天皇と庶民とはどちらも、辞任などという言葉でその責任を回避することのできない「日本人」であった

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山岡荘八「小説太平洋戦争〔2〕」p.95から引用

 私はさきに、山下奉文中将が、この作戦中に一度も笑顔を見せず、絶えず何ものかに向かって怒りをぶつけているようであったと書いた。

 その怒気をふくんだ表情の裏をさぐってゆくと、彼の理想とする軍と、当時の陸軍の間の思想の距離がまざまざと計り出される。

 むろんこれは、どこまでも職業軍人としての陸軍のことであって、民間人としての一般兵隊のことではない。

 一般の兵隊は、前にも記したように、少く((ママ))とも個人的な生活のすべてをなげうってご奉公を考えさせられている。その間には悲しいあきらめや郷愁は存在しても、戦うことがより正しい世界の創造に通ずるであろうということを、疑う余地など全く与えられていなかった。

 その意味では、近衞の新体制以来の東亜共栄圏建設の理念とかけ声は、そのまま彼らに滅私の奉公を強いる、何のかけ値もかけ引きもない(すが)りの綱になっている。日本人の中で、もっとも無邪気に正義の灯をしたって行動したのは天皇と、そして、その愛児であるこれら庶民の兵隊たちであった。

 天皇と庶民とはどちらも、辞任などという言葉でその責任を回避することのできない「日本人」であったからだ……

 この見方と、今上陛下の譲位について並べ論じるというのも面白いだろう。

薨去に関する報道調べ・続

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 日経新聞の前身は「中外商業新報」といい、明治時代までバックナンバーを遡ることができることを知る。

 国会図書館の場合、デジタル(日経テレコン21)で調べるときは昭和50年までしか検索できないが、マイクロフィルムは明治9年のものからある。

 そのことに気付いたので、以前作った皇族薨去等時の報道の文言に関する資料を少し修正する。

主要新聞各社の天皇陛下崩御・皇后陛下崩御・皇太后陛下崩御・皇族方薨去等時の用語

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 以前、天皇陛下や皇族方に関する報道の、敬称の用い方がどうも気に入らなかったり、畏れ多きことながら、お隠れ遊ばされた場合の新聞各社の用語が気に入らない、不敬なのではないか、なんてことをこのブログに書いた。

 しかし、ふと思った。確かに、昔はどの新聞も「崩御(ほうぎょ)」「薨御(こうぎょ)」「薨去(こうきょ)」「逝去」「死去」「死亡」などの語はきちんと使い分けられていたように思うのだが、はて、それを見たのか、というと、どうも、なんだか記憶が怪しい。いつどの記事で見たのか、と言われると、見たことがないような気もするのだ。

 そこで、天皇陛下・皇后陛下・皇族方を判る限りリストアップし、その表を携えて図書館へ行った。有名な新聞(朝日・毎日・読売・日経・産経の5紙)について、遡れるだけ遡って、お隠れになった際にどの用語で報道されているかを調べた。

 私が見つけることのできたもののうち、最も古い報道は明治41年の山階宮(やましなのみや)菊麿(きくまろ)王殿下の薨去だ。逆に、最も近いのは、去る10月の三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下の薨去である。この間の、33方の記事を調べることができた。

 その結果は次のとおりである。

(産経は歴史が浅いので、昭和13年より前の記事はない)

 調べた結果から、興味深いことが分かる。

 日本の右翼新聞というと「産経」で間違いないところだ。産経は先日三笠宮殿下が薨去された時も「薨去」と報道した。ところが、実は産経がこう書いたのは、平成26年に薨去された桂宮殿下の時だけなのだ。

 桂宮殿下薨去より前は、産経も他紙と同じように、天皇陛下・皇后陛下を除き、「ご逝去」か「逝去」と報道していたことがわかる。終戦間際の閑院宮(かんいんのみや)殿下の報道がわずかに「薨去」とあるのみで、それ以前の、産経の前身である「日本工業新聞」時代には、皇族方薨去に関する記事そのものがない。それは、機械の生産高や経済指標等のみを報道する専門紙に近い新聞だったからである。

 朝日・毎日・読売・日経はどれもこれも左翼新聞だが、戦後、昭和21年に薨去された伏見宮博恭(ひろやす)王殿下までは全紙が「薨去」と書き、昭和22年に薨去された閑院宮載仁(ことひと)親王妃智恵子殿下の時は毎日が、昭和28年に薨去された秩父宮殿下の時には読売が、それぞれ「薨去」と書いている。

 それ以降は多くのいわゆる旧皇族方が皇籍を離脱され、報道そのものがないか、臣籍降下後の姓名で報道されていることもあって、薨去という用語は見られない。

 戦前は、記事のない産経新聞を除いて、全部が基本的に「薨去」を用いている。天皇陛下・皇太后陛下・皇后陛下については、昭和26年の貞明皇后崩御時に朝日新聞が「御逝去」と報道している他は、言うまでもなくすべての陛下に「崩御」が用いられている。唯一変わっているのは、北白川宮永久王殿下は戦死されているため、各紙の記事も「戦死遊ばさる」等の表現になっていることだろうか。

 ここから言えることは、右翼新聞を()って成る「産経」も、それほど昔から首尾一貫はしていなかった、ということだろう。

 また、昭和41年生まれの私は、新聞記事で「薨去」という言葉を見たことがない、ということも明らかなことだ。

 だがしかし、それなのに、である。私は「薨去」という言葉を見て育ったような気がするのだ。なぜだろう。

 これは、おそらく周りの大人が「薨去」「崩御」という言葉を使っていたこと、また、特に父母などは「昔やったら、天皇陛下が亡くなりはったら『崩御』、皇族方は『薨去』と書いたもんやった」などと普段から言っていたから、それを聞いて育った私は新聞で見たように思い込んでいたのだと思う。

 私は、「薨去」等の言葉を知らない人なんて少数派で、単に「ものを知らんだけだろう」と思っていた。だが、上述の調査の結果、それは実は誤りだ、ということも分かった。

 昭和28年に秩父宮殿下が薨去されてから62年間、「薨去」と言う言葉は、産経が2回使った他は、新聞では使われていないのだ。したがって、今50歳の私は、生まれてからこのかた「薨去」という言葉を新聞で見たことなど、(ほとん)どない(はず)なのだ。

 新聞という大メディアに載らない言葉を、普通の人が知っているわけはないのであり、「薨去」という言葉を知らないからと言って「もの知らず」ということにはならない。反面、だからと言ってもの知りということにもならないことは自明だ。それら諸々(もろもろ)を考慮すると、薨去という言葉を知らない人は「普通の人」だということになるだろう。

 但し、新聞では使われていないが、公的機関の発表等は厳格に「薨去」が使われている。

文化の日

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%e6%96%87%e5%8c%96%e3%81%ae%e6%97%a5天皇陛下万歳。

 祝日「文化の日」である。国旗を掲揚する。

 文化の日の趣旨が「自由と平和を愛し、文化をすすめる。」ことにあるのは、「祝日法」によって明らかであるが、その制定経緯を(ひもと)けば、基礎となったのが、(まさ)(しか)るべし、人ぞ知る、明治天皇の誕生日「明治節」であることは論を待たない。

 (かしこ)し、維新の志士らの心を大いに取り上げ、日本の文化を進め、五カ条の御誓文によって議会制民主主義を導入したのが他ならぬ明治大帝である。

 戦後、政府は明治大帝の天長節(天皇誕生日)であった明治節を、「文化の日」として定着・記念することに成功した。GHQの影響まだ極めて大なる時代であるにもかかわらず、である。

 当時の国民の選択と、またその選択をできる限り()んだ政府の、巧妙と言うほかない政治的技術に感嘆せざるを得ない。

不敬と平板

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 最近どうも報道の言葉遣いになじめなくなってきている。

 「平易な言葉で万人に分かりやすく」という新聞記事などの記述方針は理解できるが、それを言うあまり、どうも記事の語彙というものが平板化しすぎていないだろうか。

 先頃も、タイ国王陛下崩御に関する報道では「死去」という言葉ばかりが使われていた。私はこれは不可であると思う。

 いくら外国人と言えど、一国の国王、元首である。かの国の人たちが大切にし、敬愛している国王を「死去」と言い捨てて澄ましていてはいけないだろう。

 亡くなった場合の表現にも崩御(ほうぎょ)薨御(こうぎょ)薨去(こうきょ)・卒去・逝去(せいきょ)・死去・死亡など、ランクめいた幅があるが、せめてこの場合、最低でも「逝去」と言えないものか。「死去」では友好国の国王に対して不敬ではないか。

 朝日新聞なんかだって、例えばヒトラーが自決した時にも、ドイツは当時も盟邦であったから、見出しに「ヒ総統薨去(こうきょ)」などと書いたものだったが、今は誰が隠れようが亡くなろうが「死去」と書くのはどうしたことか。

 先日、(かしこ)し、皇后陛下のお言葉の中に、「『生前退位』という報道の表現に痛みを覚えた」とのご主旨を拝した。皇室内で話し合われた時には「譲位」というふうに表現されていたと()(うけたまわ)る。

 台風が来そうなのもオリンピックでメダルが取れそうなのも「可能性」、芸能人が死のうが国王が崩御しようが「死去」、犬の死骸でも国王のなきがらでも「死体」という、そんな平板な言葉しか選べない新聞記者などには、陛下におかせられて、「生前」という言葉の、また「退位」という言葉の、一体何に驚かれ、痛みを覚えておられるのか、おそらく、サッパリ分からないに違いない。胡散臭い業界でチャラチャラ暮らしているようなことだから、言葉に奥行きやいたわりというものを盛り込む能力がなくなっていってしまっているのだろう。

 「生前退位」なんぞという言い方・書き方では、大げさに言えば「死ぬ前にしりぞく」と言っているのと同じなのだ。高齢の人に、しかも恐れ多くも天皇陛下に、身内でもない者がよってたかって「生前」、つまり「死ぬ前に」という言い方はなかろう。皇后陛下が仰せられる通り、「譲位」と言うべきものだ。そこを新聞屋・テレビ屋どもは(かしこ)み承らなければますます自らの価値を下げることになる。

 だいたい、最近皇室、特に皇族方に対する報道の文章があまりにも不敬にわたるようになってしまい、嘆かわしいにも程がある。内容がどれもこれも下世話好きのするようなものに成り下がっているのもそうだし、また、形の上でも乱れているのは不可と言う他ない。

 「形の上でも乱れている」と書いたが、その「形」というのは、例えば敬称だ。天皇陛下、皇族方への敬称は、皇室典範により「陛下」「殿下」と定められている。法定の敬称なのである。ところが新聞・テレビときたらどうだ。天皇陛下に関する報道では(かろ)うじて「陛下」の敬称が用いられているが、前掲のNHKによる報道にしても「皇后『さま』」と書かれてあり、畏くも皇后陛下に対し(たてまつ)り、「さま」とは何だ「さま」とは、一体何事だ! ……と言いたい。

 最近このように、皇族方に対する敬称が、こともあろうに全部ひらがな書きで「さま」になってしまっているのは断固不可である。こんな言い方・書き方では、「ビートたけしサマ」「松本人志サマ」と同じ、鼻持ちならない金持ち芸人と、ひらがなとカタカナの違い以外は同じということになってしまうではないか。

 例えば「皇后陛下」「皇太子殿下」「皇太子妃殿下」「秋篠宮殿下」あるいは「秋篠宮文仁親王殿下」「愛子内親王殿下」「悠仁親王殿下」「彬子女王殿下」というふうに、「陛下」「殿下」「妃殿下」「親王殿下」「内親王殿下」「王殿下」「女王殿下」はちゃんと使い分けておつけしなければならないだろう。最近皇族方に男性が少なくなり、「王殿下」が()られなくなってしまったが、そのためにこのゆかしい敬称が忘れ去られてしまい、王殿下という言い方・書き方が消滅してしまうのではないかと心配だ。

 陛下・殿下・閣下等、やはり敬称を使うべきときには使うべきである。また日本では使われないが、高位の宗教者、例えばヨーロッパの法王や枢機卿、また仏教国の高僧などには「猊下(げいか)」「台下(だいか)」と言った敬称もあるから覚えておきたいものだ。

 日本語の表現力が平板化するのが残念、ということもある。言葉が平板化すると、平板化したその言葉が、逆にその表現対象までをも平板でつまらない、無価値なものへと変化させてしまうおそれがあると思うのだ。

 これが皇室に関する表現の平板化であれば、皇室をないがしろにすることに繋がるおそれがある。そして、皇室をないがしろにすることは自傷行為にも似て、日本人が自分で日本の価値を下げることに繋がっていってしまう。

 不敬にわたるというと、眞子内親王殿下について、いかにも下世話好きのする取り上げ方の報道があって、具合が悪いこと(はなは)だしい。

 親しまれ開かれた皇室をアピールするという意味で、ある程度こういう報道も許容されなければならない面もあるかもしれないが、しかし、なんとも、残念である。いや、殿下はお若いのであるから、多少自由な行動をとられても、それは仕方がないのである。報道の方でもう少しどうにかすべきだろう。誠にもって恐れ多いことだ。

六本木・ダリ展 → 麻布十番・更科堀井

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ダリ展

 朝から土砂降りの雨である。雨の範囲は大して広くはないように思うのだが、どうも東京周辺はひどい降りようだ。

 そんな中、六本木の国立新美術館へ「ダリ展」を見に行った。

 大変な人気で、大勢の人が詰めかけていたが、混雑で見られないというほどでもなく、むしろ、列が進みづらいことで、かえってじっくり鑑賞することができた。

 思っていたより盛りだくさんの内容で、大作の絵画だけでなく、ダリが挿絵を描いた「不思議の国のアリス」や、またその他数々の挿絵、ダリが制作した前衛映画「アンダルシアの犬」他2編の映像作品の上映、デザインした宝飾品の展示など、充実した内容だった。

 戦前から戦後にかけて、作風が少しづつ変わりながら、よりエキセントリックに、より前衛に、かつ多様に尖っていく様子、また晩年に至って壮年期のパラノイア的方向へ回帰していく様子などがよくわかる展示になっていた。

 遠景ほど克明に、かつ強烈な光を当てて描き込むあの独自の表現を存分に鑑賞することができた。ああいう長命した画家には当然のことながら、ダリも作風はデビュー前から死ぬまでに少しづつ変化しており、今挙げた遠景に強烈な光を当てる、「これぞダリ」というあの画風は、アメリカに亡命する前後の「シュールレアリスム」の、気鋭の若手の一人だった頃のことのようだ。

img_4758 いつものように図録を買った。美しく盛りだくさんの内容であり、私としては購入しがいのある、コストパフォーマンスの高い出来栄えの図録であるように思う。2900円。

img_4759 いつも思うのだが、図録が先に買えたら、あらかじめ理屈のようなことは納得してから見に行けるので、美術館ではかえって集中して作品が鑑賞できるようになって良いのだが、今回はそういう着意はなかったのが残念である。

総本家 更科堀井(さらしなほりい) 麻布十番本店

 以前から心に決めていたことは、六本木に行くことがあったら、必ずそのすぐ近く、麻布十番の「更科(さらしな)御三家」のどれかに行こうということである。

 以前書いたが、更科御三家(更科堀井・永坂更科・永坂更科布屋太兵衛)は、元は信州方面からやってきた布商人が元祖となった店で、江戸に定着して以来、経営主体はさまざまに変わって3つに分かれながらも、今も長く麻布十番で暖簾を守っている。

 ダリ展を見に六本木へ行くからには、「総本家 更科堀井 麻布十番本店」へも行ってみようと(かね)てから考えていた。そこで、先日「目黒のさんま祭り」へ一緒に行った旧友F君に声をかけ、ダリ展を見終わってから麻布十番の駅で落ち合い、更科堀井へ向かった。

img_4760 「更科堀井」は地下鉄麻布十番駅の7番出口から出ると近い。歩いてものの3、4分というところだろう。建物は左掲写真に御覧のとおり、ビルの1階にある。

 寛政元年(1798年)の創業以来(このかた)200年あまり、先の大戦後からの一時期、しばらくの中断はあったものの再興し、営々と続いてきた老舗である。

 この店独特の「更科蕎麦」は、蕎麦の実の芯の白いところのみを使ったもので、東京で他に有名な藪、砂場のどちらとも異なるものだ。

img_4765 まずはとにかく、酒に、肴である。

 通しものにはこの店名代(なだい)の更科蕎麦を軽く揚げ、程よく塩味を付けたものが出る。

img_4767 今日は畏友F君と一緒に来たので、純米「名倉山」を2合。肴にそれぞれ焼海苔と卵焼きをとる。

 焼海苔は藪などでも見られる、炭櫃の下に小さな熾火(おきび)の入ったもので供され、パリパリに乾いてうまい。

img_4768 卵焼きは東京風に甘じょっぱく、蕎麦(つゆ)出汁(ダシ)がきいたふんわり焼きである。大根おろしに蕎麦(つゆ)をよくまぶしたものが付け合わせになっており、これが濃醇甘口の名倉山に大変よく合う。

 いよいよ二人で、この店独特の「更科蕎麦」の「もり」を一枚づつ頼んでみた。これが驚くべし、さながら素麺(そうめん)冷麦(ひやむぎ)のように白いのである。よく見れば少し色づいているので冷麦ではないとわかるのみである。

img_4771 ところがこれを手繰りこめば、その香りと味はまごうことなき蕎麦。だが噛み応えものど越しもあくまでしなやかであり、いわゆる「挽きぐるみ」の色の濃い蕎麦とは一線も二線も画する独特のものだ。

 店の(しおり)によればこの品の良さから、戦前など「(かしこ)きあたり……」へ、なんと出前すら仰せつかったものであったそうな。

 「さらしな もり」930円、大盛りは270円プラス、焼海苔670円、卵焼き740円、名倉山純米1合700円であり、「びっくりするほど高いわけではない」値段である。

 うまい肴で呑み、まことに気持ちの良い蕎麦を手繰り、微醺を帯びて出ると、土砂降りだった雨がすっかり上がり、陽光が垣間見える夕方に換わっていた。

 F君と別れて、浮かれた調子で帰りの地下鉄に乗る。きこしめした「名倉山」の酔い心地は(すこぶ)る快く、帰りの電車の睡魔の、なんと心地よかったこと。

 暗くなって帰宅した。秋分の日、残念にも土砂降りの秋雨とは言いながら、芸術の秋と食欲の秋、どちらも堪能できた面白い休日であった。

天皇陛下万歳。

 国旗を降下する。

靖国神社参拝は

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 誠に恐懼のことながら。

 靖国神社へ先帝陛下の御親拝がなくなったのは、たしか昭和51年の事であったか。

 この年、私は10歳で、毛沢東や周恩来死去の報がテレビのニュース速報で流れているのを、年子の兄が「おかあさんおかあさん、テレビに『ケザワ』っちゅう人が死んだて映ってるでェ~!」と母に注進し、台所から慌てて居間に駆け込んだ母が、「ケザワケザワ言うから何かと思たら、毛沢東のことかいな、ホンマにあんたらは。……せやけど、死んだんかいな毛沢東。えらいこっちゃ」などと珍妙な会話があったのを覚えている。

 さておき、天皇陛下の靖国神社への御親拝はこの年が最後になってしまい、以後は勅使をお遣わしになるのみとなった。言うまでもなく、今上陛下におかせられては、即位後一度も御親拝はない。

 これを指して批判する向きもある。私も正直に言えば残念であるとは思う。また、いわゆる旧A級戦犯の合祀を先帝陛下が好まれなかったなどとする風説も伝え聞く。だが今は、個人的な感傷や風説はおこう。このことは、かしこきあたりにおかれて、国民の意向の大勢をよくお汲み取りになられただけであると解したい。

 というのも、例えば下って今日の終戦日。靖国神社に参拝した国会議員はおよそ70名であるという。両院議員が合わせておよそ700名だから、1割の議員が靖国神社に参拝しているということになる。言うまでもなく国会議員は選挙で選ばれるのであるから、まず、「国民の1割が靖国神社に参拝することを是と考えている」と換言できる。

 わずか1割の国民しか是としてないことを、天皇陛下にしていただくことは、たしかに難しい。

 もって得心すべきであろうか。

今日の成り行き

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 今日は休みであった。

 先日、職場で廃棄ハードディスクドライブが2台ほど出てしまった。

 もともと壊れてしまったのはRAID5の中の1ドライブだ。わざわざRAID5にしているのはここで、これならデータの損失はないし、これまでの使用時間から言ってもやむを得ない。処置して事なきを得るかに思われた。サポートを頼み、ドライブを交換してもらった。

 ところが、である。最近の工業製品の余命というものは、複雑緻密きわまりない設計と驚くほど精密な製作によって、計算通りにピタリと尽きる。まるでタイマーでも仕込んであるようで、逆に感嘆せざるを得ない。つまり、同じ製品は同じ時期に壊れる。所謂(いわゆる)、「MTBF」(Mean Time Between Failure、平均故障間隔)が同じだからだ。

 そういうワケで、私の職場のRAID5も、ドライブ1本を差し替えた途端、冗長ディスクのもう1本が時をほぼ同じうしてイッてしまった。そりゃ、そうだろ、同じ時期に製造された品物を同じ時期に購入して、まったく同じ時間運転してきた同じMTBFの機材なんだから、似たような時期に壊れるのは道理というものだ。

 これは「よくある」けれども「最悪」である。リビルドする前にドライブ2台がイッちまったんだから。RAID5のドライブ2台が同時にイッちまうのは泣くに泣けぬ。「よくある」ってのは、基本的にRAIDは同じ銘柄、同じ種類のハードウェアで構成しなければならないが、先に述べた如く、同じ時期に調達したドライブは当然同じMTBFである。しかも、これは新規調達時期でないと手に入らない。というのも、最近のIT業界の経営スピードたるや、ほんの10年前の10倍には達しており、去年発売のドライブなど、市場で調達しうるかどうかも心もとない、という状況にあるからだ。

 幸い、運用の裁量の範疇で、テープにバックアップを取ってあったから、すぐに両ドライブとも交換を命ずることができた。

 ゴロン、と、ハードディスクの廃品が二つ出た。

 私の勤め先は大組織だが、私の一次所属先はまことに小さなところで、こうしたことは自分たちで始末しなければならない。

 製品の利用条件通り、製造元に持って帰ってもらうとマズい。故障品とはいえ、いろいろとデータが入っていたドライブだ。仮にイッちまったのが電子回路のみだったとしたら、引き渡したドライブのプラッターを取り出せば、いろいろと読み取られてしまう。そういうことが起こって責任問題となり馘首(クビ)になるというのなら潔く馘首にもなってやるが、賤職ごとき、免職になったからと言ってそれで済むのは私だけで、たくさんの人たちが(こうむ)る迷惑は(あがな)えない。責任の取りようがない。

 しかたがない。製造元と調整して、こちらで廃品ドライブを破壊して返却することを了承してもらった。

 最近はこういう調整もなかなか簡単ではない。昔なら、業者さんも「ああ、いいですよ、ドライブの二つや三つ」と鷹揚だったが、故障を偽って正常なドライブを交換し、横流しして懐に入れるというようなことがままあったものだから、交換した古品は持って帰って調べを受けなければならず、それが故意に壊されていたとあっては、フィールドエンジニアさんも独断では説明することが難しい。しかし、そこはよく頼んで調整してもらい、了承を得た。

 さて、そうなったらそうなったで、破壊、ったって、私の職場は工場ではないので、工具なんかない。下部には大工場もあるが、なにぶん大組織で、しかも腐っているので、私の立場から系統を通じてハードディスクドライブの破壊処理を命じたら、書類の始末だけで2年くらいはかかってしまう。そんなばかばかしい調整など、ハナからする気にもなれない。Fuck’in(笑)。

 それで、私物の電動ドリルと鉄工用のドリルビットを職場に持ち込んで、破壊処理をすることにした。普段、家の修繕などに使っているドイツ・ボッシュのインパクト機能付きのやつと、適当に選んだ5ミリほどの鉄工用ビットを職場に持って行ったのである。プラッターのところや緊要なコントローラのところを狙って、10か所も穿孔すれば、たとえ分解して磁気顕微鏡で解読したところで、ろくな情報は読み取れない。

 職場に私物工具一式を持ち込み、もくろみ通りダークな情報を飲み込んだドライブはズタズタに破壊できた。

 だが、私物ビットもズタズタになってしまった。そりゃそうだ、如何に長年愛用の鉄工用ドリルビットと言えど、完璧を期して、プラッターだけではなく、中心部の回転軸までバスバス穿孔したのだ。現代の超高速高密度のハードディスクドライブの命脈である回転部には超硬度のベアリングが仕込まれており、私ごときが私物で持っている程度のドリルビットでは歯が立たないのである。それを無理やり力任せに穿孔破壊したのだ。破壊中には火花が散り、刃先が赤熱して下に敷いていたダンボールに引火したほどであった。結果、十分に塗油していたにもかかわらず、刃先はナマクラ、加えてビットの根方が折損してしまった。ぬぅ、結構高かったんだがコレ。しかし、古いものだからあきらめるよりほかにない。

 ドリルビットは家で修繕や工作をするのによく使うから、ないと困る。

 前置きが長いが、今日秋葉原に来たのは、これを買いなおすためだ。

 千石電商に行くと、目当てのスチール用のフルセット、21本組が2千円くらいである。これと、ドリルビット用の研ぎ工具も買った。他に、自転車用のLEDランプなんかが300円とかで売っているからこれも買った。こういうものがいくらでも売っているから秋葉原は好きだ。

 さて、秋葉原と神田は隣街とは言うも愚か、ほとんど完全一体不離の街と言ってよい。そりゃあ、せっかく来たのだから、昼めしは蕎麦に決まっとる。

IMG_3994 「神田・やぶ」も、もちろん見捨てるわけにはいかないが、ついこの前も行ったばかりだから、今日は御無沙汰している「まつや」だろう。

 まつやで焼き海苔を肴にとって、蕎麦味噌と一緒に一合、それから「もり」を一枚。かー、やめられまへんて。IMG_3995

 蕎麦を手繰ったらさっさと帰ろうと思っていた。万世橋の方向へだらだら歩き、神田川のきらめきを見ていると、ああ、そう言えば(つば)広の中折れ帽を長女に取られたんだったと思い出した。コッチはだんだんハゲてきてるっていうのに、長女のヤツぁ、親父の帽子を無心するとは。今日はだから、素頭(スアタマ)で出てきたのだ。愛用のカスケットは夏には暑いし。

 暑いし、ハゲに悪いし、思わず旧万世橋駅の煉瓦ガード、「mAAch エキュート」へ逃げ込む私であった。ここはひんやりと涼しいし、静かで、飲み物も食い物も、商品も洒落ている。IMG_3996

 上野へ行って帽子を買おうかと思ったのだが、面白そうだから浅草へ行ってやれ、と思った。

 押上の駅で降りて、ダラダラ歩いていく。吾妻橋の向うに名物「浅草ウンコ」が見えるから、橋のたもとで自撮りしたら、頭にウンコがくっついたヒドい写真になってしまった。IMG_4004_arrow

 ここまで来たのだから、「業平橋(なりひらばし)」を見てみようと思った。東武スカイツリーライン・東京スカイツリー駅というのは、これができる前は在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの地で、「業平橋駅」という小さな駅だったのだ。だが、この業平橋そのものの実物はついぞ拝まずに過ごしてきてしまった。いい機会だ。

 業平橋は本当に小さな橋だ。橋のたもとは、子供たちが遊べる親水公園になっている。IMG_4008

 小倉百人一首に

 ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くゝるとは

 また古今集に

 名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

 いずれも業平これを(つく)るとされる。

 業平橋を渡って隅田川の向うに下ったら、やっぱり威容を誇るスカイツリーの野太さが私を呼ぶ。実は愚娘(ぐじょう)どもが小さい頃から、何度も東京スカイツリーには来ているのだが、やっぱり「アホと煙は高いところが好き」なのである。そして私は、アホだ。

 たまたま小遣いを持っていたものだから、つい数千円払って、てっぺんまで上った。

 かねてから、今日は玉音放送があることを思い出していた。ぬぅ。

 スカイツリーのてっぺんに上ったのが14時30分頃。玉音放送は15時ちょうどから予定されていた。

 まず皇居の見えるスポットを探し、そこに位置を占め、宮城遥拝を実行する。IMG_4018周囲の観光客(鮮支英欧米ほか各人種多し)には、あらぬ方(皇居方向)に向かって深々と頭を下げている私がよっぽど変な人に見えたに違いないが、そんなもん知るかボケ。人が何しようがほっとけやアホンダラ。

 スカイツリーから遥拝する宮城は今日も緑の中におさまり、右に屹立する防衛省の電波塔、左に繁栄を謳歌する都心のビル群に囲まれ、今日も静謐に鎮座まします。

IMG_4021 愛用のスマートフォンのワンセグは、さすがに電波発信源の直下で受信しているわけであるから、もう、溢れんばかりのビンビン感度である。

 で、遥かに皇居を眺めながら、玉音放送をすべて見たのであった。

 畏し。謹んで大御心(おおみこころ)を承り、なんとしても国民一丸、挙げてこの問題に取り組むことこそ、御言葉に沿い、かつ国民にとっては「老齢化」ということへの対策となることでもあろう。

IMG_4034 御言葉に打たれたようになって粛々とスカイツリーを下り、押上駅から帰ろうと思ってフラフラ川沿いに出たら、橋のたもとで若いお兄さんが「十間(じっけん)川を船でご案内しますよ~、50分のクルージング~」と売り込んでいる。「川にスカイツリーが逆さに映るから、面白いですよォ~」という文句につられた。船着き場の近くにセブンイレブンがあり、そこでI.W.ハーパーのポケット瓶を買って乗ってみた。

IMG_4046 無邪気で気楽な昼の川見物で、鬼平犯科帳に出てくるような十間川を旧中川まで、ゆっくりと下るのだ。

 おお、確かに、これはスカイツリーが晩夏の暮れ加減の逆光の中、逆さに水面(みなも)に写って、まことに面白い。川風を胸元に入れながら、ハーパーのポケット瓶は瞬く間にカラになった。IMG_4038

 船着き場に帰り付いて、スターバックスでドリップのトール、冷たいハウスブレンドを一杯。

 今日はそんなことをして、なんだかダラダラと無計画に日を送った。