動画漫覧

投稿日:
韓国人指物大工

 2×4材らしい高価ではなさそうな材料を、正確に、シンプルに指していく。その感じが、見ていて気持ち良い。そして、これは素人には真似の出来ない事である。

姑娘(クーニャン)と工作

 かわいい中国人の少女が弓と矢を作成して森へ射撃に行く動画である。

 こういう中国の娘のことを、かつては「姑娘(クーニャン)」とでも呼んだことであろうか。

 この小芊枫(小芊楓、XiaoQianFeng、シャオ・チェンフォン、しょう・せんふう)という人は、ほかの動画もこんな調子だ。いろいろなものを工作している。

星影のエール

 あまりテレビは見ない方だが、たまたま耳や目に入ってきた番組などに注目してしまうこともある。今NHKで放映中の朝の連続テレビ小説「エール」もそうだ。

 朝はテレビを見ている時間などないが、職場の昼休み、弁当など使いながらテレビを見る人が他にいるので、なんとなく一緒に見るようになった。昼には朝の連続テレビ小説の再放送がある。これを見るともなしに眺めていると、なかなかいいドラマだなと感じるようになった。

 稀代の名作曲家・古関裕而をモデルにした物語である。戦中戦後、明るく、時には苦しみながらも音楽家同志の夫婦でそれを乗り越えていく。なかなか温かく、多少ナニワ節も交じり、かつ軽妙さも心地よく、泣かせるところもあるドラマだ。

 主題歌の「星影のエール」はGReeeeNというバンドが手掛けている。このバンドはよく知らないし、曲も聞いたことがない。たしか、媒体(メディア)に姿を現さないことが持ち味のバンドではなかったか。

 しかし、この主題歌も毎日聴いているうち、なかなか胸を打ついい曲だと感じるようになった。

 動画などあるのかな、と思って検索してみると、これが左のような動画である。

 これはいい、と思った。

 NHKのドラマの内容とは全く関係なく作られたミュージックビデオである。数分のうちに、いろいろと想像してしまうようなドラマが詰め込まれている。

 もし、この動画に本編映画のようなものがあるのなら、見てみたいものだと思った。

今週のさえずり季題

投稿日:

迂闊

投稿日:

 このブログのアクセスログを見ていると、見に来る方の中に、「唄入り観音経」の検索キーワードで行き当たったらしい方が多少おられることがわかる。

 唄入り観音経というと名人・三門博の一世一代の浪曲だ。戦前から戦後にかけての大ヒットである。

 主人公は「()(ねずみ)吉五郎」という盗賊だ。

 ところが私は、この木鼠吉五郎というのは、三門博の創作の、架空の盗賊であるとばかり思っていた。しかし、どうやらそうではないらしく、少なくともモデルとなった実在の木鼠吉五郎というのがいたらしい。

 上のWikipediaの記事を見て驚いた。

 というのも、唄入り観音経とは全く別の分野のこととして、私は岡本綺堂の「拷問の話」という本を読み、江戸時代の拷問が実はそうそう行われるものではなく、老中の許可などを必要とする実に煩雑な司法手続きであった、ということを知ったのであるが、その「拷問の話」に取り上げられているのが「播州無宿・吉五郎」とのみ記された盗賊であった。

 「唄入り観音経」の主人公木鼠吉五郎と、「拷問の話」の盗賊・播州無宿の吉五郎とは、私の頭の中では全く別物になっていて、一致していなかった。

 ところがどうやら、Wikipediaの記事と岡本綺堂の作品を読み合わせれば、これはモデルとしては同じ人物であることは明白だ。私としたことが、これは迂闊であった。20年以上もの間、このことを知らずにいた。

 しかし、いずれにせよ、唄入り観音経の中では改心して得度し、仏道に精進する吉五郎も、実際には太々(ふてぶて)しく27回もの拷問に耐えて同囚の尊崇すら集め、刑死後に名を遺した吉五郎も、どちらも大変な人物であることに違いはない。

読書

投稿日:

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。第12巻、「美の本体(岸田劉生)/芸術に関する101章(アラン)/ロダンの言葉(A.ロダン)/ゴッホの手紙(V.ゴッホ)/回想のセザンヌ(E.ベルナール)/ベートーヴェンの生涯(ロマン・ロラン)」のうち、「美の本体」(岸田劉生著)を読み終わった。

 岸田劉生といえば、なんと言っても娘を描いた連作「麗子像」が有名である。「麗子像」には43点もの作品があるが、そのうちでも国立博物館蔵の重要文化財「麗子微笑」を知らぬ人はないだろう。

 本書の解説はその娘の岸田麗子氏が書いている。解説の最後に「一九六二・四・一二」(昭和37年)と日付があるのだが、岸田麗子氏はそのたった3か月後の昭和37年(1962)7月26日に急逝している。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第12巻「美の本体」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.14より

 ここに美術家の人類の使徒としての自覚がある。美術家は直接この世界の邪悪と戦ったり、善をすすめたり、真理を説いたりする仕事に(たずさ)わらない。

p.14より

 画家がいくら仕事したって、この世は善くならないかもしれない。しかし画家が一つの仕事をでもすれば、この世はそれだけ美しくなる。「この世が美しくなったって善くならなければしようがない」というものがあれば、その人のいう善というものの貧しきを(あわれ)む。

p.48より

人生や芸術には「事実」以上のことがある。人生の目的にとって、「本当」のことか否か、これが大切である。すなわち、「事実」と「真実」の相違である。「事実」はいたるところにある。否すべてのことは皆事実で、ある人が(くさめ)を一つしてもそれは「事実」の一つである。しかし、「真実」はそうやたらにはない。しかしすべての事実の中にも秘されてあるともいえる。否、もっと確かにいえば「真実」は、真実を持つ人の心の(うち)にひそんでいるといえる。トルストイが死刑囚の首が落ちるのを見て、「これは悪いことだ」と心の底からいったのは、事実の中に動かせない「真実」を見たのである。その場にいた他の多くの見物人は、ただ首の落ちる事実を見たに過ぎない。

 人生にとっても芸術にとっても大切なのはこの「真実」である。美術における自然はこの「事実」に相当する。そして「真実」はすなわち美である。

p.70より

 今日の画家の審美はあまりに自然的、またはありのままということに囚われている。これはそれ以上のものを見ることができないのが原因である。

 次は同じ巻の「芸術に関する101章 Préliminaires à l’esthétique 」(アラン Alain 著・斎藤正二訳)である。アランはフランスの哲学者で、本名をエミール=オーギュスト・シャルティエ Émile-Auguste Chartier という。パスカルやロシュフコーに連なる、いわゆる「モラリスト」哲学者である。

今週のさえずり季題

投稿日:

文化の日

投稿日:

天皇陛下万歳

 祝日「文化の日」である。自宅の軒先に国旗を掲げ拝礼する。

 「文化の日」は明治節、即ち明治大帝の生誕節であることは論を待たぬ。文明開化を唱導した明治大帝の祝日が、戦後「文化」を冠する祝日となったことは、まことに相応(ふさわ)しいことであったと言えよう。

今週のさえずり季題

投稿日: