怖い

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 おお、怖い怖い。

 うかうか歩いていたら、街中にゃこういう連中がうじゃうじゃいるわけなんだから。

運慶展

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 このところ、二、三日暑い日が続くな、と思うと今度は少し雨となる。繰り返しだ。晴雨交互の(たび)に涼しくなっていく。秋らしい。

 既に近所の柿が色づき、熟し始めた。

 今日は秋雨だ。朝から霧雨が()()えとあたりを包んでいる。

 昨日、「運慶展」が催されていることを知った。通勤電車内で、ポスターを見て知ったのだ。上野の国立博物館で催されているという。

 早速昨日のうちに上野に寄った。私は毎日秋葉原で乗り換えるので、上野は通勤経路だ。仕事の帰りに寄ったのである。これはすぐに運慶展を見るためではなく、(あらかじ)め図録を買うためだ。

 私は時々こういうことをする。図録だけ先に買い、金曜の夜にゆっくり図録を眺めて予習をするわけである。歴史や背景などの理屈、諸々のエピソードなどを予習してから、土曜に実物を見に行くわけだ。こうすることで、実物を見るときに展示物以外のことに気を散らさないで済み、作品に集中出来る(わけ)である。丁度(ちょうど)昨日は金曜だ。

 運慶・快慶の作品は、学校の教科書に出てくるから、誰でもよく覚えている。東大寺の金剛力士像や、興福寺の四天王(してんのう)立像(りゅうぞう)などは日本人には懐かしくさえあるものだ。

 正岡子規に

無著(むじゃく)天親(てんじん)その()の仏秋の風

……という句がある。今回の展覧会は、興福寺に伝わる、その「無著菩薩」「世親(天親)菩薩」の立像(りゅうぞう)は無論、高野山金剛峯寺の八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)や、運慶の直接作品ではないらしいまでも、多大に運慶の影響を受けていると伝わる十二神将立像(りゅうぞう)など、過去なかったほどに運慶及び所謂(いわゆる)「慶派の仏師」の作品を集めて開かれている。

 やはり目当ては興福寺の運慶作である。

 実は子供の頃、興福寺にも東大寺にも、何度も行っている。東大寺の金剛力士像は勿論のこと、興福寺の無著菩薩も世親菩薩も、また四天王立像など、数多くの運慶作品に親しんできた。ただ、そうしたものをしょっちゅう見られる事が()(がた)い事だとは、子供の頃にはわかる筈もなかった。

 事前の情報ではかなり混むということだったが、今日は生憎(あいにく)秋雨(あきさめ)のせいか人々の出足が鈍いらしく、待ち時間0分で入場できた。

 会場は平成館の2階で、第1会場と第2会場に分かれている。年代順に前期が第1会場、後期が第2会場だ。

 いやもう、眼福、眼福、眼福、これあるのみであった。

無著菩薩立像

 なんと言っても、見どころは無著菩薩立像(むじゃくぼさつりゅうぞう)だろう。

 粘土でかたどるブロンズなどとは違い、彫り直しのきかない木彫(もくちょう)だ。その制約のもと、一体どうやって、この悲しみとも内省ともつかぬ深い精神、慈悲と言うとかえって当たり過ぎで、逆に軽く感じてしまって十分に形容できない、鎮々沈々として、かつ()()みとした人生の表情を彫り出したのだろうか。しかも、これは実在の無著を写したものではない。「多分、無著と言う人はこういう表情を(たた)えていたであろう」という想像によって彫られている。しかもその想像は、800年も後の私たちをして(うべな)わしむるに足る。

 東大寺の金剛力士像の迫力とはまた違った説得力を持っているのがこの無著菩薩立像である。

 評論家の西尾幹二は東大寺の金剛力士像を、その通俗ゆえにか、バッサリ「愚作」と切り捨てている。だがしかし、通俗のものは、違う角度から見た本物と言うべきであろう。金剛力士像もまた運慶の面目躍如たる作品であり、切り捨ててしまうのはあまりにも果断に過ぎる。そうは言うものの、西尾幹二が金剛力士像を愚作と言い切ってまでこの無著菩薩立像に入れ込む気持ちもよくわかる。

 四天王の足下に踏み(しだ)かれる邪鬼(じゃき)に目を奪われる。人外の者であることを表す四本指に二本(ひづめ)、踏みつけにされて飛び出た目玉、見れば見るほど考え込まされる。

 重要文化財「十二神将立像」は、もとは京都の浄瑠璃寺の所蔵であったが、今は国立博物館と静嘉堂文庫美術館が別々に蔵しているため、一度に見ることができない。この展覧会では、これらが四十数年ぶりに一か所に集められた。めったに見られない展示で、これも見ものであった。十二支(じゅうにし)、つまり干支(えと)のそれぞれをわかりやすくかたどった神将群で、それぞれ額に子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥(ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い)のシンボルを頂いている。直接の運慶作ではないらしいが、運慶の名は当時の彫刻ジェネレーションを象徴してもいて、運慶ムーブメントのうちであると言っていいのだろう。

 昼遅く、たっぷりと運慶展を見終わる。

 せっかく国立博物館に来たのだから、ということで、常設展も一回りすることにした。

名物(めいぶつ)三日月宗近(みかづきむねちか)」こと三条宗近(さんじょうむねちか)太刀(たち)

 面白かったのが、刀剣の展示に若い女性が行列をなして群がっていたことだ。

 「名物(めいぶつ)三日月宗近(みかづきむねちか)」こと三条宗近(さんじょうむねちか)太刀(たち)を見るための列が、ほぼ「30分以上待ち」であった。刀剣の鑑賞が女性の間で流行っているということは知っていたが、30分も並んで刀剣を鑑賞するほどの流行になっているとまでは知らなかった。こんな風に「流行」と言ってしまうと、「違うわよ、私は芯から本物の刀剣愛好家よ!ちょっとやそっとの流行と一緒にしないでよ!!」と女性陣に叱られる気もするが……。

 さておき。

 国立博物館は、一度入ってしまうとさながら罠のように私を(から)め捕える。いつまでも入り浸っていたいのだが、いい加減のところで未練を切らないと、出られなくなってしまう。後ろ髪を惹かれるようにして、15時頃、博物館を後にした。

 上野公園では何か「にっぽん文楽」という催しをやっていた。和風の扮装の一団が音楽に合わせて踊り演ずるものだ。一部始終を面白おかしく見物した。

 仲町通りで一杯、それからアメ横の藪蕎麦で「なめこ蕎麦」を啜り込み、帰路につく。

 帰宅すると、いい感じに18時である。楽しい土曜日であった。

やや寒

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FBに広告出したら面白い

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 ほほ~……

 そりゃまあ、どこの馬の骨とも知れぬ、アクセスしてよいことが何かあるとも思えない初老のオッサンのブログだ。そんなものに魅力などあるはずもないが、この広告の分析結果は面白い。300円、払い応えがある。

 広告と言うのは、なかなか難しいものであるな。

 というか、80円消費時点では、特に誰もアクセスなんかしないということがわかった。なるほどなあ。電通や博報堂などのブラック企業が従業員を死ぬまで働かせる理由もよくわかるというものだ。

ええ根性しとるわ

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 「あー、2本狂惨盗と申しますが」と名乗る、まるでキチガイみたいな、恐るべき名前の男から電話がかかってきた。

 よりにもよって、万物の霊長たる人間に、こんな姓や名があるなどとは思いもよらぬことだ。私自身の油断を言われると恥ずかしい限りだが、虚を突かれるというのはこういうことだ。

 こんな姓名、そもそも、どこからが苗字で、どこからが名前かもわからない。

 「2本」て、アンタ……。指を2本ですか?やめてくださいよ真ッ昼間っから。なんなんですか、物事は穏当でなくっちゃいけませんよ、ええ、ええ。

 その人の電話の仕方も、こんな変な姓名をしている人そのもので、私の応答など関係なしに、ほとんど意味の解らない繰り言を延々と述べ続けるというスタイルだった。名は体を表す、というが、まったくその通りだと思う。

 忙しかったのでその旨を丁寧に断り、電話を切った。物凄い名前のその男は、私が断っている最中も休みなくしゃべり続けていた。

 よくわからないが、こんなことをしでかすのは多分、社会主義者か共産主義者だろう。ああ、怖い。そのうちにテロでも起こすのではないか。

 しっかし、祝日ごとに軒先に国旗を掲げ、家の前で敬礼して「天皇陛下万歳」と叫び、毎年靖国神社に通っているような頭の悪い右翼(笑)の家へ、よく電話なんかかけてくる気になるなあ。エエ根性しとるわ。実際のところ、私の家のポストには、そうした日常の精神力が伝わるのか、変なビラなど1枚も入ったためしがないのだが。

ホンビノス

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まだある「ボテフリ」のウェブサイトの魚拓

 近所に「ボテフリ」という海鮮浜焼屋があり――夏に閉店してしまったが――何度か行ったことがある。

 「(はまぐり)の食べ放題」があって、「アチチチチっ……!」なぞと言いながらこれで酒を飲むのはこたえられなかったが、メニューなどには「当店の蛤は『白蛤』を使用しています」などと添え書きがしてあった。

 なんだろ、白蛤、って。「白」というくらいだから、蛤の質が上等だ、ってことでも言ってンのかな、くらいに感じて、別に気にも留めていなかった。

 別の時。最近よく行く「磯丸水産」で旧友F君と飲んだ時に、肴に焼蛤(やきハマ)を頼んだ。カッコ書きで「白蛤」「ホンビノス貝」と書いてあり、またカウンター席の天井近く掲げられた品書札には「本美之主(ほんびのす)貝」とも書かれていて、なんだろ、ホンビノスって、……と思っていたが、それほど気にしていなかった。

 今、あらためてググッてみると、なるほど、ホンビノス貝というのは蛤によく似たアメリカ原産の外来種なのだそうで、これを「白蛤」と通称するのも、まあ、嘘でもないような、そうでもないような……というところらしい。

 いいとか悪いとかいう話ではなく、安くて美味しいので、まあ、そういうものが普及するのもやむを得まい。スーパーなどでよく見る、「アフリカのどこやら原産のナンタラ鯛」とか書いてある、安くてうまいナンタラ鯛みたいなものだろう。