脳にテレビ

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 妻と娘は、何か「晩御飯会」に出かけて行った。

 彼女らがつけっぱなしにしていったテレビの音がうるさく、不愉快なのでスイッチを切る。

 なんでテレビの音を不愉快に感じるのだろう、と思って「テレビからは不愉快な雑音しか流れてこない。」でググッてみたら、「人の話が音として聞こえるけど、言葉として聞こえない現象に思い当たる人多数→「聴覚情報処理障害」かも…?」というtogetterまとめが出てきた。

 ……う~ん。雑音、っていうわけじゃなくて、断片的に「韓国」「反日」「あおり運転」とかいう不愉快な単語が聞こえてくるから、不愉快なんだよな……。

 と言って、意味がわかるからそれで不愉快というわけでもなく、実は、人と対面して話していて、全部雑音に聞こえてしまい、「ちょっと、お前!聞いてるのか!?」と怒鳴られたことも若い頃にはある。今でもそうで、実は子供の頃からそうである。人の言っていることが雑音にしか聞こえず、目の前に喋る顔だけが感情をこめて自分の前に映画の看板のようにある。相手が怒っていて、怖い、それぐらいしか伝わってこない。言葉は聞こえない。音が聞こえる。

 そんな私だからテレビがうるさいのかな、とも思うが、テレビの音声は断片的に意味を持って脳に入ってきていて、それが不愉快なのだから、完全に雑音にしか感じない、というわけでもない。

 それが不愉快なのである。俺の脳に入ってくるな、と思う。

 これは多分、遺伝なのではなかろうか。私の父は「目が見えないのは()えがたいが、耳が聞こえないのは幸せだと思う」と漏らしたことがある。耳が聞こえないのは実に不便だと思うが、それをしも不便だという父は、言葉に()み飽きていたのだと思う。

一杯

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 和布()(かぶ)胡瓜(きゅうり)のレモン酢に、(とき)辛子(がらし)を添えて一杯。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。今は4冊目(第4)だ。収録著作は「三太郎の日記 第一」(阿部次郎)・「生活の発見」(林語堂・坂本勝訳)・「若き人々のために」(R.L.スティーヴンスン・橋本福夫訳)・「愛、愛より豊かなるもの」(J.シャルドンヌ・窪田般彌訳)の4つである。

 まず最初に、阿部次郎の「三太郎の日記 第一」を読み終わった。

 正直、あまり面白い読書ではなかった。理屈っぽく、ひねくりまわった文章と論理、難解な語彙、内容の()弱と懊悩(おうのう)ぶりも、私には合わなかった。

言葉
Es irrt der Mensch, solang er strebt.

 「エス・アー・デー・メンシュ、ゾラン・エー・シュトリッブツ」、内表紙の見返しにこれが書かれている。ゲーテの「ファウスト」に出る名文だそうな。

 曰く、「()に人や奮進(ふるひすす)む間は(つまづ)かざるを得ず。」(『ファウスト』前川文榮閣、高橋五郎訳(明治37年(1904)))だそうである。

 「人は努力する限り誤るもの」とでも言おうか。

(かん)零墨

 切れ切れの文章のかけら、とでも言うところか。

(『三太郎の日記 第一』(阿部次郎著、平凡社世界教養全集第4(昭和38年(1963))より引用。尚、難読の語には原文にないルビを佐藤俊夫が補った。他の『Blockquote』タグも特記しない限り同じ。)

……全体を通じてほとんど断翰零墨(だんかんれいぼく)のみであるが、いかなる断簡零墨もその時々の内生の思ひ出をともなつてゐないものはない。

 ここでは「翰」の字は「簡」と同じであるが、「翰」には鳥の羽で作った筆の意味があるのに対し、「簡」には竹をそいで作った札の意味がある。つまり、道具と媒体(メディア)、というほどの違いがある。

 昔は「書簡」よりも「書翰(しょかん)」という字の方がよく使われたが、「翰」は常用外の漢字でもあり、今はあまり見かけない。

()(あつ)

 「はばむ」ことである。

 ここで、「阻」ははばむ意味、「(あつ)」はとどめ、さえぎり、絶つ意味である。

……さうして自分は自分の内面的欲求が特にその()(あつ)さるる点において燃え立つことを経験した。

 しかし、「妨害される」とでも書けばいいところを、なんでまた「阻遏」と書くかねェ(苦笑)。古い著作であるせいか、全編を通じてこんな感じだ。

裨補(ひほ)

 助け補うことだ。

 「裨」には助ける意味の他、「小さい、いやしい」という意味もある。同じ助ける意味の漢字でも、「佐」「祐」の二つの漢字で言うと、「佐」の字に近いように思う。

  •  (漢字ペディア)

……もしこの書を貫く根本精神が多少なりとも生きてゐるならば、読者の胸中に、矛盾を正視しながら、しかもその中に活路を求むるの勇気を()(すゐ)する点において、幾分の裨補がない訳はないと思ふ。

蝕ふ

 これで「そこなう」と()む。

 「生活は生活をかみ、生命は生命を(そこな)ふ。……

フオルキュスの娘たち

……俺は今眼を失へるフオルキュスの娘たちのやうに、黄昏(たそが)れる荒野の中に自らの眼球を探し廻つてゐる。

 「フォルキュスの娘」というのはギリシャ神話に出てくる「蛇女ゴーゴン」のことなのだが、はてさて、ゴーゴンを含むフォルキュスの娘姉妹たちは、盲目だったのだったっけ、どうだっけ……。

 渉猟するうちWikipediaに、それかな、というギリシャ神話の筋を見つける。

 Wikipediaでのカナ表記は、「フオルキュス」ではなく「ポルキュース」となっている。

 しかし、阿部次郎が求道のことを、なぜグライアイに例えたのかはさっぱり不明である。ひょっとして、「ギリシャ神話の素養などをひけらかしてエエカッコしたかっただけ」なのではあるまいか。

ミネルヴァの(ふくろう)

……ヘーゲルは「ミネルヷの(ふくろふ)は夕暮に飛ぶ」と云つたと聞く。

 一般にはこの言葉、「ミネルヴァの(ふくろう)は迫り来る黄昏に飛び立つ die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug」という一句として知られている。大哲学者ヘーゲルの「法の哲学」の序文にあるそうだ。

 いうまでもなく梟は夜行性の鳥だ。ミネルヴァの梟は知慧の象徴である。それが夕方飛び立つ、という例えで何を言いたいのかというと、自分が位置する今というのは知慧や思想の末期で、あらゆることは先哲が考えた後である。しかし、その末端に位置する「今」というこの時に、つまり「哲学の黄昏」であるこの今、まさに知慧は飛躍する、ミネルヴァの梟は飛び立つ、この時にあって、眠っていた哲学はより高みに飛び立つのだ。

 ……という意味だと、私は解釈した。

Für-sich・An-sich・Pessimismus

 この著作もそうだが、この「平凡社世界教養全集」、やたらとドイツ語の混ぜ書きをする衒学的(ペダンチック)な著作が多くて、読みにくくて困る。

 ドイツ語の「Sich」は英語の「Yourself」と同じと考えていいようだ。同じく「Für」は「For」である。また同じく「An」は「At」である。

 そういうわけで、「Für-sich(フー・ジッヒ)」は「自分自身のため」、「An-sich(アン・ジッヒ)」は「自分自身において」、つまり「自分自身」ということである。

Pessimismus(ペシミスムス)」は英語で「悲観論」である。

……Für-sichAn-sich を蚕食し陥没せしむるものと云ふことが事実ならば、しかしてこの事実を評価する者が俺のように An-sich純粋(、、)集中(、、)無意識(、、、)とを崇拝する者ならば、その者の哲学はつひに Pessimismus ならざるを得まい。

 「自分自身のためにすることが、自分自身を損なってしまうことがあるとすると残念なことだ」ということを言っているのだが、それを言うのになんでこんな書き方をするかねえ……。ま、私も人のことは言えんか(苦笑)。

コボルト

 「西洋小鬼」みたいなものか。

……嗚呼(あゝ)わが魂よ、コボルトのごとく(おど)(はね)れ。

レオパルヂ

 レオパルヂは覚え帳にかう云ふ意味の言葉を書いた。

 イタリアの文筆家で哲学者のジャコモ・レオパルディのことであろうか。

坌湧(ふんよう)

 これで「ふんゆう」ではなく「ふんよう」が正しい。

 「坌」という字は見慣れないが、これも「坌く」と書いて「わく」と訓む。よって、「わき、わくこと」が「坌湧」である。

  •  (Weblio辞書)

 自分が経験する思想の坌湧(ふんよう)は一尺ほれば湧いて来る雑水のやうなものであらう。

アスピレーション

 「aspiration 願望」である。

……疲れた親は活力に溢れた子供のアスピレーションに水をさす。

フモール

 英語の「ユーモア」のことである。

……「わが身を共に打掛(うちかけ)に、引纏(ひきまと)ひ寄せとんと寝て、抱付(だきつ)締寄(しめよ)せ」泣いてゐる美しい夕霧の後には、皺くちやな人形つかひの手がまざ〳〵と見えてゐる。かくのごとき二重意識の呪を受けた者の世界は光も(やみ)である。狂熱も嘲笑である。悲壮も滑稽である。要するに一切(いっさい)フモールである。

 蛇足だが、今、上に本文を引用するとき、縦書きの「くの字点」を横書きにするのに、少し戸惑った。このこと、ネットでも少し議論があったようだ。

 縦書きなら、

まざ〳〵と見えてゐる。

……と、このように問題ないのだが、横書きにした途端、違和感が甚だしい。

沈湎(ちんめん)

 沈み、溺れることだが、どっちかというとネガティブな意味で使うようである。

 「湎」という字にも沈むという意味がある。

  •  (漢字ペディア)

 事実の改造に絶望する時、暫く三面の交渉を絶つて静かに一面の世界に沈湎(ちんめん)せむとする時、眼をそむくるの抽象は吾人の精神に揺籃(ようらん)の歌を唱ふの天使となるのである。

(たたず)

 「ぎょうにんべん」ではない。これで「(たたず)む」と()む。

  •  (Wiktionary)

……縁に(たゝず)みて庭を眺め虫を聴き、障子を開いて森に対し月を見るの便を主とするがごときは、すなはち内より見たる自然との抱合である。

()(へい)肆意(しい)

 「()(へい)」。「萍」という字は「うきくさ」と()む。意味を重ねて、文字通り「浮萍」とは浮き草のことである。

  •  浮萍(コトバンク)
  •  (漢字ペディア)

 「肆意」。「恣意」と同じ意味である。

 「肆」という字には「さらしものにする」という意味があり、そういう意味では例えば「書肆(しょし)」という言葉があるが、その意味は本を並べて見せている、というところから本屋のことを言うのである。しかし、「さらしものにする」という意味からは「(ほしいまま)」の意味も生じてきて、「肆意」と「恣意」は同じ意味になってくるのである。

  •  (漢字ペディア)

……嗚呼(あゝ)わが魂よ、汝融和抱合の歓喜を知らざる矮小なる者よ、汝根柢にいたらずして、浮萍のごとく動揺する迷妄の影よ、肆意(しい)にして貧弱なる選択の上にその生を托する不安の子よ。

フレムト

 ドイツ語で「fremd」である。

……徹頭徹尾たゞ自己一身を挺して、端的に自然に面する者にあらざれば、真正に孤独を経験し、真正に自然の威力を経験することが出来まい。単身をもつてフレムトなる力の中に侵入して行く時、フレムトなる力の中に自己を没却してしかもその中に無限の親愛(フロイントシャフト)を開拓し行く時、((引用ママ))めて真正に自己の中に動く力の頼もしさを感ずるを得よう。

 外国の、とか、奇妙な、とか言う意味だが、ここでは「異質な」という意味で使われている。英語だと「strenge」である。

擺脱(はいだつ)

 「取り除いてしまうこと」である。「擺」という字は「く」を送って「(ひら)く」と()み、単に「ひらく」という時よりも、より強く「おしひらく」という意味がある。したがって、「擺脱」というのは、「おしひらき、取り去ってしまう」という意味である。

  •  擺脱(コトバンク)
  •  (漢字ペディア)

……彼らは畢竟(ひっきゃう)未練にすぎない。幻想にすぎない。この未練を擺脱(はいだつ)すれば、余は常に死に対して準備されてゐる。

二致あるを感じない・二致がない

 これがまた、実に込み入った、ややこしい表現である。

 「一致」という言葉を想起すればこの「二致」という言葉は分かり易い。すなわち、「一致」というのは言わずと知れた「一つの趣旨」のことだ。だから、符合することを「一致する」という。

 他方、「二致」というのは二つの趣旨のことだ。「一致」の反対である。

 そこで、「一致する」「二致しない」は、「逆×逆」で、だいたい同じ意味、ということになる。

 そうすると、「二致あるを感じない」というのは、「逆×逆」で、「一致があるのを感じる」という意味になる。同様に、「二致がない」というのは「一致がある」という意味となる。

……少なくとも純一なる主義、純一なる力をもつて自己の生活を一貫するを得ざる自らの迷妄を恥ぢざるを得ない。恋愛のために殉ずる人も、君主のために殉ずる人も、自分の不純を(むちう)つにおいては二致あるを感じないのである。

……彼を自然とし(これ)を不自然とするは論者の誤謬である。いづれにしてもその半身を求める憧憬に二致がないから――

 しかしそれにしても、「自分の不純をむちうつのは同じことだ」と言えばいいのに、なんでまた「自分の不純を鞭つにおいては二致あるを感じないのである」なんて、ヒネクリ回した書き方をするかね、この著者は(苦笑)

コンゼクヱンツ・インコンゼクヱンツ

 この著作では「コンゼクヱンツ」というふうに、「エ」をかぎのある「ヱ」に書いている。

 「コンゼクエンツ konsequenz」。「結果」という意味である。ドイツ語だ。では「インコンゼクエンツ」が結果の逆で「過程」とでもいう意味かというと違っていて、「矛盾」である。

……彼はこの性質のために自分の思想的行動経験気分を検査して一々そのコンゼクヱンツ(たゞ)さなければ気がすまなかつた。さうしてそのコンゼクヱンツを検査することは常にインコンゼクヱンツを発見する結果に終つた。

Zweisamkeit

 「zweisamkeit ツワイザムカイト」。ドイツ語で「連帯」である。

 「両性」の生活においてもこの形而上的転換を経験し得た人は、換言すれば永遠の Zweisamkeit を刹那に経験し得た人は、この刹那の経験を説明するものとしてアリストファネスの神話的仮説を笑はないであらう。

窈深(ようしん)

 窈深(ようしん)。「奥深い」ということである。

 「窈」という字には「暗い奥のほう」、というような意味がある。奥だから、暗いわけだ。

  •  (漢字ペディア)

……差別された物と物とはまつはり合ひ、からみ合ひ、もつれ合ひ、とけあつて、最後に一つの窈深(えうしん)なるものに帰する。

 本文のルビは旧仮名で「えうしん」と振ってある。

菽麦(しゅくばく)を弁ぜざるもの

 菽麦の「菽」とは豆のことを言う。

  •  (漢字ペディア)

 で、そこへ「麦」であるから、「菽麦」というのは「豆と麦」のことである。

 「豆や麦を弁じない」というのだから、「食うのに困っている者」というような意味かな、と思ったら大違いで、「豆と麦の違いもわからないばか者」のことを「菽麦を弁ぜざるもの」というのだそうである。

 しかし、この意味からすると、読み方は「弁ず・弁ぜざるもの」というよりも、「(わきま)ふ・(わきま)へざるもの」と()んだ方があっている気がするのだが……。

……私は差別することを知らざるものの――祖先の用ゐ慣れた熟語を用ゐれば、菽麦(しゅくばく)を弁ぜざるものの――いはゆる「渾一観」を信ずることが出来ない。

(ただ)

 古臭い言い方・書き方、文語では「(ただ)に」「唯に」だが、もしこれを現代語で簡単に書けば「単に」である。文字が全然違うが、意味はピッタリ同じと考えてよい。

……しかしこれらのものを強調すると称して、創造の世界における差別の認識を、生命の発動における細部の滲透を、念頭に置かざるがごとき無内容の興奮に賛成することが出来ない。否、(たゞ)に賛成ができないばかりではなく、私は彼らのいはゆる「生命」、いはゆる「創造」、いはゆる「統一」の思想の内面的充実を疑ふ。

アレゴリー

 allegory。比喩・寓喩。要するに、例えである。

 ……かくのごとき自覚の下に描かれた絵画には、筆触と色彩と構図との虐殺があるのみである。()(まど)ひのシンボリズムとアレゴリーとがあるのみである。

 さて、次は珍しく中国の作家の作品である。(りん)語堂(ごどう)の「生活の発見」(坂本勝訳)だ。

玉簾(たますだれ)の花

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 千葉県での大停電など、記録的な被害を残した台風15号が過ぎた。一過後も暑熱が続いたが、2、3日を経てみると(そぞ)ろに寒さを覚えるほど涼しくなった。

 今の時季になると、折節路傍で見かける花があり、見かけるたび気になっている。

 その花の名を知らない。そこで写真を撮ってネットで調べてみた。

 この花は「玉簾(たますだれ)」というそうである。

 私の所有する歳時記には載っていない。未確認ではあるが、大きな歳時記には載っているようで、ネットで検索すると出てくる。

 どうやら夏の季語で、今は仲秋だから、当季ではない。

 英語で「レイン・リリー」と言い、直訳すると「雨百合(アメユリ)」となるが、これは文字通りひと雨ごとによく咲くからだそうである。「雨百合」とはいかにも切々たる情緒があって季語らしく感じられるが、残念ながら歳時記などにはこの名前では載っていないようだ。

 球根の花で、多少毒があり、放任でもよく育ち、咲くという。

鳥兜(とりかぶと)

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讒訴(ざんそ)めく口々まるで鳥兜(とりかぶと)   佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha

鳥兜(とりかぶと)

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名月

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 今朝の天気予報では「曇天」とあった。

 やむなし今夜は無月かな、それもまた良からん、と思いのほか、深更に至って中天に青い月が見事に昇った。

 虫の声が高い。いい夜である。

一挙に秋涼となり

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 一挙に秋涼となり、虫が(すだ)くようになった。少々植え込みのあるお宅の前を通ると、リンリン、チロチロと涼しい声がする。

 明日は中秋の名月、十五夜だが、天文学上の「望」は明後日である。

読書

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 60年前の古書、平凡社の世界教養全集第3のうち最後の著作、亀井勝一郎の「愛の無常について」を読み終わった。

 「考えることから死ぬことまで」と題された一節のうち、「自分の言葉をもつ」という部分に共感を覚えた。

言葉
者流(しゃりゅう)

 長いこと()みを知らずにいた。20年ほど前に読んだツヴァイクの「マリー・アントワネット」(岩波文庫)の中に「扇動者流」等と言葉が出ていて、読み方がわからなかったのだが、当時調べ当たらず、「扇動者(せんどうしゃ)ども」と訓むものとばかり思い込み、20年が過ぎ去ってしまった。

 今、ネットで改めて検索すると、単純に「しゃりゅう」と訓めば良いと知った次第である。

(『愛の無常について』(亀井勝一郎)から引用。他のBlockquoteも特記しない場合同じ。)

……いや青年のみならず、悠々たる徘徊を事とする壮年者流も、その反面においては「最後の攻撃」をつねに準備しているものです。

熾盛(しじょう)

 「しせい」とも。

「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。……

国宝・十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)

 この著作は著者の該博な西欧文化の理解とキリスト教に関する素養を基礎に人間というものを研究していくが、後半以降に至って、急転直下仏教、とりわけ親鸞の説くところへ傾倒していく。その点で倉田百三にも似る。しかし、倉田百三ほど女々しくなく、さすが壮年以降の著作である。

 その中で、奈良・法華寺の十一面観音菩薩立像に見る信仰と芸術の対比を、キリスト教、とりわけ旧教の信仰とルネッサンスの芸術との対比と並べ論じるところがある。

 十一面観音菩薩立像は、当時天竺の仏師文答が光明皇后に似せて刻んだものであるという。

 引き続き「世界教養全集」を読む。

 次は「第4 三太郎の日記 第一/生活の発見/若き人々のために/愛、愛よりも豊かなるもの」である。

虐待死

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 なるほどなー……。

 新聞やテレビが「くだらない」「つまらない」というようないい加減な切り捨て方をしている時事に、こんないたましい事件が多く埋もれているのだ。