お辞儀

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 即位の礼に関するニュースなどを漫読していて、「カーテシー」という言葉を知る。

 カーテシー、カーツィ、コーツィなどとも書かれ、綴りは curtsy、curtsey のどちらでも良いようだ。

 これはつまり、ヨーロッパ流の「お辞儀」である。

 上体を折ったり、頭を下げたりする日本のお辞儀とはまた違って、バレリーナやヨーロッパの貴族の映像、フィギュアスケートの選手の演技後の所作など、色々なところでヨーロッパ流のお辞儀が行われていることを思い返す。

秋明菊(しゅうめいぎく)

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 蕎麦屋の帰り、葛西用水のほとりを歩いていたら、一叢(ひとむら)の花に行き当たった。

 なんという花か知らず、ともかく写真に撮り、持ち帰って調べたら「秋明菊(しゅうめいぎく)」という花だということがわかった。

 心ある人が植えているのだな、と思った。

ゲームや媒体(メディア)や手段や目的や読書や

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ともかくモザイクで遠慮して、
画像はイメージです(笑)

 婚活サイトのネット広告で、「ゲーマーの旦那さんください」というキャッチ・コピーのものがあって、思わずクスリと笑ってしまった。

 何故(なぜ)と言って、多分、ゲーマーの旦那さん、と言っても、ゲームは既に何千万本もの種類があって、ゲームが好きだからと言って必ずしも趣味が合うとは思えないからだ。つまりゲームは媒体(メディア)なのであり、趣味の合う合わないはゲームの内容による。

 パズルゲームが大好きな婚活女子が、念願(かな)ってゲーマーのイケメン高学歴高身長高収入男子をゲットしたら、これが殺人スプラッター血みどろ内臓破裂戦場シューティングが大好きという陰惨な男で、全然話も生活も合わない、なんて、単純にありそうな話である。

 どうしてそういうふうに思うのか。

 私は、ごくクローズドな範囲の、小さい読書コミュニティの世話人をしている。この2~3年ほどそこの中核メンバーである。

 ところが、単に「読書」というタイトルで人が集まっても、これがまた、話なんざ、全く合わないのだ。なぜと言って、それは簡単な理屈で、世の中に本は何百億冊とあるからだ。そして、その内容はすべて異なる。本はメディアに過ぎず、話が合う合わないはどんなジャンルが好きかとか、今どんな内容の本を読んでいるかということに依存する。これを仮に「小説が好き」というふうにジャンルを狭めたとしても、世の中にはこれまた何億という数の小説があり、単に小説が好きというだけでは話を合わせることが難しい。

 事程(ことほど)左様(さよう)に、一口に「読書」と言っても範囲が広すぎるのだ。そのため、当初20人近くいたコミュニティのメンバーはジリジリ減少を続け、今年はわずか5~6人ほどになってしまった。

 こんな経験から、漠然とした「読書」「本」という枠組みだけではどうにもならないということが私にはよくわかる。

 そこからすると、ゲーミングも読書と同じだ。今やゲームは、本と同じ「媒体」と見てよい。ゲームは新しい分野であるとはいえ、もう既に数十年の歴史を経つつある。

 こうして考えてみると、新たなものを何か考える際、それが「プラットフォーム化」「基盤化」「媒体化」したとき、はじめて、そこから十分なお金を安定して引き出すことができるようになるのだろう。

 かつて、「無線」は、それ自体が趣味や職業として成立し得た。アマチュア無線や市民無線(CB)の免許をとり、他人と話をすることはなかなか程度の高い趣味であった。話の内容なんか、どうだっていいわけである。「無線機を使って話をするということそのもの」に意味があった。また、無線従事者の資格を持つ者は職業として幅広い選択が可能であった。だがしかし、万人が「携帯電話」という名の無線電話を持つ今となっては、アマチュア無線などもはや風前の灯火(ともしび)であり、職業無線従事者も、放送局や電話会社、あるいは特殊な公的機関の中核技術者になるのでもない限りは、資格だけで食っていくことはなかなか難しい。

 同じことはかつての「マイコン」、現在の「パソコン」にも言える。これらは、かつてはそれ自体で立派な一分野で、趣味としても、職業としても成立し得た。だが、今やそうではない。パソコンはネットへの窓口としての安価なコミュニケーション端末か、安い汎用事務機器か、ゲームマシンか、そういうものに過ぎなくなってしまった。大切なのはパソコンで何をするかである。昔のように「パソコンが趣味です」などと言っても、ほとんど意味をなさない。パソコンで絵を描くのか、著述をするのか、音楽を楽しむのか、ゲームを楽しむのか、他人とのコミュニケーションを楽しむのか、その内容による。また、パソコンが仕事です、と言って意味をなすのは、PCの設計や製造、CPUの開発に従事している、アプリケーション・ソフトのプログラミングをしている、というようなことであって、完成品のパソコンを買い漁ったり、出来合いの電源やマザーを組み合わせてパソコンを組み立てたりしても、もはやコレクションとしての意味はおろか、趣味として形をなすかどうかすら疑わしい。

 自動車も似ている。かつては自動車の所有それ自体がステイタスの誇示であり、どこへいくという目的などなくとも、「ドライブ」ということそのものに意味があった。だが、今もし意味を持ったステイタスの誇示やドライブをしたいなら、1千万円を超える高級車でも所有して、外国のハイウェイでもブッ飛ばさない限りはなんの意味もない。これだけ普及すると、自動車は物を運ぶとか、人を乗せて仕事に行くとか、そういう実用的な「媒体」の一種でしかない。こうなってくると、大事なのは自動車を使って何をするかだ、ということになる。

 こうして、人間はいろいろな手段に熟達した挙句、ふと我に返って「私はいったいこれで何をしたかったのだろう」と自問するのだろうと思う。目的のない手段、魂のない科学、中身が薄い媒体、目標のない技術、こういうものが地球上には溢れかえっている。

 ここで道は二つに分かれる。次の二説だ。

 (しか)り、失われた目標と目的をどこまでも求め続ける苦行こそ人間の役割、所詮見つかりもせぬ目標や目的の奴隷であり続けることこそ人間たるものの至上究極の義務、という説。

 (しか)らず、目標も目的も所詮は虚しいもの、如何に久しくあれこれを(あげつら)いまた追うことぞ、ならば手段や媒体、方法そのものを楽しめ、という説。

 実はこんなことは、古くから先人が論述済みである。

 私は今、(りん)()(どう)(リン・ユータン)の「生活の発見」という著作を読んでいる。このところ耽読している60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第4巻に収録されている。

 林語堂は明治28年(1895)~昭和51年(1976)の激動の時代に生きた中国人著述家だ。現代の共産党中国に生きる人々とは違う、古い時代の中国人のものの考え方・見方をこの「生活の発見 The Importance of Living」で著述した。

 彼が述べる中国人の考え方や姿勢は、雑に言うことが許されるなら、「手段や媒体そのものを楽しめ」である。花鳥風月を愛でることや茶や酒や書や詩や絵画や道具や居宅、日月山川、そういうものを生活として再発見し、生活そのものに人間の存在意義としての価値を認め、それによって幸福に生涯を送れ、としている。

 しかし、西洋哲学はどうも違う。同じ全集シリーズの最初の方は、ソクラテスから始まって、ジョージ・サンタヤーナなどまでに至る西洋哲学体系であったが、これらは人間の目的、人間の精神の存在、魂や神など、形而上に意義と目標を求め続けるというような、そういうものであった。

 実は林語堂は、これを襤褸(ボロ)(カス)()き下ろしている。曰く、「一ソクラテスの生まれたことは、西洋文明にとって一大災厄であった」と。この一言に、林語堂の動かぬ立場のすべてが尽くされている。

 さんざんヨーロッパの形而上学を読まされた後だと、林語堂のこうした喝破(かっぱ)は、私などにとって、誠に心が安らぐものなのである。同様の安らぎは鈴木大拙(だいせつ)の「無心ということ」を読んだ時にも覚えたが、さすがに鈴木大拙はそこまで対立的ではなく、日本人的な理解と包摂の姿勢であった。

 もしここで、イスラムの古い哲学などを読むと、またいろいろと違うのだろうな、と思う。それには、ヨーロッパが十字軍遠征などを通じて持ち帰ったイスラムの膨大な書籍がどのようにヨーロッパの学問に取り込まれていったのか、ということに関する詳しい理解が下敷きとして必要だろう。

(かた)月見

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 うっかりしていて、十三夜が過ぎてしまった。

 天文学上の「望」は今夜だが、月見、なかんづく「(のち)の月」、俗に「栗名月」は去る10月11日の金曜日、旧暦九月十三日であった。

 忘れていた。

 昔の人は仲秋の名月だけを楽しんで後の月を見ないのを「(かた)月見」と言い、縁起が悪いとしたものだそうだ。

 確か金曜日の夜は台風が近づいていて、良い天気とは言えなかったがチラホラ月が見え隠れしていたのではなかったかと思う。だが、接近する巨大台風19号に気を取られ、とてものことに月を見ようかという気はしなかった。

ナメられる

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 自分自身の経験だが、オッサンになると誰も相手になんかしてくれなくなる。ティッシュ配りのネェちゃんニィちゃんも、ティッシュをくれなくなる。つまり時間が解決する、ってこったなァ。

 実際、道も聞かれなくなるよ、ジジィになると。

右左

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 来週の「さえずり季題」当番が回ってきたので、題を考え、文章を書いた。「私如き左党には……」云々と書いていて、「右翼で左党の佐藤」というのがなにやらツボにはまり、クツクツと忍び笑いを漏らす。

 俗に、酒呑みのことを「左党」という。大工が(のみ)を持つ時左手で持つので、左手のことを「(のみ)()」と言うそうだが、これを「呑み手」と洒落に転じ、呑む方の人のことを左党と言うようになったそうである。


後日追記

 このこと、右のツイートである。今日出題した。

台風17号

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 台風17号は日本海側を遠く過ぎていき、温帯低気圧に化けた。

 私の住まいあたりは、それにつれてみるみる暑くなってきた。今気温は30度を超え、湿度は70%である。

 低気圧というものは「左巻き」であるから、台風が日本海側を通ると、その東縁にある関東地方へは、熱い南海洋上の風がどんどん吹き込んでくるわけである。

 こりゃあかなわん、というところだが、風があるからまだしもである。

 逆に、太平洋側を通ると、台風一過後、北の冷たい空気が吹き込んでくるので、爽やかに空気が澄み、涼しくなる。

投稿日:

 明日は午後から雨だ。

 明日の朝家から持っていく傘を地面に叩き付けてへし折り、粉々に踏みにじってしまいたいと思うが、そんなことをすれば、明日の夕方濡れそぼって帰宅せざるを得ないのは自分である。

 政治だのなんだのより、そういうクソ面白くもない内的な事情の中で人間は生きるが、それを外的なものと混同している連中が、つまり、俺と違う連中が他人に迷惑をかけながら世の中を変える。

 まったく、実に迷惑だ。死んでほしい。

 雨は人を殺す。

玉簾(たますだれ)の花

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 千葉県での大停電など、記録的な被害を残した台風15号が過ぎた。一過後も暑熱が続いたが、2、3日を経てみると(そぞ)ろに寒さを覚えるほど涼しくなった。

 今の時季になると、折節路傍で見かける花があり、見かけるたび気になっている。

 その花の名を知らない。そこで写真を撮ってネットで調べてみた。

 この花は「玉簾(たますだれ)」というそうである。

 私の所有する歳時記には載っていない。未確認ではあるが、大きな歳時記には載っているようで、ネットで検索すると出てくる。

 どうやら夏の季語で、今は仲秋だから、当季ではない。

 英語で「レイン・リリー」と言い、直訳すると「雨百合(アメユリ)」となるが、これは文字通りひと雨ごとによく咲くからだそうである。「雨百合」とはいかにも切々たる情緒があって季語らしく感じられるが、残念ながら歳時記などにはこの名前では載っていないようだ。

 球根の花で、多少毒があり、放任でもよく育ち、咲くという。

 ……と、そこまで書いて、私も馬鹿である、去年の今頃、同じような記事をこのブログに書いているのであった。

 こうして調べ、記事まで書いたのすらもう既に忘れてしまっている。しかも、何年も前のことではない、たかだか去年のことである。