蠅叩きとCOVID-19

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 あ~あ~、また変な記事が出てる。

 私などが子供の頃、大阪の()(げん)では「金持ちと蠅叩きはたまればたまるほど(きたな)い」などと言ったもので、そんな(ぞく)(げん)に込められているであろう気持を推し量ればそうと判る通り、金持ちなんて言うのは(べっ)(しょう)に過ぎなかったものだ。

 そんな感覚を持ち合わせる私のような人種に言わせれば、「富裕層」なんて言い方・書き方も同断である。

 ……(キタナ)ぁ~ッ……

 変なワクチンで毒が脳に回って頭がおかしくなるか、発作でも起こして死ぬかするんじゃねェか?それはそれで、誠に結構なことである。

時事芬臭(ふんしゅう)

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何を言っていやがるこの野郎

 テレビ芸人なんかになんの責任があるものか。日々無責任に害悪発言を繰り返していて、よくこんなことが言えるものだ。責任があるというのなら、テレビカメラの前でずっと押し黙っていろ。

 ネット発言をする者のパーソナリティが見えないのは、単に無名であるだけのことだ。そんなこともわからぬような輩が公共の電波で我が物顔に我意を押し通そうとするなど、もはや世も末である。

 こ奴は自殺したタレントにことよせて人々を非難しているが、結局のところ一見始末をネットで発言する有象無象のせいにして、テレビ会社による人権蹂躙はなかったことにしてしまっている。そもそも一件はテレビ会社による行き過ぎた無理な番組制作が根本原因ではないか。

 自ら誇る自分の名前によって正々堂々、人殺しのテレビ会社を糾弾すればどうか。だができまい。テレビ会社に取り入って金を儲けているのだから。所詮タレントなどそんなものだ。

責任から逃げている米国民

 香港がどうとか、よそに難癖をつけて非難をかわしていないで、自分の国内の、新型コロナウイルスによるおびただしい罪なき死者の人権を擁護してはどうか。アメリカじゃもう10万人も死んだんだぞ。香港で10万人も死んだか?テメェんところじゃ新コロで10万人も殺しているじゃないかよ。しかもなお、ウイルスを次々に輸出してるんだぜ?

 アメリカ人よ。世界に対して責任とれよ。人殺しだぞお前らは。

時事沈々(ちんちん)

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 梅雨までのわずかな期間、初夏の風が薫る心地のする候となった。爽やかだ。

 しかし世相は依然猖獗(しょうけつ)を極めるコロナウイルスに(おのの)いている。

欧米人の入国禁止、旅行移動禁止というのは、今どうなっているのか

 これを見れば、いまや欧米諸国人が疫病蔓延の元凶であることは明らかである。ところが、数か月前、「中国人を入国させるな」などと(わめ)き立てたほどの強さでは、「アメリカ人を拒否しろ」とか「イギリス人を拒否しろ」なんてことは、誰も言っていない。

 おかしい。

 これは、テレビや新聞が悪い。検察官の定年なんぞで扇動なんかしていやがって、木っ端役人の1年や2年の分限(ぶんげん)(ごと)き、どうだっていいんだよそんなことは。

 仕事をしろよ仕事を>ブン屋どもめ

これ、被害者ぶってるけど、おかしいよ

 違うな。

 中国を責める前に、「米国大統領は力及ばず、国内で新型コロナウイルスを培養・蔓延させ、数多くの自国民を病死させてしまったばかりか、これを欧州その他世界へ再びばら()く愚をも犯してしまった」……っていう、まず第一にそこなんじゃねぇの?

 迷惑だよ。

 だいたい、今日現在、8万5千にも及ぶ死人を出してるんだぜ米国は。よろしいか、感染者じゃないぞ。死人だぞ、死人。もはや亡くなった人々を哀しみ(いた)み、沈々粛々としておれるような情緒的レベルなど、とうに逸脱している。犯罪行為だよこんな米国みたいな国のすることなすことは。

 中国なんぞに因縁つける前に、もっとしっかり、国民が政治をせい。

本来の危険な核武装国家はどこか

 ……。

 こんなニュースを見るにつけ、いつも感じるのだが、そもそも、北朝鮮なんかより、米、露、中、仏、英なんかのほうが、よっぽど怖くねえか?核とかICBMとか核原潜とかそういう危険なアレやコレやが常態化しちゃってるってだけであって。

どうしても中国を敵とみなしたいんだろうなあ

 中国に対する米国の態度は、そのままでは首肯できかねるものも多いが、これはなんとなく、「ああ、そういうサイバー攻撃なんかは、ありそうだな」と思わせる。

 しかし、読売の書きっぷりも「中国『系』ハッカー集団」などと記していて、「系」ってなんだよ「系」って、はっきり書けよオラ、……という感じもする。多分、そこいらあたりがどうもうまく調べられないのだろう。

 さておき、戦争マニア国家米国は、「敵」「我」という、戦争を想定した対立軸でしか国のアイデンティティを保てない。もはや哀れである。

超軍事国家

 マァ、さすが、あの狭い国土にいまだに70万人もの地上兵力を擁し、徴兵制を()いて旧日本陸軍もかくやという地獄のシゴキ兵営を保ち続ける超軍事国家・韓国、ではあるわな。

 国民を監視カメラで追い掛け回して感染源を徹底追及しようってんだから、北朝鮮も真っ青だな。

 で?何?「韓国が優れたコロナウイルス対策をして称賛されているから日本政府も見習え糞アベガー」……ですか?

 ……嫌です、そんなの。私は日本流がいい。今のところ日本のコロナ対策は世界に冠たるレベルにあると自信を持って言える。

米国人が下品だなんてことは、昔から全世界的な共通認識である。

 これ、さあ。トランプ氏の下品さが際立つように思うでしょ?

 私が思うに、それは違うな。トランプが下品なんじゃない。アメリカ人なんて、どいつもこいつも、もともとこれくらい下品なんだよ。このトランプ氏の言動って、普通~ぅの米国人の、(ごく)ごぉ~く普通の感情を代弁してんのさ。アイツら、腹の中では、9割とは言わない、そこまでひどくはなくても、まず6割5分くらいの人間が、「チャンコロ、シナの黄人のクセに幅効かせてやがって、いつか皆殺しにしてやるからな」くらいにしか思ってないのさ。

 ましてや、日本なんぞ。米国人なんてものは、日本人なんか、鼻糞くらいか、それ以下の塵埃(ゴミ)とか恥垢(チンカス)くらいに思ってますよ。「もう一発原爆見舞って殺してやろうかい」ぐらいの、それぐらいの尊大倨傲(きょごう)ですよ、こんな奴ら。

 キリスト教徒のクセして、愛なんてゼロだよ。

時事漫(すい)

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筋金入り

 右のようなニュースがあり、ほう、さすが、と驚いた。

 御歳(おんとし)99歳とある。これは間違いなく第2次世界大戦の生き残りの老兵だなと思い、検索してみるとまさしくその通りであった。

 2等兵からの叩き上げ帝国陸軍大尉(Imperial Army Captain)、印・緬方面で日本軍相手に死闘し、復員している。筋金入りの大尉だ。そりゃあ、根性が違う、根性が。

関東は嵐

 窓外に風雨が吹きすさんでいる。

 私の住まいあたりでは、昼から雷雨の予報すら出ている。

 コロナウイルスも洗い流してくれないものだろうか。

今こんなこと(あげつら)っても

 しかし、ねえ……どうなんだろ。アメリカにもいろいろと言い分はあるんだろうけれども、たった1週間で死者が1万5千人も積みあがって、今や累計3万5千人にも(のぼ)る膨大な死者を出しているアメリカが、「今やること」ではないように思う。犯人捜しをして国民の怒りの矛先をどこかへうっちゃってしまおうとしているように見える。

コロ対でうまくいってる国の首相は皆女性

 なるほど、台湾・蔡英文、ドイツ・メルケル、ニュージーランド・アーダーン、フィンランド・マリン、……新型コロナウイルス対策がまずまず上出来な国の統領、宰相は、皆女性である。

 頑固な爺ィが仕切ってる国は、軒並み全部、ダメだ。アメリカ、中国、イギリス、フランス、イタリア、スペイン。特にアメリカなんて頑固爺の代表みたいな人物が大統領だし、イギリスなんて、首相自身が死にかかったんだから。

 ……日本もことによると、ことによるぜ……。

麻生さんも総理の時は馬鹿だのなんだのと襤褸(ボロ)(クソ)に言われたモンだったが、蓮舫も大概(笑)

 蓮舫。……まったく、こ奴も、向こうを張って引けを取らぬ阿呆(アホウ)よの。だって、国債は国の債務、つまり、「国民が貸してる金」で、「国民が借りてる金」では全然ないわけだからさ。

 しかし、まあ、野党とは言え、特別職国家公務員たる国会議員・蓮舫も、一般の人から見れば政府側の人間だから、そうすると、「アタシの借金」という意味で「国民の借金」と言ったのだとすれば、まあ、そんなにもハズれてはいない……いや、いやいや、違う違う。ハズれてる。ウン。

読書

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 (りん)()(どう)(Lin Yutang、リン・ユータン)の「生活の発見」(原題は『The Importance of Living』)を読み終わる。60年前の古書、平凡社の世界教養全集第4巻に収録されている。

 先週、読書中にも書いたが、私の感覚にはピッタリと合い、納得できる内容だった。やはり同じ東洋人だからだろうか。

 著者の姿勢は、きっぱり西洋哲学と対立するものである。込み入った西洋哲学を一刀両断、「西洋流の厳粛な哲学は、人生が何であるかということについては、理解の理までもいっていない。」と昂然と言い放つところなど、痛快そのものだと感じた。

気に入った個所
平凡社世界教養全集4「生活の発見」(林語堂著・坂本勝訳)から引用。
以下、他の<blockquote>タグも同じ。
p.158より

 私はサルがサルを食うということは聞いたことがないが、人間相()むということは知っている。人類学はあらゆる証拠をかざして、食人の風習が相当ひろく行なわれて((原文ママ))いたことを明らかに教えている。彼らはわれわれ肉食類の祖先であった。それだから、人間が今なお、いろいろの意味であい食んでいるということになんのふしぎがあろうか。――個人的に、社会的に、国際的に。食人種について特筆すべきことは、人を殺すということの善悪をよくわきまえていることである。すなわち、人を殺すということは望ましいことではないが、避けがたい悪であることを認めながらも、成仏した敵のうまい腰肉(サーロイン)、あばら肉、肝臓などを食って、その殺戮(さつりく)からなんらかの成果をえようとする。食人種と文明人との違いは、食人種が敵を殺して食うのに対し、文明人は敵を殺して葬り、その遺骸の上に十字架を安置し、その霊魂のために祈禱を捧げるところにあるらしい。かくして人間の自惚と短気のうえに、もひとつばか(、、)ということが加わる。

p.160より

罪のない聖人には興味が持てぬ、私はそういったようなヒューマニストである。

p.161より

 人間の心というものに魅力のあるのは、そこに不合理性があり、済度しがたい偏見があり、むら気があり、予測しがたいところがあるからである。もしこの真理を学ばないなら、一世紀にわたる人類心理学の研究も畢竟(ひっきょう)空だ。

同じく

われわれはみな、精神の本当の機能は思考するにあるという思い違いのもとに苦労している。

p.183より

 私は今、旧式な民主的個人主義について語っているにすぎない。それはもちろん承知している。だがまたマルキストにも、カール・マルクス自身が、一世紀以前のヘーゲル論理学と、ヴィクトリア中期のイギリス正統経済学派の産物であることを想起していただくとしよう。今日ヘーゲル論理学や、ヴィクトリア中期の経済思想の正統学派ほど旧式なものはない。――中国人の人間主義的見地から見て、これほど合点のゆかぬ、うそっぱちな、非常識きわまるしろものはない。

p.189より

この意味では、哲学というものは、自然と人生全般に関する、平凡でお粗末で、ざらにある考え方にすぎない、この程度のものなら、何人も多少は持っている。現実の全景を、その表面的価値において眺めることを拒み、あるいは新聞紙に現れる言葉を信ずることを拒むものなら、何人も多少の哲学者といえよう。つまり彼は、だまされない人間である。

p.194より

 私自身の目で人生を観察すると、人間的妄執のかような仏教徒的分類は完全だとはいえない。人生の大妄執は二種でなく三種である。すなわち名声、富貴、および権力。この三つのものを一つの大きな妄執に包括する恰好の言葉がアメリカにある。いわく、「成功」。しかし、多くの賢明な人々にはわかっていることであるが、成功、すなわち名声、富貴に対する欲望というのは、失敗、貧困、無名に対する恐怖を婉曲にいい表した名称であって、かような恐怖がわれわれの生活を支配しているのである。

p.199より

 八世紀の人、柳宗元は、近所の山を「愚丘」と呼び、側を流れる川を「愚渓」と称した。十八世紀の人、鄭板橋には有名なつぎの言葉がある。「愚も難く賢も難い。しかし賢を()えて愚に入るの道は、なおさら難い。」中国文学に愚の賛美の尽きたことがない。こういう態度を持する叡知は、かつてアメリカ人でも、つぎのような方言を通じて理解されたことがある。いわく、「利口もほどらい。」だから最高の賢者は、ときに「大まぬけづら」している人のなかにあるものである。

p.201より

「大隠は(まち)に隠る。」

p.201より

 われわれはこの世に生きてゆかねばならぬ。だから、哲学を天上から地上へ引きおろさなければならない。

p.211より

人生には目的や意義がかならずなければならぬなどと、私は臆断しない。「こうして生きている、それだけで十分だ。」とウォールト・ホイットマンもいっている。

p.242より

中国人の哲学を簡明に定義すると、真理を知るということより、人生を知るということに夢中になっている哲学といえる。およそ形而上な思弁などというものは、人間が生きるということについては邪魔ものであって、人間の知性のなかに生まれた青白い反省にすぎないものであるから、さようなものはことごとく掃き捨ててしまって、人生そのものにしがみつき、つねに最初にして終局の自問をする――「いかに生きるべきか?」

p.247より

 しかしながら、結局アメリカ人が中国人のように悠々として暮らすことのできないのは、彼らの仕事欲と、行動(アクション)することを生きている(ビーイング)ということよりたいせつに考えるところに、直接由来しているのである。

p.374より

学問がしたければ、最良の学校はいたるところにある。昔、曾国藩は家族に宛てた手紙のなかで、弟が首都に出てもっとよい学校にゆきたいといっているのに答えていった。「勉強がしたければ田舎の学校ででもできる。砂漠ででも、人のゆき交う街頭ででもできるし、樵夫や牧人になってもできる。勉強する意思がなければ、田舎の学校がだめなばかりでなく、静かな田舎の家庭も、神仙の島も、勉学には適しない。」

p.394より

つまりこうだ、アダムとイヴが蜜月にリンゴを食った、神はたいへん怒って二人を罰した、この二人の男女のちょっとした罪のために、その後裔たる人類は世々末代罪を背負うて苦しまねばならぬことになった、ところが神が罰したその後裔が神の独り子たるキリストを殺したとき、神はおおいに喜んで彼らを許したというのだ。人はなんと論議解釈するかしらないが、こんなふざけた話を私は黙認することはできない。

言葉
匡救(きょうきゅう)

 (ただ)しくし、救うこと。

寇讎(こうしゅう)

 「寇讐」と同じ。仇、敵のこと。「讎」は「讐」の異体字。

犬儒(けんじゅ)哲学

 人生を自由で自足的なものとみなし、かつ、皮肉に見る哲学。創始者が野良犬のような暮らしを実践したことから。

ほどらい

 「程合い」と同じ。程度、ほどほど。

婚礼轎(こんれいきょう)

 「轎」というのは椅子の乗った駕籠のことで、花嫁を乗せるもののようだ。

(やもお)

 見たこともない字、聞いたこともない訓みである。文中には孟子の説く「世の中で最も無力な四種の人々」として「寡、、孤、独」というふうに使われている。

 ちなみに、「寡」(カ・やもめ)は独身女、「孤」は孤児、「独」は独居老人のことである。

 「鰥」で「やもお」と()む。想像のつく通り、独身男のことである。音読みは「カン」「ケン」、訓読みは「()む」「(やもお)」である。

饕餮(とうてつ)

 いつだったか読んだ開高健の「最後の晩餐」の中に出てきた。「最後の晩餐」では「とうてつ」としてあったが、この「生活の発見」では「饕餮(タオチイエ)仙」と中国語の読みでルビが振ってある。

庭牆(ていしょう)

 「牆」は「かきね」と()み、「庭牆」はそのまま、「庭の(かきね)」である。

カリカチュア

 しょっちゅう見聞きする言葉なので、敢えて調べておくような言葉ではないような気もするが、「風刺画」のことである。

槎枒(さが)

 「()」には「いかだ」の意味もあるが、木を切り落とすという意味もある。

  •  (漢字辞典オンライン)

 2文字目の「()」という漢字がなかなか調べ当たらないが、「椰子の木」の意味があり、枝が入り組んでいることを表す。

  •  (漢字辞典オンライン)

 「槎」と「枒」で、「槎枒」だが、これは木の枝が非常に絡み合い、入り組んでいる様子のことを言うそうな。

ふつうのカンランにはマツのような槎枒(さが)たる気品はなく、ヤナギは優雅ではあるが、「荘重」とか「霊感的」とかいえないことは争えない。

エピグラム

自然は人生全般の中に入り込むのである。自然はことごとく音である、色である、形である、気分である、雰囲気である。慧敏(けいびん)な生活芸術家たる人間は、まず自然の適当な気分を選びだし、それを自分の気分に調和させることから始める。これは中国のすべての詩人文人の態度である。がそのもっともすぐれた表現は、張潮(十七世紀中葉の人)の著書『幽夢影』のなかのエピグラムに見出されると思う。

 短文、警句、寸鉄詩、碑文など、いろいろな短い文章のことを言うようだが、ここでは「短文」と言っておいてよいであろう。

罅隙(かげき)

 「罅隙(かげき)」の「()」は「ひび」のこと、「隙」は文字通り「すきま」のことであるから、「罅隙」ですきまや割れ目のことである。

 青年にして書を読むは罅隙を通して月を眺めるごとく、中年にして書を読むは自家の庭より月を眺めるごとく、老境にいたって書を読むは蒼穹(そうきゅう)のもと露台に立って月を眺めるがごとし。読みの深さが体験の深さに応じて変わるからである。

創造と娯楽

 「創造と娯楽」と書かれてもピンと来ないが、

 芸術は創造(クリエーション)であるとともに娯楽(レクリエーション)である。

……というふうに、ルビを振って書かれると、二つの言葉が急に意味を持って迫ってくる。recreation は creationに「re」をくっつけた言葉だ。「娯楽」というとどうもピンと来ないが、「回復のための行動」というと、なるほど、創造と言うのは苦しみである、というふうに納得がいく。

ドグマ

 独断的で強い教義、とでも言えばよかろう。

 中国文学と中国哲学の世界を通観して何が発見できるであろうか。中国には科学がないということ、極端な理論、ドグマがないということ、実際あい異なる哲学の大学派がないということである。

次の読書

 さて、次の読書は、この本収録の3著作め、R・L・スティーヴンスン著、橋本福夫訳の「若き人々のために」である。原題は「Virginibus Puerisque」だが、この邦題の訳ではまるで意味が違っていることは言うまでもない。この原題はラテン語で、意味は『処女・童貞』である。

読書

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 引き続き60年近く前の古書、平凡社の世界教養全集第3「愛と認識との出発/無心ということ/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」を読んでいる。

 第1巻から延々と西洋哲学を読んできて、この第3巻でやっと日本人の著作に来たと思ったら、よりにもよって最初が倉田百三である。

 ドイツ哲学へドップリ傾倒しつつなぜかプロテスタンティズムへも我が身をなすり込んで慟哭し、しまいには親鸞に(すが)って啼泣(ていきゅう)するという、倉田百三のもはや何が何だかわけの分からぬ懊悩満載の文章に、多少うんざりしていた私である。

 そこへ、やっと来ました、鈴木大拙師の「無心と言うこと」。

 心に沁みる。疲労がたまりにたまっていたところへ、温かい茶を一服のむような安らいだ感じがする。この達観、達意。どうだろう。

 この「平凡社世界教養全集」、38巻あるうちのまだ3巻目に手を付けたにしか過ぎないが、当時の編集陣による配列の妙に驚嘆せざるを得ない。

言葉
(以下、引用(blockquote)は特に断りなき限り、平凡社世界教養全集第3(昭和35年(1960)11月29日初版)所収の「無心ということ」(鈴木大拙著)からの引用である)
一竹葉堦を掃って塵動かず

 本書の文中には

(ふりがなは筆者)

 よく禅宗の人の言う句にこういうのがある。

 「一竹葉(いっちくよう)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)なし

……というふうに書かれているが、どうも「一竹葉」というところなどが「……?」と思えなくもない。

 検索してみると、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕」(竹影(ちくえい)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)無し)等とあり、出典も明記されているところから、おそらくこちらが正しいのであろう。

 意義は読んで字のごとく、竹の影が石の(きざはし)をはらっても塵が動くわけではなく、月の光が(ふかみ)の底を照らしても水に波一つ立つわけではない、というほどの意味である。なかなか味わいのある禅語である。

 この泰然自若、この不動、不変。自称「改革派」などに聞かせてやりたいと思う。

止揚(しよう)

 そういえばこの言葉、以前にどこかで見たなと思った。開高健の「最後の晩餐」で読んだのだった。

 ドイツ語の「Aufheben(アウフヘーベン)」である。

……今の哲学者の言葉で言うと、揚棄するとか、止揚するとでもするか。

応無所住、而生其心

 「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」と()み下す。

 ところが無住ということが『金剛経』の中にある、『般若経』はどれでもそういう思想だが、ことに禅宗の人はよく「応無所住、而生其心」と申します。よほど面白いと思うのです。

 (作品中では返り点が打ってあるのだが、このブログでは返り点の表現は無理なので、上記引用には打っていない。)

 で、この言葉の意味よりも、「応」という字は確か漢文では「再読文字」なのだが、忘れてしまっていて、パッと()み下すことができなかった、というそのことが気になって、ここに書き出した。

 これは「まさに~べし」である。

 漢文を読んでいると、この「応(まさに~べし)」もよく出てくるが、他に、

  •  「将」(まさに~んとす)
  •  「且」(まさに~んとす)
  •  「当」(まさに~べし)
  •  「須」(すべからく~べし)
  •  「宜」(よろしく~べし)
  •  「未」(いまだ~ず)
  •  「蓋」(なんぞ~ざる)
  •  「猶」(なお~がごとし、なお~の
  • ごとし)

  •  「由」(なお~がごとし、なお~のごとし)

……なんてのがあって、覚えておきたいが、……いや、忘れる(笑)。忘れるからここに書いとく。

 これもなんだっけ、再読なんだったっけどうだったっけ、……と少し考えてから、ああ、「而」なんかと同じ「置き字」だった、……と思い出す。それほど気にして読まなくてもいい字だ。音読は「兮(ケイ・ゲ)」である。同じ置き字でも、「而」などは「て」とか「して」と()ませる場合も多いが、置き字の中でもこの「兮」だけは漢語での音読上の調子を整えるために置かれることが多く、日本語の()み下しではほとんど無視されるという気の毒そのものの字である。

 本文中には

大道寂無相、万像窃無名。

……とあった。()み下し文は付されていなかったのだが、多分、「大道(たいどう)(さび)れて(おもて)無く、万像(ばんぞう)(ひそ)やかにして()無し。」と()むものと思う。

表詮(ひょうせん)

 ネットではこの語の意味はわからず、手元の三省堂広辞林を引いても見当たらず、同じく手元の「仏教語辞典」を引いてもわからなかった。

 但し、「表」は見た通り「(あらわ)す」であり、「詮」は「あきらか」という訓読があるので、「明確に示す」というような意味でよかろうかと思われる。

……道元禅師が静止の状態を道破したとすれば、この方は活躍の様子を表詮(ひょうせん)しているといってよかろうと思います。

肯綮(こうけい)

 「腱」のことのようである。転じて、ものごとのポイント、そのものずばりの急所のことを「肯綮」と言うそうな。

……また甲と乙と同じ世界だ、自他あるいは自と非自というものが一つになった、それが実在の世界だといっても、どうも肯綮(こうけい)に当たらぬのです。

(せん)新羅(しんら)を過ぐ

 これがまた、検索してもサッパリわからない単語である。

……動くものが見えるときには、対立の世界がおのずから消えてゆく、すなわちこの世界は(せん)新羅(しんら)を過ぎて作り上げたものになってしまう。

 唯一、このサイトに解らしきものがあった。

(上記「佛學大辭典」より引用)

(譬喻)新羅遠在支那東方,若放矢遠過新羅去,則誰知其落處,以喻物之落著難知。

 「((たと)(たと)う)新羅は支那の東方遠くに()り,()し矢を(はな)ちて遠く新羅を過ぎて去らば、(すなわ)()()の落つる(ところ)を知る、()って物の落ち()くところ知り(がた)きを(たと)う。」

……とでも()み下すのであろうか。

 そうすると「この世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう」という文は、この世界は目標や着地点がまったくわからないまま作り上げられたものになってしまう、……という意味になろうか。

 本書中では「(せん)新羅を過ぎる」とルビが振ってあったが、サイトによっては「()新羅を過ぎる」と訓読しているところもあるようだ。

只麼(しも)にいる

 これもまた、実に難しい言葉である。只々(ただただ)、麼(ちっぽけ、矮小)、というほどの意味であるようだ。

……独坐大雄峰とは、ここにこうしている、ただ何となくいる、只麼(しも)にいるということ、これが一番不思議なのだ。

蹉過(さか)(りょう)

 「蹉過(さか)」というのは「無駄にしてしまうこと」だそうである。「蹉」という字にはつまづく、足がもつれる、というような意味がある

 してみると、「蹉過了」というのは「蹉過し(おわ)る」ということであるから、「とうとう全部が無駄だ」とでもいうような意味であろうか。

……これほど摩訶不思議なことはないのだ。こうしているというと、もうすでに蹉過了というべきだが、しかしそういわぬと、人間としてはまた仕方がない。

コスプレ馬鹿

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あっはっは、中国もこんなアホの存在を許すようになったんだなあ

 私は前からこの王毅って奴が嫌いだし、このことそのものの一件次第などはどうだっていいんだが、中国人にもこういう馬鹿がいるんだなあ、と思って笑ってしまった。

 日本人にも馬鹿はいて、例えば初詣の客でにぎわう神社の鳥居の前で「神はエホバのみである」みたいな、正気が疑われる布教をするキリスト教徒とか、もっと言えば、ナチス親衛隊の恰好をして終戦記念日の靖国神社周辺をうろつくという意味不明のドイツマニアなどがいるわけだが、そういう者にドイツ人がこれを知ったらどう思うかわかってンのかなどと言ってみたところで無駄だ。むしろ、そういうことが許される日本という国の自由さを(たた)えたほうが精神衛生には良い。

 さすがに、終戦記念日の靖国神社前で、太平洋戦争当時の米軍GIのコスプレをしたり中共の軍服コスプレをするような馬鹿は見かけないが、仮にそういうのがいたとしても、日本の場合「馬鹿な奴がいるなあ」で済んでしまう。せいぜい右翼に絡まれるくらいだろう。

 で、中国にもそれと同種の馬鹿がいるということで、なるほど、中国も相当自由な国になってきたなあ、と思うのである。ちょっと前だったら記事のように行政処分どころでは済まず、逮捕投獄は当然、下手をするとそれこそ射殺されたろう。

 いや、むしろ、中国の自由さをアピールするため、中国政府が馬鹿を放し飼いにしているのかも知れない、というふうに見ると、中共専制国家体制の盤石さが逆に恐ろしくもなるが……。

 よその国のことだから、こんなことどうだっていいっちゃあ、どうだっていいんだけどね。

売れる

投稿日:

 普段通勤電車に乗っていて、周りの人を落ち着いて眺めると、この5、6年がところ、たいていの人は携帯電話(スマホ)をいじっている。

 その前は大人のくせに任天堂に没頭している人が多かったが、いまやゲーム専用機を電車に持ち込んでいる大人はほとんどいない。皆携帯電話(スマホ)収斂(しゅうれん)した。

 悪趣味との謗りを御免(こうむ)って、人々の手許(てもと)を覗き込むと、字を読み書きしている人はほとんどいない。大体皆、色とりどりの画面でゲームをしている。最近はメールを書いている人もあまり見かけない。(もっぱ)らゲームであって、たまに字を書いているなと思ったら、LINEでスタンプを打ち合っている。

 してみると、もはや文字を書く人は儲からない。文字を読み書きする人は頑固なもので、デジタルに辟易して紙に回帰しているようだ。

 パソコンやゲーム専用機のゲームは数学で作られているが、携帯電話のゲームはまだまだ絵と論理で作られているように思う。使用できるマシンリソースが少ないからだろう。

 そうすると、まだまだ、絵を動かし、効果を派手にし、イベント毎に音を鳴らし、「当たり判定」なんていう地味な処理を書く人が食っていける理屈もあるように思う。(ただ)し、日本国内ではダメなのだろう。もはや中国も高価だ。食える場所は更に辺縁に広がっているのだろう。

いやーっ、これはナイな。

投稿日:

 いやーっ、ナイわー……。

 多分、こんなことしたって労多くして功少なく、韓国人はますます絶叫激昂増長興奮、「日王を屈服させた」だの「日王室は朝鮮起源」だのと怒鳴るだけだろう。

 恐懼、恐惶謹言。

金ちゃん妄想

投稿日:

 ああ、北朝鮮を俳優に仕立てた茶番、ロシア・中国共同プレゼンツのドラマが見えてきた。

 狡猾そのものじゃないか。

 実は、原爆や水爆と見えたものは、デブの金チャンが爪に火を(とも)すようにしてため込んだTNT火薬だったのだ。何キロトン、何メガトンとか言うが、文字通り、本当に爆薬を千トン、一万トンとため込み、せっせと山岳地帯の洞窟に運び込み、炸裂させただけなのだ。

 その爆薬は、ロシアと中国からどしどしと運び込まれた石油を遺憾なく注ぎ込んで合成したものだ。

 すっかり騙されて怒った米国が「大量破壊兵器許すまじ」とばかり北朝鮮に攻め込む。だが、もとより核開発なんかする力もないから、北朝鮮国内をいくら家探ししようが大量破壊兵器の「ヘ」の字も見つからない。

 つまり、米国は、イラクの繰り返しをもう一度やらされて、世界中に恥晒しをしてしまうのだ。

 赤っ恥をかかされて吠え面のアメリカを、ロシアと中国が糾弾する。「戦争までしておいてそのザマかよ!」「弁償しろ馬鹿野郎」「謝れアホが」……というわけだ。