エレクトーン少女の Canon Rock

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 この女の子、ちょっと前から有名だが、本当に楽しそうに弾いていて、すばらしい。美しいし、才能もある。

 「Canon Rock」って選択も、いいなあ。

(参考:本家Jerry Cの元祖「Canon Rock」)

皇居一般参賀・おじさん寸描

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 昨日、意を決して皇居の一般参賀に行き、その一部始終を書いておいた。

 ちょっと面白いことがあったが、書き洩らしたので、改めてここに記しておく。

 長和殿前広場で、私の後ろに年配の、声の大きいおじさんがいた。何人かのお連れさんと来ているようだった。70歳前後に見受けられたがもう少しお若かったかもしれない。喋る言葉は「東京弁」で、自他共に許す江戸ッ子と察せられた。

 このおじさんが微妙な面白さだった。

 長和殿に詰めかけて、私の後ろの辺りに場所を占めるや、お連れさんたちに

「いや~ァ、めぇったなァこりゃ、ずいぶンな混みようじゃァねいか、こんなンじゃあちぃとも拝めやしねいヨゥ!」

 それがまた遠慮のない大きい声で、私は「おっ、江戸ッ子が来た」と、ちょっと笑ってしまった。

 おじさんは大きな声で(あた)(はばか)りもなく気楽に喋る。

「あーっ、ああいうふうにカメラを上にあげて撮影されッと、後ろの方はたまんねェんだヨなァ、あれが邪魔で(めえ)が見えやァしねェんだから。もう、陛下がお出ましになるッてェと、コウ、みんな旗を振るだろ、余計に見えねェよゥ?!……ああっ、誰でェ、カメラはまだいいけど、なんつーんだい、アレ、なんだっけ、タブレット?……アレを高々と上に挙げてあのカメラでやられちゃア、後ろの方はたまったもんじゃアねぃやな(笑)」

 3列ぐらい前のほうにいた、その「10インチタブレットを高々と上げて背面カメラで撮影している、後ろの視界を邪魔する人」にもまる聴こえで、その人がそ~っと、申し訳なさそうにタブレットを下げる。

「オゥ、あのタブレット?を下げてくれやァがったなア、うれしいねエ~……」

 そのうち、テラスに天皇皇后両陛下、皇族方がお出ましになる。群衆はどよめき、それこそ押し合いへし合いになりだす。もう、大変な歓喜である。

 それまでは例のおじさんの聞こえよがしもあって、遠慮してカメラを下へおろしていた人たちも、今度は遠慮も糞もあったものかは、我先にカメラを差し上げ、(かしこ)きお姿を撮ろうと躍起だ。誰も彼も、カメラ視界の開けたところを確保しようと20センチ30センチ立ち位置を動こうとする。数万もの群衆がそうするものだから、一人一人の小さな動きが大きなうねりに増幅され、言って見ればリゾート施設の「波のあるプール」に放り込まれたような具合である。

 後ろのおじさんも、年配の人だからそれほど背が高くなく、どよめく群衆にモミクチャにされている。

「いやまったく、これじゃア、たまんねェよゥ!……見えやあしねェ~!」

 しかし、私は背伸びさえすれば、ほんの10センチの身長差、両陛下、皇族方のお姿をしっかりと拝することができた。そこで私が「天皇陛下万歳!」と喉も裂けよと絶叫していると、おじさん、私の後ろでモミクチャになりながら、

「いやちょイと、おまいさん、天皇陛下バンザイったって、これじゃあ、バンザイにも何にもなりゃアしねぇだろうよう!!だぁ~めだよウそんな万歳はああ~、そりゃアねエよウ!」

 私が「皇后陛下万歳!」と叫ぶと、

「皇后陛下ったって、おまいさん、ありゃあ美智子さんだよウ!」

 実は年配の一部世代の人には、「皇后陛下は民間から嫁いだ方なので、芯からの皇族ではないから、美智子さんと呼ぶ方が良い」と頑固に思っている人もたまにいるのである。ま、それはそれで、それぞれ人によって考え方もあるんじゃないですかね。

 ともあれ、だいたい年配の人は声が大きいもので、なんか面白く、おじさんには申し訳ないが、逆に(なご)んでしまった。

 その話とは別の話。

 人々がカメラやタブレットを差し上げて撮るので、その腕が邪魔で後ろの方からは全然前が見えないことは前記した。それを非と断じてか、もっとうんと後ろの方で、「カメラとタブレットを下げてくださーいッ!!」と前の人に大声で注意する「正義の参賀客」もいた。

 ところがこの人、1回、2回注意を叫んだだけでは(あきた)らず、3回も4回も、続けて5回、6回と「カメラとタブレットを下げてくださーいッ!!」と叫び続けた。正義を信じて疑わぬタイプなのだろう。のみならず、天皇陛下の御言葉が始まってもまだ叫んでいる。この男の正義の注意がうるさくて、天皇陛下の声がよく聞こえない事態となりかかった。

 これはいかん、と私も思った刹那、別の人、これは女の人だったが、

「ウルセェよ!!」

とその正義男に向けて鋭く一言ピシャリと放った。「正義のカメラとタブレット下げろ男」は、それっきり自分の非を悟ったか、シンと黙ってしまった。

 まあ、実際うるさかったからねえ(笑)。でも、ちょっとかわいそうにもなった。その男のしつこい注意で、少しはカメラやタブレットが下がったから。

やべ……

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 初詣に行って帰ってきたら、ゾクッと寒気がし、途端に気持ち悪くもなってきて、食ったものを全部もどしてしまった。

 どうやら、ひょっとしてコレは……。

 ノロウィルスにやられたかな……?大晦日、腹が張り裂けるかってくらい、本場の牡蠣を貪り食ったもんなあ。天罰覿面(てきめん)かあ。……いや、悪事は働いちゃアいませんがね。

 まあ、ノロだなんだと騒がなくったって、

「飲み過ぎ喰い過ぎによる食あたり」

だわな、早い話が。

除夜の鐘

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 近所の古刹「報土院」の除夜の鐘を聴く。

 鐘撞きの待ちキューに並ぶのも嘘臭いので、読経の始終、それから和尚の一撞き目だけ、堅実心(けんじつしん)に合掌して聴き、引き返す。

大掃除

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 大掃除。

 家の外を綺麗にする。

 子供たちが小さい頃、食ったグレープフルーツの種を庭に植えた。それがこの10年余りで手が付けられないほど大きくなり、持て余していた。とうに私の背丈を超える高さになっている。どうにかしようにも、グレープフルーツの木には鋭い(とげ)があり、手入れをする度、この棘が手に突き刺さり、痛くて扱いづらく、手に負えない。

 しかも、実でも()るならまだしも、花を付けたのは一度だけで、あとはひたすら、年がら年中鬼のようにイガイガと庭に蟠踞(ばんきょ)するばかりで、どうにもこうにもならなくなった。

 意を決し、今日はその3本のグレープフルーツの大木を引っこ抜き、雑草と一緒に捨ててしまった。引っこ抜くにもまるで抵抗でもするように棘が手を刺し、難渋した。

 なんというか、グレープフルーツの木にも生命がある。彼が悪いわけではなく、私がろくに手入れをせぬからこういう始末になったのであるが、グレープフルーツはそれに対して深い(いか)りと憎しみを表明するかの如く、私の手と言わず指と言わず、鬼の角か動物の牙のようにそこら中をグサグサと刺すのであった。おお、痛い。怒るなよ植物のクセに。悪かったよ。

 済んでから、表の雑草を抜き、掃き清める。

 ああ、疲れた。腰が痛い。

随分久しぶりに

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 随分久しぶりに、これからも二度と書けないだろうというほどの会心の文章が書けたのだが、それはあんまりにも人を傷つけるように思うので、非公開にしてしまった。惜しいかな、惜しいかな。

「何がしたいんですか」だって?知るかよ、そんなこと

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 自分のしたいことが何かをわかっておく、ということが大事なことを、例えばコンピュータのソフトウェアの要件を定義するときなどに強く思う。うまくいっていない案件の9割、というか実感としては10割は、自分(あるいは自分たち)が何をしたいのかわかっていない「要求者」の問題に帰するのだ。

 これを工学的問題と定義し、「要求工学 Requirements Engineering」として研究して、なにがしかの糧を得る学者もいるほどである。

 つまりは、「じゃあ、あなたはどうしたいんですか?」と言う単純な問いに答え得る人は稀有である、ということだ。

 同じようなことは人生行路にも言える。目標を持ち、自分が何者で、何をしようとしているのか。こういう風に言えばなにやら恰好がいいが、実際のところ、それが分かっているような立派な人は1万人に1人いればいいほうで、ほとんどの人はともかく転んで怪我などせぬように、うまく目前の道を歩き続けるのに精一杯だ。

 よくいるのが、転ばぬように歩き続けていたらたまたま手に入った僥倖を「俺はもともとこれを目標にしていた」と、はじめから目標に向かって努力していたように言う手合いだ。いや、そういう態度を間違っているなどと言う気はない。そうではなくて、人間、そういうものだ、それで普通だ、と言いたいのだ。

 であればこそ、転ばぬように道を歩く、という、そのことを卑下することはない。それはまことに、あたりまえで、素朴な尊い人生の送り方だ。

獺祭(だっさい)

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 昔は、以前から自分が秘かに好きだったものに人気が出て、広く知られるようになったりすると、例えば小説なんかだったら「ああ、俺の北方謙三がああ!何もわからん一般人に汚されていくぅう!」などと残念に思ったものだった。

 最近はそういうことをあまり思わなくなり、「ヒットしてよかったなあ」などと思うようになった。

 以前から「おいしいなあ」と思っていた酒、「獺祭(だっさい)」が、いよいよ行き渡り、定番の酒の地位を獲得しつつあるのだそうな。

 なんかこう、嬉しい感じがする。

デデ・たま

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 長女が「お父さん、『デデデデ』の新しいの、読んだんだっけ?」と聞いてくる。

「おう、そういやアレ、出たんだったか?」

「そうそう、この前5巻出たよ、……お父さん4巻読んだっけ?」

「いや、えーっと、どうだったかな……」

「じゃ、……ほら、これ」

……と、4巻と5巻を両方とも出してきて並べてくれる。

 長女は、自分の好みの仲間を増やしたい気持ちもこれあり、私と一緒に面白がることができそうなものを推奨(リコメンド)してくるようになった。

 そうかと思うと、先日などはゴソゴソとロフトを漁っている。何しているのかな、と思ううち、私が昔購入して大事に仕舞っておいた「たま」のアルバム「さんだる」を引っ張り出してきて、「お父さん、これ、何、何?!」と聞いてきたりする。初盤限定オリジナルカード付きの逸品だ。

「おう、これ、お父さんが時々カーステレオでかけてる、『♪今日~人類がはじめてェ~……』って曲あるだろ、アレの入ったやつだ」

「あ、あれ、これだったんだ!?」

「お前が生まれる前、お父さんとお母さんが知り合うよりもまだ前で、お父さんは20代だったがな。『イカすバンド天国』っていう深夜番組があって、ロックバンドが勝ち抜き戦で競うんだけど、ある年の最強チャンピオンがこの『たま』だったんだよ。……割と最近、何年か前まで活動してたけど、解散しちゃったんだよな」

「へえ……これ、貰ってもいい?」

「……。お、おう。やる」

 長女は熱心に古いCDを聴いては「たまは天才だー!」「何か新しい~」などと言っている。我が娘ながら、なんだか変わっているとは思う。

 子供というものも好みや趣味はだんだんと変遷するもので、まあ、長女は今そういう時期なのだろう。

メディアとしての憲法

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 やろうと思えばまだできる、という時期に「もうしません、永久にやめました」とアピールするのと、やろうと思ってももうできない、という時期に同じことを言うのでは、相手の受け取り方は全く違う。

 前者なら、「よくぞ言った!偉いッ!」と受け取られたかも知れない。

 後者だと、「いや、永久にやめましたもヘッタクレも、そもそもお前んとこ、元からそんなこと出来ねぇだろうがよ。ナニわかり切ったこと言ってんだ。アホか」とバカにされるだけだ。

 私などは「何が憲法改正だ。改正などとは手ぬるい。最善は『破棄』である。それができないくらいなら、いっそ一切何も手を付けず、千年くらいこのままがよい」などと(うそぶ)いている。これを聞く人は「またこの変人佐藤が、キチガイみたいなこと言ってるぜ」と笑って流してくれるが、私は大真面目なのだ。

「何が『緊急事態の宣言』だ!ここは『戒厳令』と書かねばならぬ。条文もあんな臭い口語体ではダメだダメだダメだッ!『天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム』にせんかァ!」

「おいおいおいおい佐藤さん、それは旧帝国憲法のパクりでしょうが」

「キミキミっ!今『旧帝国憲法』と言ったね!?『旧』とは何だ『旧』とは!まだ生きているものについて言うのに『旧』なんてつけなくていいんだッ!『大日本帝國憲法』、と言いなさい、この際、『国』という字は旧字体で『國』と書いたものを音読する気持ちで、さあ、言ってみよう、さん、ハイッ!!

「(……またはじまったよ、マジ面倒臭いオッサンだなあ) ハイハイ、わかりましたって(笑)」

……なぞという狂った会話を普段からしていれば、そりゃあ誰も相手になどしてくれないのは当然ではあるが……。

 だが、落ち着いて考えれば、癇癪を起して、喧騒(けんそう)、興奮、混乱、分断のうちに改定ないし破棄するというのも慌て過ぎだ。

 反面、喧騒や興奮などすれば、諸外国はそれに注目する。憲法に盛り込まれた文言は、内に向かっては、その縛ろうとするものが権力であろうとはた国民であろうと、外に対しては、日本が諸外国に向かって誓約する宣言としての機能が大きい。

 つまりは最高法規の姿をした強力な媒体(メディア)となることは疑いない。そう思う時、喧騒、興奮、混乱、分断もまたそれに期待される機能を自然に持つのだ、とも思う。