燗が、それこそ「どこに入ったかわからぬ…」くらい、すいすい飲めてしまう美味しさである。

 あんこう鍋を堪能した後は、あんこうの身の「いろんな味」がじっくり溶け込んだ出汁にご飯を入れ、刻み葱をたっぷりと載せて、煮えばなに溶き卵をかけまわした「雑炊」がこたえらない。これも仲居さんがすばやい手際でこしらえてくれる。

 値段のほうは、あんこう鍋一人前3400円~と、「滅茶苦茶に高いわけではない」値段だ。むしろ、江戸時代から続く暖簾の、戦前から大切に保存されている店舗で、青森産の「本格のあんこう」を食って、和装の美しい仲居さんにお世話してもらってこの値段は、安い方と言えるだろう。

 さて、あんこう鍋で程よく飲んで酔った後、「甘味が欲しくなる」のもままあることだ。「酒後の甘味は体に毒」なぞと言うようだが、なに、言うヤツには言わせておけばよろしい(笑)。

 おあつらえ向きに、いせ源の向かいに、これも戦前からの老舗の甘味処「竹むら」がある。ここも戦災を免れ、都の歴史的建造物として保存指定を受けた、「なんともいえぬ風情の」店舗だ。

 「竹むら」では、最初に出される桜湯をゆっくりと味わい、それから迷わず「粟ぜんざい」をオーダーしよう。700円しない程度だ。ほかほかに蒸し上げた淡白な「粟飯」の上に、品よくこしあんをかけ回した味わいは、一緒に出される濃いめの煎茶ととけあって、「左党」のオッサンでも思わず膝を叩く美味しさだ。

 そして、土産に、老舗・竹むら自慢の「揚げ饅頭」。これは二つで450円。揚げ饅頭のふんわりとした軽い甘味は、家で待っている女子供を喜ばせること請け合いだ。

 いずれの店も、作家の故・池波正太郎が愛してやまなかったことでも有名である。秋葉原から歩いて5分、スグであるので、一度「ハードディスク代金をチト削って…」試してみては如何。

乳守(ちもり)」片聞

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 同窓生と雑談チャットをしていて、「堺・乳守(ちもり)」というゆかしい地名を聞いた。

 私は大阪・堺、世界最大の陵墓として有名な伝・仁徳天皇陵や、東京・府中に次ぐ規模の巨大刑務所、大阪刑務所に程近い、田出井町というところの生まれ育ちである。

 乳守。乳守と書いて「ちもり」と読む。たしかに、聞き覚えがある。昔、大人たちの雑談の端にあらわれていた。「堺の旦那衆」の御大尽な遊びの話の中に「戦前にナ……」などという前置きとともに語られていたものだ。

 だが、忘れていた。だから、「乳守」は、同窓生にほとんどはじめて教わった地名と言ってよい。

 遊里である。同窓生によると、京・祇園よりもまだ古い、鎌倉・室町のむかしにまでさかのぼる遊郭(正しくは花街(かがい))であったそうな。堺の古い遊里は高須、乳守の両地区が渾然一体となっていたようだ。

 だがさきの大戦は由緒にも容赦なく、乳守は戦災で壊滅し、今はその片鱗すらもない。現在の地図ではこのあたり(Google Maps)である。

 かの一休禅師宗純が傾城(けいせい)地獄太夫に会ったのは、乳守の(くるわ)であるようだ。一休は堺の名刹・南宗寺に住んだので、乳守の遊里に遊んだとしても不思議はなかろう。「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という歌や、「聞きしより見て美しき地獄かな」「生き来る人の落ちざらめやも」という歌が乳守と一休の由緒として伝えられてあるようだ。

 上方落語に「すみよし茶屋」という噺があり、その中に、この地獄太夫と一休禅師の話がでてくるらしい。また、「三枚起請(きしょう)」という(はなし)にも出てくる。三枚起請のほうは、舞台を吉原に直して、東京でもかかるという。手元の蔵書「上方落語」(ISBN4-06-203330-5)を繰ってみると、「すみよし茶屋」は載っていないが、「三枚起請」は載っている。だが、この蔵書では由緒のある乳守ではなく、「堺の新地から難波(なんば)の新地へ移った(こども)」ということになっているようだ。

 この「三枚起請」のサゲは、「別に(からす)に怨みはないけども、あたいも勤めの身。世界中の烏を殺してゆっくり朝寝がしてみたい」となっている。東京では高杉晋作の作と言われている都々(どど)(いつ)「三千世界の烏を殺し(ぬし)と朝寝がしてみたい」にからめて語られるようだ。

 子供の頃の私などが度々耳にすることがあった遊所というと、旧軍隊の衛戍(えいじゅ)地にはつきものの「新地」(『青線』であったろうか)、「信太山(しのだやま)新地」などである。乳守は、いわゆる「新地」の信太山などとは比べものにならぬ、「一見さんはお断り……」の、由緒と格式を持ったれっきとした遊里であったものであるらしい。

「ITストラテジスト試験」に合格

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 「泊まり込み仕事」の最中、とても嬉しいことがあった。

 「ITストラテジスト」の合格発表があり、合格したのだ。世間では「IT最難関」ともされている資格だ。

 この資格がまだ「システムアナリスト」という名前だった頃、一度受けて落ちたことがある。5年前のことだ。その後、少し忙しかったこともあり、受験できなかった。

 前の上司や、今一緒に仕事をしている相棒から刺激を受け、もう一度頑張ってみようかという気になり、勉強した。去年の春から、夏をはさんで秋までかかった。そのために、この数年間、毎年出ていた次女のピアノの発表会の連弾相手は、今回は見送った。

 通勤電車の中で、毎日立ったまま論文を書いた。本番では予想していなかった論文題が出題されたが、今までの長い経験で3200文字をほぼ満杯に埋めつくし、押しきることができた。

 これで、「日本ITストラテジスト協会」正会員への入会資格を得た。さっそく加入申請をして、幅を広げたいと思う。

 今年は懐かしい人々に会えて、再び友達になれたり、年の瀬に近くなってから良いことが沢山あった。正月の酒は、だから、旨いだろう。