パッヘルベルの「カノン」その0.00

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 ジムノペディ1番がだいたい弾けるようになった。

 今度は何を弾こうか、と考える。

 パッヘルベルの「カノン」を弾くことにした。

サティ「ジムノペディ1番」 その1.00

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 引き続き稽古中の「ジムノペディ1番」である。

 今日も練習に励み、だいたいつっかえずに弾けた。

 これを「その1.0」としたい。


YouTube: Gymnopédies No.1

サティ「ジムノペディ1番」 その0.99

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 毎日休まず、地味にピアノの稽古は続けており、去年の秋ごろからの「ジムノペディ1番」の稽古も少しずつ少しずつ進歩させている。

 今日はひとつ録音を残してやろうと朝から頑張った。

 だいたい気に入った演奏ができた。少しつっかえているところもあるが、そこはアーティキュレーションということで(笑)、この演奏を「0.99」ということにしたい。

軍のイノベーションを阻むもの

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 新しい本をほとんど読まない私だが、この本は少し興味を覚えて読んでいる。

 この中で、「えっ、これ、日本のことじゃないの?」(笑)と思えるような記述があり、ははーん、名にしおう合理的近代軍であるところの米軍ですら、こういうことに悩むんだ、と思ったので、その部分を引用しておきたい。

第6章 紛争と戦争の未来の中の一節、「軍のイノベーションを阻むもの(p.329)」より

【引用ここから】

軍のイノベーションを阻むもの

 残念なことに、軍事請負業者に要求される煩雑な手続きが、こうした進展(佐藤注:先進のITやロボットを活用したRMA)の多くを阻害している。

 アメリカでは軍産複合体が、上記で説明した計画の一翼を担っている。現在配備されているロボットの多くは、DARPAが開発の陣頭指揮を執ってきたが、複合体は本質的にイノベーションの推進に適した体制ではない。DARPAですら、資金はわりあい潤沢だが、複雑な契約構造や、国防総省の官僚機構における力関係のせいで、やはりイノベーションを阻害されている。

 アメリカ軍は、無秩序でややこしい調達システムのせいで、自国の技術部門の強みである革新性を十分活用できず、その結果深刻な機会損失を被っているのだ。

 軍産複合体は改革を断行し、軍事機関や請負業者が、小規模な非公開企業や新興企業のように機動性に富んだ迅速な行動をとれるような体制を整えなければ、緊縮財政を前にして、業界全体が発展するどころか後退しかねない。

 軍もこの問題を重々認識している。シンガーは、私たちにこう説明してくれた。

「このどうしようもない構造からいかにして脱するかが、軍にとって大きな戦略的問題になっています」

 大型の国防案件が、予算超過とスケジュールの遅れから、プロトタイプの段階で棚上げされるのをよそ目に、今日の民生技術や商業製品は、記録的な早さで開発、製造、発売が進められている。

 統合戦術無線システム(JTRS)は、軍が開発を進めていた、インターネットに似た新しい無線通信ネットワークで、1997年に構想されたが、2012年に打ち切られ、調達部門だけが、現在は統合戦術ネットワーキングセンター(JTNC)と呼ばれる軍の機関に移管された。打ち切りが決まった時点で、数十億ドルが投じられていたが、まだ戦場に本格配備されていなかった。

「軍には、こんなやり方を許す余裕はもうありません」とシンガーは指摘する。

【引用ここまで】

欠席者と(くじ)

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 次女の中学校の入学式に出た。懇意にさせていただいている方がPTA会長をしていらっしゃるので、なにか参列する気持ちもいつもより粛然とするのであった。

 入学式後、PTAの役員・係の(くじ)引きなどもある。

 そのことで、ふと思い出したことがある。数年前、長女が中学2年生くらいだった頃の、クラスのPTAの係を選出する籤引きでのことだ。

 PTAのクラスの係の籤引きは、たとえ欠席者があっても、代理がその人の分も籤を引き、当たればそれを伝えることになっている。平等に役を割り当て、いわばズル休みを防ぐ効果もあって、文句の出ようのないところだ。

 さて、その日は、全部で30人の保護者のうち、3人の欠席者があった。出席している保護者が、30本の籤を順番に引き始めた。役員は3人決めることになっていて、つまり「当たり」籤は3本だ。たいてい、15、6人ほども引く頃には、1人か2人は当たり、籤の終盤になると、全員が引き終わる前に3人の役員が決まるのが普通だろう。

 ところが、その日はどうしたことであったろう。

 15人ほどが引いても一本も当たりが出ないのには、残りの人たちも既に引いた人たちも、「面白いわね」「なかなか白熱してまいりましたな、これは」などと冗談のひとつも飛ばして盛り上がる余裕があった。

 しかし、18人が引き終わり、20人が引き終わる頃には、やや会場がざわつき始めた。「ちょっと、これ、当たり籤は本当に入っていますか?」という質問も、わりあいに真面目な調子で出始める。「ええ、先ほど、絶対に間違いなく入れましたよ、皆さんも見ておられたはずです」と、籤を作成した人が言う。

 ついに、25人。引いた人が「ハズレ!」と言ったときの、一同の驚きの声たるや!。26人!またもやハズレ!もっと大きな声が上がる。

 そして、ついに27人が引き終わってしまった。残りは3人の欠席者の代理引きだけだ。果たして、箱に残った三つの籤は全部PTAの係に大当たり。欠席者3人がPTAの係ということになってしまったのである。

 保護者たちは欠席している人にこれを伝えるのに、「いないのをいいことに、面倒を押し付けたのではないか?」と思われはすまいかと内心穏やかでなかったが、まあ、衆人環視のうちに行われた籤引きのこと、なんの不正もなかったことは全員が保証しうるので、そこはなんとかなったようだ。

 そして、保護者たちは、「欠席者3人のために残された最後3つの籤が当たる」ということが、一体どれほどの偶然によるものか、天の配剤を思って、だいぶしばらくの間、これを噂話にも茶飲み話の種にもしたものである。

 さてこの話は、まあ、「順列組合せ」の算数の問題として扱いうる。

_n C _k = \dfrac{n!}{k!(n-k)!}

…というアレだ。

 これを書き出して遊んでみる。写真のような計算になると思う。階乗の計算が面倒だが、分母分子に同じ数字が多いから、わりあい簡単な計算である。

春夜

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 降りつのっていた雨がからりと晴れ上がると、うたた高気圧性の風に吹かれて既に桜は散りはじめている。

 市ヶ谷見附の交差点で外濠の水面をながめていると、つい足が靖国通りへ向く。

 靖国通りの桜が散る下、金曜の夜を夜桜で楽しもうというつとめ人の男女が、罪のない笑顔を浮かべて和やかにそぞろ歩いていく。

 私もふと千鳥ヶ淵の夜の花筏に心惹かれぬでもなかったのだが、去年の大鳥居から手前の喧騒が思いやられ、増辰海苔店で好物の海苔を需めて引き返す。

 五日の月がするどい筈の尖りをおぼろに鈍らせてひょいと浮かんでいる。春夜は花の匂いの底に麝香のような淫靡な香りをしのばせている。

「眼をそらす」考

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 かなり前のことだが、新聞でこんな話を読んだことがある。

 ある工学者が、ロボット研究の一環としてちょっとした玩具を作った。縦横に走り回るタイヤがついた一種のロボットで、十数個ほどが組になっている。ランダムに走り回るのだが、ロボットの前方にはCDSセルなどに類する受光素子が、後方にはLEDの発光器がついている。これをバラバラに走り回らせて放っておくと、他の個体の後ろにあるLEDを感知して追従し、次第次第に列をなし、しまいには十数個が自然に一列になってぐるぐる走り回る、というおもちゃである。

 どの個体も、機械的に同じように作られている。したがって、どう走らせようと列をなす順番はランダムになるはずである。ところが、なぜか、どうしても先頭になりやすい個体があり、何度も試して統計をとると、統計上無視すべからざる有意な傾きで、先頭になりやすいもの、2番目になりやすいもの、ビリになりやすいもの、と、電子的な機械なのに、癖が出てくるものなのだそうな。

 工学者はそのことがどうにも不可解なのでよく調べてみたという。

 原因は意外なところにあった。

 このロボットは、正面から向き合ったときに衝突するのを防ぐため、正面にも発光器をつけてあり、別の個体が正面から向かってくるのを衝突回避用の受光器が感知すると、必ず右に向きをそらせて走行するようになっていた。いわば「眼をそらす」ようにして、衝突を避けるしくみなのである。この「眼をそらす」動作に、ほんのごくわずかな工作加工上の差があり、個体によって回避動作がゼロコンマ何秒かづつ違うことがわかったという。このやや回避動作の遅いものは、自然直進しがちとなり、どうしても他の個体はこれに追従するようになる、その回避速度の差が、個体ごとに順序の癖となって現れていることがわかった、というのだ。

 この、かなり前に聞いた単純なおもちゃの話が、私にはどうも、我々人間様も、例えば 餓鬼大将の決まり方などに、似たような理由が作用しているように思えてならなかった。というのも、子供の頃の「先頭の奴」は、かならずしも優秀とか能力が高いとか言うわけではなく、また親切でもなく優しくもなかったように思うからだ。

 どちらかというと、「適度に鈍い奴」が先頭になっていた気がする。

 中学生くらいになって、ヤンキーの怖い奴の眼を見ると、

「『めんち』を切った」

…なぞと言って因縁を吹っ掛けられるので、触らぬ神にたたりなしと、私など弱小のその他大勢は、まともにヤンキーの眼など見なかったものである。ちなみに、この「めんち」というのは、関西弁の言い方だ。私は大阪出身なので、この言い方のオイシさにゾクゾクきてしまうが、関東の人などは「ガンをつける・飛ばす」などと言うのが普通だろう。

 さておき、それよりもう少し成長して、武道を学んだり、社会に出たりなどすると、

「相手の眼をよく見ろ、眼をそらすな、相手の気持ちもこちらの気持ちも眼に現れるのだ」

…なぞと(しつ)けられるようになる。素直な若者であった私も、こうした上司や先輩の教えをよく聞いて、人の眼を見るようになったものだが、これがまた、落とし穴なのだ。

 だんだんと実際の生活を送るようになればわかることだが、いつでもどこでも誰の眼でも、じっと睨み付ければそれでいいというものではないのである。

 上司などは、目下の部下を叱責などしているときに、じっと眼なんぞ見られると「コイツ、ふてぶてしい奴だ」と不快を覚える場合もある。あるいは、これも場合によるが、女性などは男にじっと眼を見られると、恐怖を覚えたりする。これは、顔が笑っていればそれでいいというものでもなく、笑っていようが真剣な顔であろうが、眼を見られれば不快なときには不快なのである。

 ある「面接試験の受験心得」のようなものを読んだことがある。それには、

「基本的には面接員の顔、特に眼を見るべきではある。しかし、面接員の眼をあんまり激しい視線でじっと見つめすぎると、人によっては不快を覚えたり、生意気な受験者だとの印象を与えてしまう場合もある。そこで、面接員の眼がみづらいな、と感じたら、自然に胸の辺りを見れば、それほどとがった印象を与えずにすむ」

…などと書かれていて、これはだいぶ世間というものをわかった人が書いたのだな、と思ったことがある。ただ、それはかなり古いテキストで、女性の面接官や面接員があまりいなかった時代だ。今だと、女性の胸などじろじろと見ていたら、それはそれで多少問題があり、どこを見たものか、なかなか難しい。

 なにしろ、「人の眼を見ろ!」なんてことを厳しく躾けるオッサンに限って、自分の眼を見つめられると怒り出す、なんていう笑えない一幕も世の中にはよくあるのであるから、生活と言うのはこれでなかなかどうして、微妙なものである。

 人と向き合うときに眼を見ることには、このように少しばかり気遣いが必要だが、街の雑踏などを歩いていて、向かってくる相手を見る、見ないということに、いろんな類型を見いだして興味深く思うことがある。

 例えば、「あ、このまま直進すると、向こうから来るあの人とぶつかるな」と気づいた際の行動だ。こうしたとき、

● 相手をよく見て、その出方で、こちらも避ける方向を決める。

という、ノーマルな行動をとる人がほとんどだと思う。だが、ありがちなことだがこの方法は、お互いに同じ方向に避けあって、2、3度タタラを踏んでしまう、という滑稽なシーンを現出させる。

 時々見かける、決して少なくはない類型に、

● ぶつかりそうだな、と思ったとたん、「えーっと」と、横や後ろに眼をそらしてしまい、そのまま直進する。

…という人がある。意外とこういう人は多い。こうなると、相手の方が「あ、あいつ、こっちを見てないな、しょうがない、俺が避けよう、やれやれ」と瞬時の判断で自然に避けるわけである。

 これはうまいやりかたのようでいて、どうも、快くはないやりかたである。時々、双方ともそういう行動をとって、ついにぶつかってしまい、双方がすんませんすんません、と謝りあっている光景などを駅で見かける。

 実はこの私も、一時期そんな癖がついてしまったことがある。ところが、あることがあってやめた。

 大人になってからなのだが、向こうから来た人にぶつかりそうになり、その頃のなんとはない癖で、ひょいと眼をそらして直進した。ところが、向こうから来た、金髪入れ墨のヤンキー兄ちゃんは、どうもじっと私を注視しながら直進を敢行したとおぼしく、どんとぶつかって、低い声で「コラ」と言ったものだ。

 その時には、あ、ごめんなさいで済んでしまい、特段トラブルにもならなかったのだが、自分の行動様式を見直した私は、この「眼そらし直進」をやめ、向こうの眼などを見て通行するようになった。そうすると、こちらが避けるにせよ、相手が避けるにせよ、意外に通行しやすいことがわかったのである。

 困るのは、この「眼そらし直進」を、自動車を運転中に、歩行者に対して実行する人物がいることだ。これはもう、ぶつかって「すんませんすんません」ではすまない危険極まるやりかたであるから、やめるべきである。自動車を運転しているときに「『めんち』を切った」なぞと中学生のような因縁をつける者などいないのであるから、どうか周囲の車や横断歩行者の動向をもれなく注視してもらいたいものである。

 私などには、実は別の悩みもある。どうも、私は裸眼のせいもあってか、「どこを見ているかわかりやすい」らしい。自分ではわからないのだが、つまり、視線に遠慮がないようなのである。

 雑踏などで向こうから来た若い女性が、私と眼が合うや、急に胸元をかきあわせたり、そわそわと自分の服装をチェックしたりすることが多く、なんでだろう、と思っていたのだが、どうも、私がじろじろ見るのがいけないらしい。そのため、昼間はおろか、真夜中にすら視線隠しのサングラスをかけるようになってしまった。私も見ず知らずの人に視姦魔扱いされて嫌われたいわけではないからである。

 とまれ、眼を見てみたり今度は逆にそらしてみたり、なかなか視線の置き所がないものだ。若い女が極端に短いデニムのパンツなどを穿いて白い脚をむき出しに組んでいたりするのを見ると「眼のやり場に困る」という慣用句を使いたくなるが、別段裸体の女性がいるわけでもないのに眼のやり場に困っている私は、まったく因果なことを気にしているな、とも思うのであった。

次女のピアノ発表会

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 半日、次女のピアノ発表会に行って過ごす。

 次女がお世話になっているピアノの先生は伊藤先生という独立の方だ。ヤマハや島村楽器と言った大きな組織とは関係なく教えておられる。しかし、発表会を開くときには、場所を借りるにも楽器を借りるにも、スケールメリットというものがある。そこで、同じように独立して教えている近在の先生方が数人で「アンプレセ」というグループを作り、年に1回の発表会はこのグループで開くのだ。そのため、保護者も結構な人数が集まる。

 私が住む新越谷に「サンシティ」という市民ホールがある。今年のピアノ発表会も、ここ数年の例と同じくそこの小ホールで行われた。

 素人の、しかも子供のピアノ発表会である。ところどころリズムが怪しかったり間違えて弾き直したりもする。だがそれでも、どの子も見事な演奏ぶりだ。見覚えのある子達の、その1年それぞれの進歩が見て取れ、一人づつ頭を撫でてほめてやりたいくらいである。

 次女と同じ先生に習っている双子の姉妹が連弾するブラームスのハンガリー舞曲5番など、見事なものであった。この姉妹はもう大人に近く、花も恥じらう乙女である。次女が小さい頃から同じ先生にピアノを習っているので、私もこの可愛い双子姉妹がまだほんの小学生の子供の頃から知っているが、昔から上手な弾き手であった。

 例年男の子が少なく、ほとんどが女の子だが、一人、これは、という小学校1年生の男の子がいて、バッハのコラール「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」を美しく弾いた。選曲の趣味のよさもあって、期待が持てるな、と思った。

 次女はというと、今朝という今朝の、それもぎりぎりまで稽古して、それでまだつっかえずに弾くことができず、しまいには鍵盤をピシャンと叩いて癇癪を起こしかけていたのに、またどういうものであろうか、「本番タイプ」の子なのである。ステージに上がるとシレッと落ち着き、弾き出しは多少怪しく、また幾分のミスタッチもあったものの、無難に今年の演目、ジュゼッペ・コンコーネの「魔女のダンス」を弾いてのけ、シャアシャアと落ち着いている。


YouTube: 「魔女のダンス」佐藤智香演奏

 今年音楽大学に進学するというすばらしく上手なお嬢さんの協賛出演があったほか、最後に先生方の見事な模範演奏が行われ、目が覚めるような思いがした。

 この指導者グループ「アンプレセ」の主宰は中村肇先生という方だ。私は何度かこの発表会に次女の連弾相手として出たほか、一度はソロでも弾いたことがある。そのため、年に一度お会いするだけなのに中村先生は私を良く覚えてくださっていて、「智香ちゃんのお父様、もう、いけませんなア、来ておられるんだったら弾いてくれたらいいですのに(笑)」と冷やかし半分におっしゃるのだった。去年・今年と私も多少忙しく、ために出演できなかったのだが、そのことをとても惜しんでくださって、私が「いやあ、それでも、毎朝のピアノの稽古だけは欠かさず続けているんですよ、でも今年は出演できるところまで仕上がりませんでして」と言い訳に頭をかくと、「それならばなおのこと、来年はぜひ出演をお願いしますよー!」と励ましてくださるのだった。

 こうして半日、心地よくピアノを聴いて過ごしたことであった。

サティ「ジムノペディ1番」その0.50

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 秋ごろからずっと「ジムノペディ1番」を稽古している。

 そう難しい曲ではないのだが、なかなか覚えられず呻吟している。特に、二つ目の主題のところの、左手がなかなか覚えられない。なんでだろう、と思う。

 気合の入り方、かなあ。

 しかし、いつまでも引っかかっているのもどうかと思い、ちょっと今日は気合いを入れて稽古し、録音を残した。だが、二つ目の主題は公開できるほどのものができなかったので、カットした。

1億倍で言わないと消滅する。

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 以前、「中国人13億人と日本人1億3千万とが全力で殺し合いをしたら、秒殺で日本人全滅。戦い方で工夫をして勝つなら、あらゆる能力が100倍優れてないとダメ」みたいなことを、ランチェスターの二次則にからめて書いた。

 簡単な理屈で、100倍というのは勢力比の自乗である。

 もう一度書くならこういうことだ。ランチェスターの2次則によれば、損耗は勢力比の自乗で作用する。

{B_0}^2 - {B_t}^2 = E({R_0}^2 - {R_t}^2)

 ここに、
  B 青軍
  R 赤軍
  B0、R0:  青・赤両軍の最初の兵力
  Bt、Rt:  ある同じ時点での青・赤両軍の残存兵力
  E:  兵力の質の比。赤軍の質が青の倍であれば2、半分であれば0.5。

 式を変形すると、例えば、

{B_t = \sqrt{{B_0}^2 - E({R_0}^2 - {R_t}^2)}}

 このR0に日本の人口、Rtにはゼロを、B0に中国の人口、Eに1.0を代入すれば、つまり「日本人が全滅を期して捨て身の特別攻撃をしかけて、中国にどれだけの損耗を強いることができるか」という冷厳な計算となる。

 言うまでもないが、この計算はするだけムダだ。それでもあえて計算してグラフを描けば、こうなる。

Photo_3

 日本人の人数の、10分の1の損耗すら、与えることが出来ない。一人十殺どころか、10人がかりで1人殺すこともできないのである。

 これを互角にするには、兵力の質の比「E」を高めることだが、これも計算するだけムダである。100倍以上という数字が出るだけだ。

E=\cfrac{{B_0}^2 - {B_t}^2}{{R_0}^2 - {R_t}^2}

 この式にそれぞれ中国と日本の人口、互角となるようにBtとRtにゼロを代入すれば、約106という途方もない数字になってしまう。

 これが、先日私が書いた、じつにお粗末で簡単な理屈である。だがしかし、「殺し合い」なぞと物騒な書き方をしたから、どうにも老幼婦女子に刺激が強すぎたと言おうか、まず「穏当でなかった…」のは否めない。

 だが、殺し合いまでは行かない、例えばあることに関する意見や主張、ということではどうだろう。

 「昭和10年~20年(1935年~1945年)までをリアルに過ごした全ての日本人は悪魔で殺人鬼で血も涙もない許すべからざる鬼畜で、レイプ大好きな人類の敵だった」

…ということを、13億人の中国人が全員で言い、そして、かたやの日本人の、まあ、せいぜい100万人ほどのかわいい勢力が、小さな声で

「そ、そんなことないよぉ…当時の日本人にだって、いい人はたくさんいたんだよぉ…」

と、ボソボソ口ごもるとする。まあ、大声の大合唱と、小さな声のつぶやきとの戦いだ。そうすると、どうなるのだろう。

 この際、10億ナンボという土台に対して、朝鮮半島の5、6千万なぞ、計算の埒外、誤差というか、ゴミのようなものであることをあらかじめ言っておく。

 13億人の中国人全員が全力で100%の力を出し切ってこんなことを言うというのも、非現実的だ。中国人の中にだって、「いやいや、それは言い過ぎだって。日本だって、当時当時の情勢ってものもあったわけだから」と、一定の理解を示す知性のある人も少なからずいるだろう。だから、方程式の入力に「13億」と叩き込むのはよろしくない。また、全員が100%で主張するというわけでもなく、かなりラジカルな活動家でも、1%ぐらい「日本人だって人間なんだから」と心の片隅で思っていなくもないだろう。そういったところをあれこれ差し引きして、

「13億人中の10億人が全力で『A』と主張する」

…とでもしようではないか。

そして対する日本が、「100万人のかわいい勢力が小さな声で言う」というところを置き換えて

「10万人の勢力が全力で『非A』と主張する」

とでもしようではないか。

 先日の私の遊びのように、13億対1億3千万をランチェスターの二次則に代入するなど、代入する前からわかりきった馬鹿馬鹿しいことだった。それが10億対10万である。これは馬鹿馬鹿しいを通り越して頭脳の目方を疑われるような無意味なことだ。

 それでも、あえてグラフを描こう。

Photo_4

 横軸の、中国の10億が、まったく変化していないことに注目しよう。実は変化しているのだが、桁が小さすぎて表示できないのだ。つまり、ただの一人たりと、日本の意見に同意してもらうことなど出来ない。

 では、これを互角にするにはどうしたらよいのだろう。互角にするためには、交換比Eを計算すればよい。

E=\cfrac{{B_0}^2-{B_t}^2}{{R_0}^2-{R_t}^2}=\cfrac{10^2}{0.001^2}=\cfrac{100}{0.000001}=100000000

 1億倍である。

 こちらの主張を、日本人特有のおくゆかしさでもって、「いつかはどちらが正しいかをちゃんと天が見定めてくれる」とわけしりぶって小さな声で言っていることには、数値上の意味はまったくない、ということだ。

 正しいとか、正しくないとかはこの際置こう。おじいちゃんおばあちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃん、我々を産み育てた父祖の世代が、「クズでカスで大便みたいなゴミだった」という認定が、世界的定説になるかならないか、それをどうするのかということなのだ。

 それを互角に保つには、キチガイ右翼の街宣車のボリュームがやかましいなどという、そんなどころの騒ぎではまったくダメで、「1億倍の強度でそれを言わなければならない」ということである。

 「1億倍の強度で言う」ということは、簡単なことではない。これは例えではないからだ。

 例えではない、ということはどういうことか。具体的に書けば、中国人一人がネットに

「日本カス。死ね。」

…と8文字ほど書いたら、互角に対抗するために、10万人の日本側は

「日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です

~(中略)~

日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です」

…と、8億文字ほどの情報をネットに流せ、ということなのだ。そうしないと、「日本人は昔から罪深い糞でアホでカスだった」という認定が、朝夕に迫るのである。

 そんなことは、到底できることではない。