庭弄りに念入りな近所の家々では百日紅が咲き始めた。一昨日は今年初めての蝉の声を家の前で聴いた。
全国各地では停滞する梅雨前線の影響による豪雨被害のために夥しい死者が出つつある。気の毒だ。亡くなった方の冥福を祈り、またからくも命を拾った方には、なんとか災害から逃れられるよう祈りたい。
ところが、一体に関東、特に東京周辺は静かなもので、そのギャップに暫し呆然とならざるを得ない。テレビをつけると、「ワールドなんとか」とやらで、延々とサッカーの試合を中継している。見て面白いものとも到底思えないような――いや、この折柄に大々的に面白がるなぞ不謹慎の極みなのだが――サッカーの中継しかやらないとは、まったく、テレビ屋の無味蒼白で機械的、ロボット的な無責任さに恐れ入る。
Twitterなどちょっと覗いてみると、無策の政府を非難する声と、サッカーの中継以外に能のないマスコミを非難する声が交々罵り合っている。
そんな昨日今日であるが、個人が盲動また妄動してどうなるものでもない。垂れ込めて、引き続き開高健「最後の晩餐」を読む。
言葉
ベデカー
ベデカー(独: Verlag Karl Baedeker)は、近代的旅行案内書の草分け的存在を出版しているドイツの出版社、および、その会社が出版する旅行案内書。
アウフヘーベン
止揚。一度否定し、さらにその価値を高めて昇華させることである。
手沢
出典:デジタル大辞泉(小学館)
1 長く使っている間に、手のあぶらがついて自然に出たつや。転じて、故人が身近において愛用したもの。
2 「手沢本」の略。
類語
手垢(てあか)
人
食通。著書に「食」。
しかしマァ、ボンボンそのものではあるワナ。そりゃ、世界各地の野食美食のあれこれに精通もできようて。
邱永漢
ずぅ~っと、ずっと、「ていえいかん」だとばっかり思っていた。漢字の偏が「氐」ではなくて「丘」なので、これは「キュウ」であるはずのものだ。
しかし、Googleに「ていえいかん」と入れると、検索アシストに「邸永漢 邱永漢」などとたちどころに出てくる上、検索すると「次の検索結果を表示しています: 邸永漢/元の検索キーワード: ていえいかん」などと表示されるから、多分私のように、邱永漢氏のことを「邸永漢」だと思い込んでいる人は多いのではあるまいか。
郷里では弔み事があった。
小さい頃から可愛がってくれた伯母だ。弔電を打ち、香典を書留で送る。しかし折柄、身動きもならぬ。仕方もなし。
じっとしているより他ない。夕刻、バタピーなぞで一杯やる。言うなら「乾きて候」というところか。黙然。