月: 2019年8月
ライオン・キング
妻と二人、話題作の「ライオン・キング」を、これまた話題の「4DX」で見てきた。朝イチ、午前8時20分から上映の席をとる。近所の「イオン・レイクタウン」のイオンシネマだ。8時40分と言うとまだイオンレイクタウンそのものが開いていないのだが、シネマだけはそのために一部の入り口が開き、入ることが出来るのだ。、
「ライオン・キング」は結婚した頃、妻といろいろなメディアで何度も見たもので、懐かしい作品の一つである。
作品は元のストーリーを忠実になぞり、かつ、最新のコンピュータ・グラフィックスで生々しく迫力のある映像美に作り変えられ、元の作品に勝るとも劣らない、実に見ごたえのあるものに仕上がっている。
4DXは映像が立体視できることはもとより、振動、座席の傾き、水しぶき、香り、煙、変わったところではシャボン玉による演出など、非常に楽しめるものであった。
パンフレット買ってご飯を食べて帰る。
山の日
土星月木星
ふと窓の外に月が煌々と照るのを見る。今日は十夜だ。
興が乗り、外に出て夜空を見上げる。煌々と照る月を真ん中に、左に土星が青く、右に木星が橙色に輝いて見える。
木星の大きいこと。オペラグラスを取り出して眺めてみると、中ほどに暗がりのような暗点があって、まさかこれが大赤斑ではあるまいけれども、ひょっとしてそうかなとも思わせる。
生身魂
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
生身魂
さえずり季題【453】は「生身魂(いきみたま)」です。生御魂、蓮の飯などでも。盂蘭盆会には故人の供養だけでなく、生きている年長者を生身魂と呼んで敬い、蓮飯などで長寿に感謝し祝います。巷は生身魂で一杯ではありますが。
生身魂生涯言はぬこと一つ(鈴木真砂女) #saezuriha #saezuriha_odai— yamanobe (@donsige) August 10, 2019
映画「アルキメデスの大戦」
今日は話題の映画「アルキメデスの大戦」を観に行った。
劇中で、主人公が映画の核心ともなる数式を得るシーンがある。近似式で、軍艦を建造するために必要な鉄の単位量あたりの経費を数理モデルにあてはめたものだ。
映画のストーリーはさっさと進むので、主人公が素早く黒板に書き出す数式をいちいち見ている暇はなく、細部はよくわからなかった。だが、主人公が紙や黒板にグラフを描き出すシーンがあり、ふとそれに注意を惹かれた。
そのグラフは「ある一定のところまでは鉄の単位量当たりの経費は増えていくが、ある一定量を超えると工作が単純となるため、単位量当たりの経費が漸減していく」というものだ。映画では一瞬だけ画面に出る。
これが、IT技術者が古典的な工数モデルとして慣れ親しんだ「Putnam(パトナム)モデル」と非常によく似ていた。
Putnamモデルというのは次のようなものだ。
Et: 某tまでの累積工数
E: 総工数
td: が最大となる時刻t
このモデルをグラフにとると次のようになる。
このPutnamモデルを積分すると、「S字成長曲線」に似ることもよく知られるところだ。逆に言うと、S字モデルを微分するとPutnamモデルに似た曲線になるのである。
工数はそのまま金額に比例するから、映画のシーンを見ていて「おっ、これは」と感じた。
帰宅してから、映画のサイトや他の方のレビュー記事などを見ると、主人公が黒板に書き出す数式は実数の定数の他は1個の説明変数があるだけのシンプルなもので、自然対数が現れる「レイリー分布曲線」を使用したPutnamモデルとは違うことがわかり、ちょっと肩透かしを喰った気になった。
なんにせよ面白い映画で、いろいろと考えさせられるところ大であった。
長崎原爆忌
原爆忌である。悲しい哉。
幾十万の魂魄よ、
いつの日か、アメリカ人には必ず悔恨させる。200年、いや、300年先、ことによると1000年先になろうか。
読書
引き続き60年近く前の古書、平凡社の世界教養全集第3「愛と認識との出発/無心ということ/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」を読んでいる。
第1巻から延々と西洋哲学を読んできて、この第3巻でやっと日本人の著作に来たと思ったら、よりにもよって最初が倉田百三である。
ドイツ哲学へドップリ傾倒しつつなぜかプロテスタンティズムへも我が身をなすり込んで慟哭し、しまいには親鸞に
そこへ、やっと来ました、鈴木大拙師の「無心と言うこと」。
心に沁みる。疲労がたまりにたまっていたところへ、温かい茶を一服のむような安らいだ感じがする。この達観、達意。どうだろう。
この「平凡社世界教養全集」、38巻あるうちのまだ3巻目に手を付けたにしか過ぎないが、当時の編集陣による配列の妙に驚嘆せざるを得ない。
言葉
一竹葉堦を掃って塵動かず
本書の文中には
よく禅宗の人の言う句にこういうのがある。
「
一竹葉 堦 を掃 って塵 動かず、月 潭底 を穿 ちて水に痕 なし」
……というふうに書かれているが、どうも「一竹葉」というところなどが「……?」と思えなくもない。
検索してみると、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕」(
意義は読んで字のごとく、竹の影が石の
この泰然自若、この不動、不変。自称「改革派」などに聞かせてやりたいと思う。
止揚
そういえばこの言葉、以前にどこかで見たなと思った。開高健の「最後の晩餐」で読んだのだった。
ドイツ語の「
……今の哲学者の言葉で言うと、揚棄するとか、止揚するとでもするか。
応無所住、而生其心
「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」と
ところが無住ということが『金剛経』の中にある、『般若経』はどれでもそういう思想だが、ことに禅宗の人はよく「応無所住、而生其心」と申します。よほど面白いと思うのです。
で、この言葉の意味よりも、「応」という字は確か漢文では「再読文字」なのだが、忘れてしまっていて、パッと
これは「まさに~べし」である。
漢文を読んでいると、この「応(まさに~べし)」もよく出てくるが、他に、
- 「将」(まさに~んとす)
- 「且」(まさに~んとす)
- 「当」(まさに~べし)
- 「須」(すべからく~べし)
- 「宜」(よろしく~べし)
- 「未」(いまだ~ず)
- 「蓋」(なんぞ~ざる)
- 「猶」(なお~がごとし、なお~の
- 「由」(なお~がごとし、なお~のごとし)
ごとし)
……なんてのがあって、覚えておきたいが、……いや、忘れる(笑)。忘れるからここに書いとく。
兮
これもなんだっけ、再読なんだったっけどうだったっけ、……と少し考えてから、ああ、「而」なんかと同じ「置き字」だった、……と思い出す。それほど気にして読まなくてもいい字だ。音読は「兮(ケイ・ゲ)」である。同じ置き字でも、「而」などは「て」とか「して」と
本文中には
大道寂兮無相、万像窃兮無名。
……とあった。
表詮
ネットではこの語の意味はわからず、手元の三省堂広辞林を引いても見当たらず、同じく手元の「仏教語辞典」を引いてもわからなかった。
但し、「表」は見た通り「
……道元禅師が静止の状態を道破したとすれば、この方は活躍の様子を
表詮 しているといってよかろうと思います。
肯綮
「腱」のことのようである。転じて、ものごとのポイント、そのものずばりの急所のことを「肯綮」と言うそうな。
- 肯綮に当たる(ことわざ図書館)
……また甲と乙と同じ世界だ、自他あるいは自と非自というものが一つになった、それが実在の世界だといっても、どうも
肯綮 に当たらぬのです。
箭 新羅 を過ぐ
これがまた、検索してもサッパリわからない単語である。
……動くものが見えるときには、対立の世界がおのずから消えてゆく、すなわちこの世界は
箭 新羅 を過ぎて作り上げたものになってしまう。
唯一、このサイトに解らしきものがあった。
- 箭新羅(丁福保: 佛學大辭典)
(譬喻)新羅遠在支那東方,若放矢遠過新羅去,則誰知其落處,以喻物之落著難知。
「(
……とでも
そうすると「この世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう」という文は、この世界は目標や着地点がまったくわからないまま作り上げられたものになってしまう、……という意味になろうか。
本書中では「
只麼 にいる
これもまた、実に難しい言葉である。
……独坐大雄峰とは、ここにこうしている、ただ何となくいる、
只麼 にいるということ、これが一番不思議なのだ。
蹉過 了
「
- 蹉過(コトバンク)
してみると、「蹉過了」というのは「蹉過し
……これほど摩訶不思議なことはないのだ。こうしているというと、もうすでに蹉過了というべきだが、しかしそういわぬと、人間としてはまた仕方がない。
立秋
毎日身に応える暑さである。
だが、昨日の朝、出勤時には羊雲を空高くに見た。蒼空が日に日に高くなる実感がある。そして、日が短くなっていく実感もまた、ある。
昨日の夕刻、帰宅する頃、風にはどことなく秋隣が感じられた。無論、依然熱帯夜続きではあるのだが。
さもあろう、今日は既に「立秋」だ。月はちょうど上弦の半月。