平成(さんじゅう)三年

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 Twitter で「平成33年」がトレンド入りしているという。

 令和3年と平成33年がイコールとなっていることで、両者は誠に換算しやすく、生活や仕事の上でも実に便利である。

 (かしこ)し、国民の生活に深く思慮を垂れ(たま)い、元号の換算にまで心をお配りあそばされた上皇陛下の仁慈に、ただただ(ひれ)()すのみである。

 しかし、この際同時に、令和3年は昭和96年であり、大正110年であり、明治154年であって、そして、(はる)けくも神武天皇以来(このかた)悠久、皇紀2681年であることも知っておかなければなるまい。

 その昔、大人たちが「明治100年祭」ということを懐かしそうに話していたのを、ふと思い出した。

身体

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 舌の右下の裏側の付け根の柔らかいところに、プツッ、と痛いものができた。何かの腫瘍だったりしたら嫌だな、と思う。

 正月前頃から、左足の甲の内側寄り、親指の筋の上あたりに黒子(ほくろ)のようなものができた。今日は1.3ミリほどの大きさだ。特段大きくなっていく気配はない。小さな瘡蓋(かさぶた)のようにも見えるが、取れる気配はないから、瘡蓋ではないのだろう。しかし、日本人は手足に黒子があることはあまりなく、メラノーマなどの癌の恐れもあるから気をつけろ、とも聞く。嫌な感じである。

どんど(やき)

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煙のみ見ゆどんど(やき)手を(あは)す   佐藤俊夫

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今週のさえずり季題

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写実だけがリアルではないと改めて認める

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 最近の私の読書傾向からすると、まるで写実に異を唱える印象派のような表題になってしまっているが、そうではない。ゲームとか、映像の話である。

 さて。

 長女(大人)や次女(大学生)は家でよくゲームを楽しんでいる。任天堂の「Wii」だ。

 「スプラトゥーン」や、いわゆる「あつ森」もしょっちゅうプレイしているようだが、「カップヘッド Cuphead」というのをプレイしているのもよく見かける。

 初老のオッサンで、それでなくてもウイスキーで脳が溶けつつある私である。()(じょう)どもからコントローラを奪い取ってプレイしてみようというような気は、いくらなんでも起きない。見るともなしに横から(のぞ)き込むだけだ。しかし、そうして画面を覗きこんでいるうち、Cuphead のゲーム・デザインに、感じ()るところ実に大となってきた。

 Cuphead は、カップやマグの形の主人公たちが冒険する2Dアクションゲームで、昭和初期(1930)頃のアメリカのスラップスティック・アニメーションの世界観が中心に据えられている。映像はカラーではあるが、ところどころセピア色のモノクロで、カラーのところもポスタリゼーションを施して彩色バリエーションや彩度を下げたようなレトロな感じにしてあり、何よりも常時縦方向にリアルなフィルムノイズが入る。音声は非電気蓄音機で音楽を聴くような帯域制限がわざとかけられて(ひず)んでいる。S/N比をあえて小さくしてあって、加えてところどころアナログレコードのようなスクラッチ・ノイズが混じり、まるで本物の昔のアニメーションを見ているようだ。そして、それがプレイヤーの操作で動かせるのである。プレイヤーはレトロ・アメリカのアニメの主人公のような気分になってゲームに没入できるわけだ。

 私などが感じるところ、ゲームには、「ファイナル・ファンタジー」シリーズの映像のように、写実的リアルを追求する方向が一つあり、それは行きつけるところまでは既に行きついている。その一方で、この「Cuphead」のように、写実的ではないリアルを追求し、そこに()りまくった工夫を(ほどこ)す方向もあるのだ。

 もう15~16年も前のことだと思うが、イタリアの鬼才、マルコ・スピトーニ Marco Spitoni 氏の名作「C.O.D.E Guardian」の冒頭の凝った描写に、これは、と思ったことがあった。ナチス・ドイツのプロパガンダ映像であればこうであったろうというようなリアルな仕上がりになっている。ああいうリアリティの方向もあるということを、この「Cuphead」を見ていて思い出した。

 私としては、戦前~戦後にかけての「日本ニュース」のような表現になった戦闘ゲームなどがあれば、やってみたいと思う。陸戦であったり海戦であったり空戦であったり、あの不鮮明なノイズと音声でその世界の中の人になれたら、きっと面白いに違いない。

 誰か開発してください。

成人の日

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天皇陛下万歳

 祝日「成人の日」である。自宅の軒先に国旗を掲げ拝礼する。

 生憎と新型コロナウイルス感染拡大中であり、緊急事態が宣言されている。各地では例年の要領での成人式は行われていないが、しかし、成人式を迎えた若い人には将来に希望を持ち、学業に仕事に、しっかり励んでほしいと思う。

 不安かもしれない。だがしかし、なぁに、何とかなるし、どうにかなるサ。

臭い臭い、外国人が臭い

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 私は自分の金融資産管理の範囲内で多少株式の売買もする。だが、社会勉強程度のもので、沢山(たくさん)の資金を()ぎ込んでいるわけではない。副業にはならない範囲で(つつ)ましく押し引きしている。

 さて、去る1月8日の金曜日、日経平均は30年ぶりの高値、2万8千139円をつけた。バブル崩壊直後、平成2年(1990)8月16日の寄り付き2万8千97円以来の値段である。その後、日経平均は絶えて久しく2万8千円の声を聞かなかった。それが30年経ってこの高騰だ。

 日本の株式市場は、新年の大発会直後は御祝儀相場などという日本らしい相場習慣が根強く残っているため、大概(たいがい)は上げ相場となるのであるが、それにしても異様な上げっぷりではある。

 そればかりか、昨年(令和2年(2020))の春から日経平均は実に堅調に推移している。昨年の春から今日までというと、まったくのところ、新型コロナウイルスの蔓延が世界を支配した時期である。この期間、日本人のセンチメントが日本株にじゃんじゃんお金を注ぎ込みましょう、なんていうような攻めの状況にあったとはとても思えない。

 ましてこの新年は、新型コロナウイルス感染症急拡大を受けての1都3県緊急事態宣言、加えて関西・中京地域もこれに(なら)わん(かな)の構えだ。新聞やテレビが(わめ)き立てる通りの状況だとするなら、新コロ休業を()いられている()(せい)は次々に倒産・廃業などし、とてものことに株に注ぎ込む余剰の資金など()()べくもない(はず)である。

 では、どこから資金が流入しているのか。

 古い言い方だが、株式市場に、外国人の体臭が芬々(プンプン)と充満しているように思う。というのも、日本人の目から日本だけを見れば確かに「買い」の状況ではない。がしかし、ではアメリカに投資するのか、あるいは欧州に投資するのかというと、日本の10倍とか100倍もの新コロ死者を出しているような()(わい)で無責任な国々や地域に、大事な自分の金を出す気はしない。欧米に比べれば、日本を含むアジア諸国は新コロに関しては多少マシとは言えるだろうが、しかし、投資先として選ぶには、中国は勿論のこと、多くの国々の先行きは不透明・不安定で、遠慮しておきたいというのが正直なところだ。インドあたりになると、新型コロナウイルス感染症の(しょう)(けつ)っぷりは欧州・アメリカとあまり変わらず、ここも手控えるに()かず、である。南米・アフリカなど推して知るべし、論ずるまでもなかろう。

 そうなってくると、単に「残った一番マシな市場」として、日本が浮上してくるわけである。そりゃあ、外国人臭い海外の資金も流入するだろう。

 上記に根拠はなく、私の妄想に過ぎない。しかし、さしずめこんなところでそう(ハズ)れでもあるまい。

 私の妄想通り、こんな理由での資金の集中であるなら、欧米が持ち直せば外国人はさっさとお金を引き上げてしまうだろう。

 山高ければ谷また深し、とはなかなか味わいのある警句である。多少余剰資金のある向きもあるだろうが、今から買いに出動するようでは、この資本主義社会、ひいては民主主義ってものを理解しているとは、言えんでしょうなァ。

風花(かざはな)

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風花(かざはな)()四囲(しい)()天楼(てんろう)街の底   佐藤俊夫

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今週のさえずり季題

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ああ、生命保険が出ない、なんてことになったら

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 新型コロナウイルス感染症の拡大は、のっぴきならないところにまで来ている。

 もうこうなってくると、運を天に(まか)せ、覚悟を決め、腹を(くく)り、もはや感染して死ぬのも悪くはない……などと、ふと脳裏をかすめるものもあったりする。直後、否、否否、死んでたまるものかと頭を打ち振ってそんな妄念を払い落とす。

 だが、私がそんな無責任な落想を(もてあそ)んでいられるのは、運よく今の働き口で長いこと俸給を貰い、その俸給の一部を割いて、万が一の場合に備え、団体保険、生命保険、個人年金、火災保険、自動車保険は勿論、公的年金や健康保険などにも十分にお金をかけてきているからだ。とりわけ生命保険については、癌保険や入院給付などの医療保険、その他諸々、これまで自分が不安に感じてきた要素に沢山(たくさん)お金を払い込んできた。

 そういうわけであるから、もし私が今日の今日、しかもたった今急死したとしても、妻と2人の娘には、なんとか口を(のり)するだけのものは残る計算である。

 これまではそれでよかった。だが、今般の新型コロナウイルス感染症拡大の状況は、そんな小市民的な安寧(あんねい)(くつがえ)しかねない。

 一般に、保険と言うものは最も困っているときに何の役にも立たないものなのだ。すなわち、「戦争や天変地異など、保険会社が負い切れない急変があった場合は、保険金は支払いいたしかねる」と言う意味の条項が、薄~い紙で「無視していいですよ」とのアピール全開で作られているらしい約款の、しかも最も後ろの方のわかりづらいところに、誰も読まないであろう6ポイント以下の活字で、「読むな」とでも言わぬばかりに刷り込まれているものなのである。

 今般、新型コロナウイルス感染症の拡大により、二度目の緊急事態宣言が出された。

 緊急事態宣言というのは、いうならば、戒厳令みたいなものである。つまり戦争と同じだ。戒厳令と緊急事態宣言の違いは、大雑把に言うと、国家の主権を軍事力が代行するか、通常の政治のままにするか、その違いにすぎない。日本は憲法上、軍事力が国家の主権を代行するということは不可能になっているから、緊急事態宣言はもはやこれ以上の状況はありえないということを意味している。

 そうすると、極端な話、私が今新型コロナウイルス感染症で死ぬとする。で、妻子が私の死亡保険金を請求すると、「今回は未曽有の天変地異ですので、保険金はお支払いできません」という無情な返答が保険会社から返ってくる恐れがあるのだ。

 こんな心配を保険会社にまともに問い合わせたって、納得のいく返答は多分、ない。保険屋の窓口の営業担当なんてものは、保険料を取れば取るだけ、保険金を払わなければ払わないだけ、優秀な社員として()められるものと相場が決まっているからだ。

 つまり、「安心してコロナ自殺する」というわけにもいかないのである。